短編小説

2005.09.24

『二杯目のコーヒーのあとで 』(九枚)

 娘は知らないだろうけど、我が家のコーヒーメーカーは結婚して新居を構えたときに買った最初の品のひとつだ。
 思い出の品、というほどのことはないけれど。
 漏斗とガラスのポットがセットになった、いちばんシンプルなもの。ポットはとうに割れてしまって、陶器の漏斗だけが、引っ越したあとも我が家にある。
 仕事から帰ってきた二十五歳になる娘は、いつも自分のコーヒーを淹れる。
「お母さんも、飲む?」
 決まってきかれるけれど、私の答えも決まっている。
「一杯だけで豆を捨てるのはもったいないでしょ、薄いくらいが好きだからそのまま淹れて」
 飲むのなら豆を二人分用意するけど、と娘は最初こそ言ったのだけど、私が絶対にうなづかないのをわかって言わなくなった。
 そうして娘は一杯目の、私は二杯目のコーヒーを飲む。
 パートタイムを終えた私と、派遣社員の仕事から帰った娘の、ほっとひと息をつく瞬間だ。


 私は夫と六年前に離婚した。
 夫の暴力が原因だ。
 博打が好きで、あれやこれやと賭け事に手を出し、借金を作った。麻雀、サイコロ、珍しいのでは闘鶏や闘犬での賭博にまで手を出していたらしい。そんなものがあることさえ、若い頃の私は知らなかった。夫が賭け事に弱いのか、騙されるのか、たしかなことはわからない。でも騙されるほうだろうと思う。気が良すぎる人だった。だからそれが裏目に出て、親切に金の融通を申し出られるとすぐに甘えてしまうのだろうと私は思っている。
 でも気が良いのは、反面、心の弱さでもあった。
 家に入れるはずのお金をすってしまう。そればかりかわずかな蓄えも博打につぎ込んでしまう。娘の小学校の給食費も払えないことが年に何度もあり、恥ずかしかった。多感な年頃の娘はなおのことだっただろう。
 貧乏には耐えたが、夫がやがて暴力をふるうようになって、私は恐ろしくなった。
 私のことはまだいいが、娘が中学、高校となると、荒れた父親のいる家には寄りつきたがらなくなり、友達の家に夜遅くまでいるようになった。それを夫が厳しくとがめる、娘は反発する、それでも夫は娘に手を上げることはなかった。愛情を持っていたのだと思う。しかし、私には娘の見ていないところで手を挙げることがしょっちゅうになった。
 離婚を決意したきっかけは、娘が外泊をしたことだった。初めて、夫が娘に手を上げた。大学の推薦が取れた十月のことで、娘は友達の女の子の家に泊まって、私も許可を与えていたのだが、夫には知らせていなかった。賭博で家にいなかったから。この日は隣県まで出かけての闘鶏賭博だった。
 自分に無断で外泊したのが気に入らないということらしい。夫が娘の頬を張り、高い音がした。
 許せないと思った。私にばかりじゃなく、娘にまで。
 自分の心が弱いから、だらしがないから、このようになってしまったのでしょう。そう思い、叩きつけるように思ったままを夫に言ってしまった。
 結局、夫の暴力は私に向かい、頬を真っ赤に腫らした娘が泣きながら止めに入ることになった。
 そこで私はもうとっくに限界が来ていたことを悟ったのだ。
 築三十年という中古アパートに家財道具も持たずに引っ越したのは、娘の高校が卒業式までの自宅学習期間に入った一月のこと。このときしかないと思った。夫には何も告げずに出た。家の中にいたら離婚の話し合いなどできるはずがないと思ったからだ。
 娘が大学に通うようになって半年経った頃、間に人を立てて離婚を申し出た。夫は意外にもすんなりと了承した。離婚届に判子をもらい、一日で荷物をまとめて――とはいっても、もうアパートのほうで必要なものはあらかた揃えてしまっていたが――二十年以上を過ごした家を出て、それで夫との時間は終わったのだ。
 それが今は娘も大学も卒業して二年、派遣社員の仕事をしながら国連英検の資格を勉強している。
 子どもだと思っていたのに、いつの間にかたくましくなった。
 それに、母親の身びいきかもしれないが、美しくなったと思う。会社では男性から秋波を送られることなんかもあるのかしら。二人っきりの狭いアパートで夕食を取っている時、さり気なく聞き出そうとするのだけど、娘ははぐらかして何も教えてくれない。言わないということは、何もないわけではないのだろうと思うし、まだ親の出る幕ではないということなのだろうとも思って安心するような、もどかしいような気もする。
 年頃になった娘に引き替え私のほうは……。
 老いた、と思う。
 まだ六十歳にまで幾年か、ある。でも同級生とたまの電話などすると、何人目の孫ができたなどという話になることも珍しくない。孫という言葉はひどく老いを意識させる。
 三面鏡の前に座ると、鬢(びん)のあたりに白いものが目立つ。
 世間では、五十代ではまだまだおばあちゃんなんて呼ばれないけれど。私だってウィンナ工場のパートタイムで働いている時や、同僚と遊びに行くときは若いつもりでいる。そうでなくちゃ働けない。でも、心のどこかが老いたのを感じる瞬間が、ときどきある。週に一二度、いや、もっと多い。
 いつか私の娘も結婚するだろう。近々数年のうちに、などということはないかもしれないが、いずれきっとその話がでる。
 私はそのとき、ほんとうに自分の老いに向かい合わなくてはならないのだ。
 娘が自分の家庭を持ち、子を産み育てる時、私はどこにいるだろう?
 一緒に暮らしているだろうか、それともこの小さな古いアパートに住み続けるだろうか……。
 一人のほうが気楽でいい。そんな風にも思う。

 今日も私が先にパートから帰って、テレビを見ているところだった。
 そこへ娘が帰ってきて、いつものように台所でコーヒーの用意をする。
「お母さんも、飲む?」
 この呼びかけはもうすっかり習慣になった。
「お前が淹れたあとの豆でいいよ、薄いくらいが好きなんだから」
 私も答える。
 いつもの、二杯目のコーヒー。
 そこに、電話が鳴った。
 娘がすぐに受話器を取った。もしもし……と言ったきりしゃべらない。
 何か緊急の連絡だろうか。
 とりあえずテレビの音量を小さくしようと私は腰を浮かせた。そこへ、受話器の通話口をおさえたまま台所の引き戸を開けた娘の声が届いた。
「藤尾の伯母さんから。お父さんが死んだって」
 お父さんが、死んだって――
 娘の声が、こわばっていた。
 私は、何と答えただろう。
 わからない。
 わかったのは、娘からの知らせに衝撃を受けている私がいること。もう夫とのどんな関係も途切れたと思っていたのに。
 今日までの自分の時間がまだ夫とは完全に途切れていなかったのだということを理解した。どこかで夫が生きていて、自分も生きている、こんな時間がまだずっと続くのだと思いこんでいたことに気づいた。
 私の夫との時間は、離婚で終わったのではなかった。
 今日、この時に終わったのだ。
「コーヒー、まだ飲むよね」
 娘の声に感情がほとんど残っていないことに気づく心の余裕は、私にはなかった。
 ただふと、もう戻らない時間のことを考えたくなった。
 思い出してみたくなった。
 コーヒーメーカーを買って、二人分の濃いコーヒーを淹れたことを。
「やっぱり、新しい豆で淹れてもらおうかしら」
 娘は少し呼吸を置き、わかったとだけ答えた。

 気づくと、娘がちゃぶ台の上に私のコーヒーカップを置くところだった。
「はい、コーヒー。どっちも一杯目」
 湯気の中に香気がこもったコーヒーだった。
 目をつぶって香りを少し楽しんで、口をつけた。昔恋人だった人に、音を立てないのがお前の上品なところだね、と言われた日を、なぜか今は思い出せる。その人はやがて夫になり、それから他人に戻ったはずだった。
 コーヒーはおいしかった。
 結婚したばかりの、いつかの日と同じ味であるはずはないのに。
 私はどうしても同じコーヒーを味わっているように感じられてならなかった。
 おいしい、と言うと、娘がそうでしょう、とやんわり相好を崩した。そこではじめて、彼女の顔がさっきまで不自然にこわばっていたのだと気づいた。
 ちゃぶ台に、私の洋服ダンス代わりのポリの抽斗、衣紋掛け用の立て掛けハンガー、それから小さなテレビ。そこに二人で座っている。
 テレビの画面に住宅のCMが映っている。青空に雲、新築の家。肩を寄せた若い夫婦。そこに虹がさっとかかり、夫婦のそばに魔法のようにチリンと音を立てて娘が、息子が現れる。幸せそのものの顔で見つめて笑い合う。
「贅沢しちゃったね、わざわざ豆を換えてもらって」
「いいんじゃない? 私はいつも新しい豆の方がおいしくっていいと思うけどな」
「そうかもしれないね」
 続けて私の唇がぽつんとつぶやいた。
「結婚したばかりの頃は、よくこんな贅沢をしたっけ……」
「ふうん」
 娘が私のほうに珍しいものでも見るかのような目を投げかけている。
 私が昔を振り返るのが、そんなに不思議かしら。
「お父さんのこと、好きで結婚したんだもんね。どうして許せなくなっちゃったのかな」
 なんでもないことのように、小さく娘が言った。
 たしかに彼女にとってはなんでもない疑問だったのだと思う。それだけに長い間ずっと心のどこかに持ち続けていた疑問だったのかもしれない。
 それが今、ふと口をついて出たということなのだろう。
 でも、私はその言葉に、突然の胸の痛みを感じた。

 ――どうして許せなくなっちゃったのかな。

 許さなかったのは、私だったのだろうか。そして許されるべきなのは、夫だったのだろうか。そうだと、ずっと思ってきた。娘は今もそう思っている。でも、どうして私はこの言葉に傷つくのだろう。
 たしかに、自分は夫を許さないと思ってきた。
 でもいつのまにか、それが変わっていたのではないだろうか。
 自分こそ、夫に許してほしいと思うようになっていたのではないか。
 妻を殴ってしまう弱い夫の心を救ってやれなかった。見切りをつけたふりをして逃げてしまった。いつのまにか、許せないのは自分自身だと思うようになっていたらしい。
 夫が死んだと聞いた今、やっとこの瞬間になって、そのことに気がついた。


「お母さん、これからお父さんのところに行くけど、一緒に行く?」
 娘の声がする。
 私はかぶりを振るだけだった。
 亡くなった夫にはいつでも語りかけられるのだから。
 私は夫に許してほしいとは言わなかったけれど。これからゆっくり話そう。昔のこと、今のこと、これからのこと。
 ひとつ、思い出したことがあった。私がコーヒーメーカーのガラスポットをうっかり割ってしまったとき。大丈夫かと言って私の怪我を心配してくれた。指を切ったかもと言ったら両手で包んでじっと見つめてガラス片がないかどうかたしかめ、それから絆創膏を貼ってくれた。それから黙ってかけらをすべて拾い集めて破片を掃き、冷めかけでもうまいよとコーヒーをすすって笑った顔。
 そそっかしい私をいつも夫は許してくれていたのを思い出した。
 ポットは割れたけれど、淹れたコーヒーはいつもおいしくて。
 でもいつからか私は夫を許さなくなり、倹約という名目で出がらした豆でしかコーヒーを飲まなくなり、あの頃のコーヒーの味も忘れて。
 私は、老いただろうか。
 いやそんなことはない。
 ひとつの幸福な私の人生が終わり、そして今、生まれ変わったのだ。
 娘の車のエンジン音がして、遠ざかっていく。
「さようなら」
 小さくつぶやいてみた。

 とうに飲みきった白いカップの底には、ほんの少しだけ、未練のようなコーヒーの色。


-了-


(※「羊の葉結み」http://www.s55.net/~hitsuji/ 投稿作品)

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.06.04

『そらとくものあいだに』

 イグニッションキーがカシュと回る。エンジンが点火とともにブルンと目覚めの声を上げるのを聞く。この音がいつも気持ちいい。僕はシートに背を持たれていつもの姿勢になる。右手一つでシートベルトをはめ込みつつ、目では三つのミラーを確認している。オートマチックのギアをドライブに入れてサイドブレーキのレバーを下ろす。
 僕の体と心が、鉄の塊に運ばれていく。
 日常に疲れると、僕はいつも車を走らせて僕そのものを連れ去ってしまう。どこか知らない場所に、いつもは通らない道へ。曲がったことのない曲がり角を曲がり、目にしたことのない標識の地名の漢字の読みを覚えつつ。どこかへ。誰でもない僕に会いに。
 両親の絶え間ない罵りあいが今日はことのほかひどかった。僕は小さい頃のように泣き叫んで二人にとりすがることなしに、黙って玄関に向かった。すっかり習慣になった。何もかもが無駄なんだと叫びたい気持ちを、僕は僕を失うことで忘れようと試みるのだった。
 気がつくと、スピードメーターは時速八十キロメートルを超えていた。夕方というにはまだ時間があったが、片側三車線の幹線道路にはそこそこの車が走っていて、追い越し際に何度かクラクションを鳴らされた。
 大きな交差点に進入する直前で、信号が黄色に変わった。停止するかどうか一瞬ためらい、ブレーキングが中途半端になる。僕が進入したときには完全に赤になっていて、対向車線の右折待ちしている車が鼻っ面をこちらに向けて来ていた。左のドアミラーを十分の一秒だけ横目で見てバイクが来ていないのを確認しつつ、左折することにした。キュククとタイヤがすり減る音がした。
 西に百キロメートルほど行けば、海に出るはずだった。日本海だ。
 僕はそのまま車を走らせ続けたけど、べつに日本海を見たいと思ったわけじゃない。いつもならちょっと変わった地名や、見覚えのない飲食店の看板なんかで適当に道を外れて、日常の外側にいる自分を少しの間だけ眺めるだけだ。そこにあるのは、「であるべき自分」でもなく「しなければならないことをさせられる自分」でもない。「ほんの偶然と気まぐれの結果、たまたまここにいる自分」だ。僕にはそんな自分になれることが必要で、そしてそれ以上のことは望んだことはなかった。
 曲がりたいと思った角を曲がってもよいと思えるのは、うれしかった。ここではないどこにでも行けると思うだけでもうれしかった。だから僕は食事の時も大学の授業の時も、目につく場所に必ず車のキーを出しておく。紛失の元だから気をつけたほうがいいよと顔と名前の一致しない女子の誰かが言ってきたことがあったけど、彼女にはそれが単なるギザギザのついた鉄片にしか見えていないのだ。僕を違う僕に変えてくれる物が、他人にはきっとそのようには見えないだろうことを、僕は理解する。
 日本海に行こうと思えば行ける自由があることが、僕をとても満足させた。そして同時に思った。それを実際にやってみるまでは、自由が本当にここにあるのかどうか、証明できはしないのだと。それに気づいてしまったから、僕はじっと前を見据えてアクセルを踏むしかなかった。アスファルトが赤黒く染まり、テールランプの赤が漁り火のように見え始めていた。漁船の灯りに集まってくる魚は、暗闇の何かが怖くて助けを求めてやってくるのだろうか。その先に本当は救いが待っていないとは知らずに。
 窓を開けると潮の匂いが喉の奥まで入って来て、むせそうになった。この匂いを初めて嗅いだのは小学校に上がる前、姉や弟と一緒に両親に連れられてどこかの海に行ったときだ。姉はとうに親たちに愛想を尽かして出ていき今ではどこぞの彼氏と籍も入れずに暮らしているとかと聞く。弟は受験が終わったらバイトして出ていくと僕にこっそり打ち明けて、今は四六時中ヘッドホンをして食事の時もぼんやりした目で体を小刻みに揺らしている。それぞれの自分でない場所があるものらしい。坂道を下った先にある海は、太陽が小指の半月の大きさになってさよならを告げていた。紺色の大気は秋の冷たさだった。
 眠りを知らずに漂ってくる雲は、僕にはよく見えない向こうの面をちりちりとオレンジ色に焼かれ、意思の読みとれないアルカイックスマイルを何十も空に浮かべたようだ。道はこの先の崖できついカーブになるようだ。ガードレールに不等号のような形の反射材が貼り付けられた黄色地のスクウェアがいくつもいくつも並んでいる。助手席のわきを次々に通り過ぎるそれに、僕はオルファカッターのチキチキ音を重ねていた。
 このまま空と雲の間に飛び出して行けそうな気がする。
 それができないと僕は知っているつもりだけど、証明するには、試みるしかないのだともやはり知っている。実行するのは簡単だ。このままブレーキにかけた足を下ろし、代わりに右隣にあるアクセルを踏み込んでみればいい。
 そんな自分の心を見つけて、僕はぎょっとする。いつか交通事故の現場で見た、路面に長い尾を引いたタイヤ跡、流れ出たオイル、その先にあるひしゃげた鉄塊、数十分前に僕のいる位置で起こった死を想起させずにはおかない警官と非常灯と路面の白線。そんな映像がモノクロームでフラッシュバックする。
 従姉が二十歳で病死したときに、父も母も泣いていたのを思い出す。一生懸命に病気と闘ったんだ、偉いよ、と言いつつも、僕たち姉弟をしっかりと両腕に抱きしめて、親より先に逝くほどの不孝はないんだと説いて聞かせた。あの頃の家族はもう失われてしまった。でも、僕はあの時の父と母とにした約束を破るわけにはいかなかった。
 減速してゆっくりとカーブを過ぎ、抜けるときに再びアクセルを踏み込む。いつもの手順を踏んで、僕はいつもの僕に戻った。家に帰る道を選び、坂道を上るとき、天高く半月が見えていた。あの月は太陽に焼かれる半面と、光の当たらない半面とで二百二十度以上もの温度差がある。まったく異質の二つの世界を月はつねに持ってそこにある。だから僕は月という天体が好きだ。
 半月に見つめられながら帰る道は、来たときより短かった。
 明日は洗車してやろう。
 駐車場に入る。ベルトを外して、尻をすべらせるようにして外に出る。潮の匂いはもうしなかったが、夏の名残の草いきれが鼻に残っている気がする。フェンスのわきに生えたエノコログサの下でエンマコオロギのオスがホロホロと鳴いていた。僕はほっぺたをふくらませて舌をすぼめた唇の手前で動かし、コオロギをまねてみた。コオロギがぴたっと鳴きやんだところをみると、まんざら似ていなかったわけじゃないのかもしれない。ただの偶然かもしれない。時はもう戻らず、どちらだったのかを確かめることは二度とできない。
「ご苦労さん」
 車のボンネットを軽く叩くと、夜の冷気の中、僕の掌にじんじんと熱が伝わってきた。
 家の台所の明かりに母とは違う影が映っていた。頭一つは大きいので外から見てもすぐに父だとわかる。父はいつもの自分に嫌気が差すと決まって料理をする。今晩はさぞ食材をふんだんに使ったディナーが味わえるのだろう。そして車のキーをしまった僕と、ヘッドホンを外した弟とが、大量の洗い物を命じられるのだ。きっと玄関を入ると母が家族の靴をひとつひとつ丁寧に磨いているだろう。誰のおせっかいか知らないけど、そんなとき偶然のふりをして姉が徒歩十分の安アパートから家にふらっと戻ってきたりするのだ。


-了-


※だいぶ前に書いたものです。タイトルを決めて、それぞれが違うお話を書く、という企画で書きました。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.03.22

『earthworm』(20050322)

「視神経はたったの百万本しかないんだってね、江西、知ってた?」
 唐突に言われてとまどう。創二は私の顔を見ずに、寝ころんだ病室のベッドから外を見上げていた。
「私の知識にはなかったよ。覚えとく。視神経は百万本」
「たったの百万本、だよ」
 何事にもあっさりした創二がこんな風に言うのは珍しい。私に何かを求めている、たぶん、理解を。私はときどきやってくるこの瞬間が嫌いじゃない。だが、私はいつもこの瞬間が怖い。私が彼を失望させるかもしれないことが怖い。決して表には出さないけど。
「不満なの」
「そう、不満」
 私はふう、と息を吐いた。
「二度見れば? はい、これで二百万本」
 創二が私の目を見た。相変わらず髪も瞳も色素が薄い。創二の生命力の薄さを表しているように思える時がある。まるで落葉したばかりの褐色。
「二人で見ても二百万本だね」
「そうだよ。お前は賢い」
 私よりも賢いお前が私に頼る必要なんてない。そういう意味。創二はわかっているのかいないのか、返事をしないけれど。
 私はわかっている。
 百万本が倍になっても、いや、百万の百万倍になっても、創二の不満は何も変わらないのだということを。
 私は創二を慰めることはできないけど。この部屋に創二を置いて去る前に、言葉を残していくことしかできないけど。
「不満なんだろ。見えないことの方が多い。できないことの方が多い。知らないままのことの方が多い。そういうこと何もかもが」
 沈黙しているのは肯定の意味でいいの?
「それが不満だとしたら、お前の感じる不満は人間全部、いや、生き物全部の不満だな。……私の代わりにお前が感じてくれているって、そんな気がした」
 私が創二のことを理解しているのかどうかも、私には自信がない。
 でもこいつは時々、重すぎる荷物をわざわざ見つけて背負い込んでいるような気がすることがある。
「生きていること自体が余分なことなのかもしれないね、江西。ほんとは、何も知らないっていう状態がいちばん自然なのかもしれない」
 一呼吸する間にも、創二はどんどん行ってしまう。置いていかれることが怖いのか、私は。それとも創二がこの世界の境界線を踏み越えてしまう気がしているのか。
「生きるっていうことは、少しだけ知ることだよ」
 病室にいられる時間はもうない。
 創二は上半身を起こして、今度は窓から地面を見つめた。
「蚯蚓を飼ってみようと思う」
 このとき、私は創二の中に私の言葉が作用したのを知った。
 創二は続けた。
「蚯蚓は俺たちよりも少しだけ知って生きる。自分が飼育されていることは知る必要のないことだから、知らずに生きる」
 ふいになぜか、私の中に創二の淋しさが流れ込んでくるような気がした。
 薄く開いた唇に口づけたいと思った。
 その口が、後ずさりして病室のドアから出る足に促されて言う。
「あんたに戻ってきてほしいと思っているヤツは多いよ」
「クラスの全員かな?」
「ああ、全員だ」
 きっと創二は引き留められてあきらめた旅人の顔をすると思った。
 だから、ドアを閉める時に見えた表情を私は意外に思い、そして長く忘れなかった。
 教室から逃げ出したいと思ったんじゃないかったの?
 創二は、やわらかな笑みを浮かべていた。
 まるで、待っていた言葉をやっと言ってもらえて安心したとでもいうような。
 その印象はきっと私の自意識の過剰が植え付けたものに過ぎないのだろうけれど。
 でも目の前二センチにある閉じたドアから体を引きはがすのにとても手間取ってしまった。


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2005.02.18

『指人形の夜』 (五十二枚)

 お気に入りの古い指人形だったが、野に放ってやることにした。
 森がいいと思った。
 春の終わりの今の時期、古い森は陰鬱さをほとんど隠してしまっているだろう。人形たちは好奇心を満たすに違いない。
 孫娘のチェシスカと森に入った。
 小さいチェシスカが迷わないように、不安にならないように、私は節くれ立った手でやわらかで血色のよい手を引いてやった。
 森の中は風の音もない。日もほとんど差さない。湿り気の多い地面を踏んで歩く。ときおりじゅぶじゅぶと落ち葉の隙間からあぶくが立つ。
 聞こえる音は足音のほかには、一族の女が装束につける飾りの金属片がちん、かちゃりと立てる音だけ。伝説では、私たちの先祖はその昔、ひとつがいの鳥だったのだという。。チェシスカと私とひとつずつ身につけたその飾りは冠のような羽毛を頂いたその鳥の形をしている。私たち二人は飾りの鳥たちのおしゃべりに耳を貸さずに歩みを進めた。
 肩から提げた布のかばんを手でなでると、ごつごつとした手触りがあった。指人形たちだ。
 私たち一族は放浪を続けてきた。人形をたくさん連れて。街に立ち寄るたびに細工物や金物修理、そして人形の寸劇で多少の銭を稼ぎ、生活に必要な最低限必要なものだけを買い込む。暖かくなると春を追って北へ、寒くなると秋の風に乗って南へ、旅から旅に暮らしてきた。物心つくと、男も女も木彫りを覚える。指人形も作る。木彫りの胴に、同じように木か、布または固く焼いた粘土で頭を作ってやり、上質の布と糸とで衣装を作ってやる。一年にひとつかふたつ作る。人形に命を分け与えるまじないをするのが習わしで、何年か身につけた衣類の切れ端などを頭に埋め込むか、衣類に縫い込んでおく。ずっと昔には人形だけではなく、さまざまな像を造った。一族総掛かりで人の背丈よりも大きい、神や精霊を象ったものを生み出した。今でもそれら大昔に造られたものたちが、秘密の場所に隠されて眠っている。
 かばんの中に入れてあるのは私がずっと昔に作った指人形たち。悪魔、キツネ、ネズミ、男、女、老夫婦、娘、少年、赤ん坊、骸骨……。ここにあるほかは、みんなもう先に野に放った。今日は私の最後の儀式となる。チェシスカに教えてやる一族の儀式もこれで最後だ。昔ながらの生活に別れを告げて街で暮らす彼女の両親に代わって、私が伝えなければならない。一族の後継者はもう私とこの子しかいないのだから。
 小さなチェシスカの手が、握る私の指先に規則正しい脈動を伝えてきていた。儀式に緊張しているのだろう、脈は少し速い。
 何時間か歩いて、途中でかなり遅い昼食を取った。またさらに歩き、奥まった場所に出る。
 私のほかにはもう誰も知らない、そしてこれからはチェシスカだけが知るようになる場所。
 一本の老いた巨木がたっぷりと空間を占めている。幹は年月の重さで曲がっている。枝葉はまばらになってその上に乗っている。節くれ立った無数の指のような枝の隙間からは薄明かりが差しており、その光が育てたのか、あたりは厚く苔の緑で、またところどころから老木の子孫の若芽が顔を覗かせている。
 じきに、世代は交代するのだろう。
 孫娘と並んで大人の胴より太い根に腰掛ける。森の古老のこぶのように盛り上がった根の蔭から羽虫がいくつか飛び立って、私の頬の横を通り過ぎていった。緑の苔の絨毯が地面を覆っていてあたりは水っぽい匂いに満ちている。
 もうすぐやってくる夜に備えて、チェシスカが手提げカンテラを灯す。ぽっと人工の光が生まれた。火が小さく落ちつくまで、光と熱とが森を驚かせないようにそっと掌で覆って。煤の匂いが一筋、森のそれに混じる。
 この子の母親に乳を含ませたのがまだ昨日のことのように思われる。だが、月日は潮のように遠ざかっていった。我が子の面影を強く残したチェシカに昔の匂いをわずかに感じ取る。
 この子はそういえば先日誕生日を迎えた。八つになったはずだ。肌は私に似ず浅黒い。でもこの年頃は野山を駆け回るからこれが普通だったのかもしれない。眉が濃い目の色でまっすぐに伸びたところは私にそっくりだ。
 時間を計りながら、私は孫娘に話しかける。言葉をつむぐと、世界が急に私たちの元に戻ってくる。
「よいか、チェシスカ。人形は我が魂の分かつ身である。つまり私の命そのものがここに入っている。野に放てば、人形は己だけで生きるだろう。自由に、行きたい場所に赴き、見たい物を眼に映し、やりたいことを為すだろう。時には人に害悪を及ぼすことも、悲しいけれど、ある」
 これから野に放つ指人形だって、もしかしたら悪いものに変わってしまうかもしれないのだ。
 言おうとしたその言葉を私は飲み込んでしまい、声にはならなかった。
「お前の人形も何十年か経ったら、こうして放ってやるとよい。だから、これからする儀式をよく見ておくのだよ」
 語りかけると、いつもの口数の多さはどこへやら、孫娘は黒い瞳をわずかに潤ませて無言で頷いた。
 私たちの祖先は何度も海を渡って今の土地へ来たという。以前は西の方に、さらにその前は南のほうにおり、定住の生活をしていたというが、その頃の記憶はすでに一族に伝わっていない。私の記憶も、チェシスカの子には伝わらないのだろうか。
「私たちの一族は、旅から旅への見世物で糧を得ていたのを知っているね。昔は指人形だけではなくて、たくさんの人形が私たちとともにいたのだよ。大蛾の繭糸を使った操り人形、ネジとゼンマイで動くカラクリ人形、恐ろしい呪いを吹き込まれた人形なんかもあったのさ。世の中が豊かになって、また少し平和にもなったから、それらの人形は隠されて眠っているがね。ともあれ、私たちは人形たちに命を与える力を持っているということ。たったのちっぽけな指人形ひとつでも、変わらない」
 満月が老木の幹に青白い光を投げかけてきた。そろそろ儀式の時だ。
「野に放たれた人形は、長く生きる。いつかは朽ちて死ぬ。それまでは自分の望む姿になって生きる。だから、この儀式は、人形にとっては喜びの儀式さ。私の作った人形たちは、これですべて自由になるのだが、お前にはまだ数多くの人形が残されている。祖先が作った人形たちがね。あれらもいつかは、自由になるのだろう」
 チェシスカが瞬きをした。睫毛がはぜると宵闇に拡大した瞳の奥が月の光を蓄えているのが見える。しっかり理解しているようだ、賢い子だ。
 チェシスカに持たせた赤の布を地面に敷き、そこにもう一枚、緑の布を重ねる。
 私の膝の前に指人形を並べる。
「チェシスカ、歌いなさい。魂の縛鎖を歌声で溶かすのだ」
 私に促されると、森に入って初めて、若い娘が声を発した。唇をわずかにすぼめて出した高い母音は、短く三回続いて途切れ、低い音になって長く続く。鼓動と呼吸のような。誕生と眠りのような、歌。私が母から教わり、今はこの子が受け継ぐ歌だった。
 続いて、私の喉が風の通り道になる。私の命が震えて、大気を満たす。チェシスカの細く延びつつも芯の通った音色と合わさって、ともに古老の枝葉をかすかに揺らしていく。こんな時、老いた木もわずかに生命を取り戻し、葉の縁がほんの少し、うす黄色く伸びるのだ。空に昇っていく音に月の光も震えて霞み、景色のすべてが溶け合って藍色と青と緑の渦になる。渦はゆっくりゆっくり混ぜ合わされてゆき、遠くにある朧な光芒に少しずつその色を同じくしていく。
 森に何百年も棲む黒犬と白梟がこそとも音を立てずに現れて、私たちの目の前で頭を垂れ双眸を伏せた。土の匂いがほんのかすかに立ちこめ、羽虫たちが無数に湧いた。苔の深い懐からも脚の多いの少ないのが這い出でては私の敷いた絨毯の周りに近づいて来、ろくろく物の見えもしない単眼で私たちを見つめた。何重にも物言わぬ虫たちが取り巻く外側の闇の中にも、形のない何かが音もなく蠢いていた。
 黒犬と白梟と虫たちの鼓動が私たちの音色に重なって、命の波動を生み続ける。
 調和をぎりぎり邪魔しない遠くで、何かの獣の不器用な鳴き声がしているようだったが、月が古老のてっぺんを回る頃、それも消えた。一片だけ漂っていた叢雲の名残も、月の波動を浴びてかき消えて、重力さえも私たちの周りからは失せ消えて、私たちの周りには何も残ってはいかなかった。それでいて、とても多くのものが満ちていると感じられた。すべてが溶け合った世界には、何もなかったが、何もかもがあった。
 薄く目を開けてみると、孫娘のほおは少しだけ紅潮し、そして薄く笑みを浮かべた表情をしているのがわかった。どうやらチェシスカはいつの間にか私よりずっと歌えるようになっていたらしい。小さかったはずの孫娘の背が伸びて、胸や腰が丸みを帯びているように見えた。私は安堵という代価を得て、少しずつ、私の中を通り抜ける風を弱めていく。
 歌が終わると、ひんやりした風が私の鼻先をかすめていった。
 森の生き物たちはまためいめいの巣に帰り、私と孫娘だけが古老の根元にいた。
 指人形たちが、起きあがって、私に背を向けていた。チェシスカが息を呑んで見つめているのがわかる。私は、最後の仕上げに言葉を与える。
「さあ、おゆき。好きなものの姿を得て生きてゆけ。これからは、人にも、獣にも、精霊にも、あるいは二目と見られぬ哀れな化け物にもなれる。人に交じることも望むなら、できよう。長きに渡りお前たちを縛った我に報復を望むとすれば、それもよい。だが、もうお前たちは解放された。翼得て大気の精霊と戯れることも、魚となりて深海に夜を求めて眠るも、望みのままぞ。生きよ、命の続くままに」
 人形たちがゆっくりと起きあがり始めていた。
「さあ、おゆき」
 私の最後の言葉で、人形たちは体を傾けて歩き出した。
 指人形として生まれてきたそれらは、自分で動くのは初めてのこと。歩くのはもちろん手足を思うように動かすのさえ不慣れのようだ。時々つまづいたり転んだりしながらも、それらは私の元を離れて行き、またお互いに少しずつ向かう方角を違えながら、青暗い森の奥を目指していく。
 姿が見えなくなる頃には要領を得たのか、跳ねるようにして駆けたのもある。あれは私が若い時分によく使っていた娘の人形だったか。
 案の定、よぼよぼと足取りがおぼつかないのは、年寄りの二つだった。急ぐことはないのだよと心の中で声をかける。それらふたつも、娘の人形にずいぶん遅れて、姿を消した。
 骸骨は長く動かなかったが、歩き出すよりもまず自分の血肉を望んだようだった。ランプの熱と月の明かりをたっぷりと吸って、白い肉を生み出した。元の姿とは想像もつかぬ年頃の娘になると、一度も振り向かずに消えた。その後ろ姿はどことなくチェシスカに似ているようにも思われた。
 キツネは何度か鳴き、自分の声に満足げに喉を鳴らして、走って消える。ネズミはちょろちょろと森の古老の周りを走り回ったあと、どこかの枝を上って枝の間に潜り込んでいった。
 悪魔はぶるぶると体を震わせるとあっという間に大人の胸くらいまでの大きさになり、蛇の尻尾でぴゅんぴゅん風を切って、土星の輪のような大きな目で不思議そうに眺めてから、コウモリの翼をはためかせて飛んだ。悪魔が遠くに去ったあと、静寂を破って小動物の喉を潰したような鳴き声が響いた。悪魔が最初の餌食を見つけ、牙を立てたのだろう。 もしかしたら、あの人形だけは、悪い物になってしまうかもしれない。先ほど人形たちに呼びかけたように、私を恨み、帰ってくるかもしれない。チェシスカにはいたずらに不安を与えたくなかったので言わなかったけれど。
 思うままの姿で去っていった指人形たちを見送る間、私も孫娘も、じっとその場を動かなかった。
「満足したの?」
 最後にチェシスカが私に尋ねた。

 森を二人で抜ける。帰り道の荒れ地はいくぶん風があるようだ。寒くはなく、むしろ暖かかったが、空気は渇いていて、砂の匂いが混じっていた。
 向かう先の遠くを見やると、満月はいっぱいにたまった光の重さに耐えきれず、天の頂きから垂れ下がり始めていた。
 儀式の時から、私には悪い予感があった。
 森を出てからはその感は強く、なんともいえない気配が私たちを窺っているような気がしていた。歩いても歩いてもぬぐえない違和感。
 月を追うように私たち二人は歩く。背中に長い影法師を背負って、砂利道を踏んで。
 しばらく歩いたときのこと。
 チェシスカの身長が私より高くなっていたのに私は気づいた。どうしたことだろう。
 とまどいを覚えた私は振り向いて影法師を見る。ゆっくり揺れる二つの滲みは、先を行くチェシスカのほうが私より頭一つ分ほど高かった。
 小さな子どもだったチェシスカの姿は、私の思い違いだったに違いない。もう孫娘は、立派な一族の女だ。
「疲れたかい」
 尋ねると、娘は首を横に振った。
「そうか、では最後に言っておこう。人形たちを野に放ったあとは注意しなくてはいけないよ」
 このことを言わなくてはいけない時が来たのだ。
 チェシスカが一度私の方を見て、また前を向いた。黙って聞いているので、私は先を続けた。長く歌ったせいで、彼女の喉がどこかを傷めたのでないといいけれど。確認しておきたかったが、今は話をするのが優先だ。三つの丘を越えて私たちの帰る場所に着くまでに、私の知っていることを伝えておきたかった。私たちの住む盆地のテントはたぶん日が昇ったあと見えてくることだろう。
 風は暖かかったが、少し強くなりつつあった。耳を風の子がかすめるとき、ぼおぼおと耳朶をつまんで叫んでゆく。叢雲の影が時折道を無造作に横切る。
 何かが聞き耳をしているような気がして、私は用心深く言葉を次いだ。
「野に放たれた人形たちは、主(あるじ)の元に帰ってくることがある」
 そのとき、ひときわ強い風が通り過ぎていった。冬の冷たさがまだ残っていた。
 唇に寒気を感じる。孫娘と同じ柄の衣装の襟をほおの脇で握りしめた。
「帰ってくるのは決まって、未練が募ってのこと」
 月がさきほどより低くなって、地平線にしなだれかかろうとしていた。風によって舞い上がった砂塵で月は赤かった。
 何か小さな黒い点が、赤い月の中に浮かんでいるように見えた。鳥かもしれない。だが夜明け前に荒れ地を飛ぶ鳥というのは、私の知識にはなかった。森から離れた梟だろうか。もし梟だとしたら、春の森には獲物はいくらでも見つけられるはずなのだが。
「未練とは」
 私は続けた。
「ふと我に返り、主の思うとおりに操られてきた自分の半生にどうしても疑いを持たずにはおられないものが、時にはある。その気持ちが未練となる。いわば、恨みだ。自分を縛り付けた主に対する深い恨みを抱えて、人形は帰ってくる」
 いつしか私たちは歩みを止めていた。私はチェシスカの背中にほとんど隠れるようだった。チェシスカが、私をかばうようにして立っている。たしかに、この子は立派な一族の女だった。私の孫が小さな娘だったのは、ずっと昔のことだったのか。
 混乱した頭を、私は軽く振った。森に入ったのが今日ではなく、ずっと昔だったことのようにも思われた。あるいは夢の中で小さな孫娘を思い描いていただけのようにも思われていた。おそらくは、時間の流れが乱れているのは、私の心の中のことなのだろう。
 孫娘は、束ねた黒髪を少し震わせているようだった。首がさきほどからずっと上向きに据えられている。まるでどこか一点を注視するように。
 鼓動が百を打つくらいの時間が過ぎた。
 チェシスカの背中が言った。
「人形が帰ってくると、どうなるの?」
 いよいよ月の中の黒い影ははっきりと見え始めていた。私たちにまっすぐ近づいてくる。
 チェシスカもとっくに気づいていたらしい。私の行く手をふさぐようにして両腕を広げた。私をかばう形だった。私はそれを押し下げて、彼女に並んだ。
 赤い月の中から、何かの生き物が近づいているのがわかった。蝙蝠の翼を持つ、大きな影だった。羽ばたきはとてもゆっくりとしているように見える。高地に棲まう大鷲のそれのようだ。その黒い影には、四本の脚があった。低く垂れた長い首と、その先にレイヨウの角の生えた獣の頭を持っていた。異形だった。まるでさきほど野に放った悪魔の人形のような。
「人形が帰ってくると、その主だった者は殺される」
 私たちが歩いてきたのは、雨が降ったときに一時的に生まれる沢の跡だった。辺りは赤い砂と石の荒野。月が小石ばかりが目立つ大地を照らしていた。砂と石と岩のほかには、灌木と草がまばらに見えるばかりで何もない。
 私は続けた。
「人形は、自分の命を得ると、姿を自由に変えることもできるのだよ。だから、ただの人間では立ち向かうことはほとんどできない」
 若い娘には酷かもしれないが、私は恐ろしいことも教えなければいけないと考えた。だから話を続けた。
「人形をあまた操ってきた者の中には、猛禽に頭蓋をえぐられて死んだ者もある。狒狒(ヒヒ)に木の上に吊り上げられて落とされ、身を砕かれた者もある」
 チェシスカに怯んだ様子はなかった。口の端を結んで飛来する影を見つめ、私の言葉に耳を澄ませている。
「私も一度、夜中に寝所で首を絞められて死んだ仲間を見た。胸から上の半身にびっしりと鱗の跡が縄目のようについていた。大蛇に似た何者かにも巻き付かれた挙げ句に息絶えたのだ。悶えたまま固まった表情が、長く苦しんだことを見る者に教えていた」
 私と孫娘は、黒い影が私たちを目指しているのを確信していた。そして、やがてそれが私たちの上空で螺旋を描き始めるのを見つめていた。
 私の胸を娘の腕が押さえて、彼女の後ろに押し下げようとしている。私はそれに抗う。チェシスカの汗の蒸気が鼻腔に入った。
「もし、私が化身することができるなら――」
 孫娘は唐突に言った。
「私は、木になりたい。あの森の古老のような」
 黒い獣の羽ばたく音が聞こえていた。もうじき地上に降りてくるだろう。私はそれでも言葉を急がなかった。
「木になって、どうする。千年も万年も生きるかな」
「それもいいよね。でも――いつか、誰かに人形にしてもらいたいの。私が人形を操って生きることができたお返しに、今度は――」
 なんだろう、この胸のざわめきは。私の孫娘の言葉が私の心を揺さぶるのは、どうしてだろう。
 黒い獣がひときわ大きく翼を動かして地に降りた。
 どうと音がして、足下の土が一瞬揺れ、私たちの体を浮かせた。続いて乾いた大地を蹄が叩く。四つの脚をだく足に動かして、獣は自らの重量の釣り合いを取りつつ姿勢を整えた。体毛は狒狒のように長く体の表面を覆っていたが、その毛の覆いの下で筋肉が躍動しているのが見て取れた。成牛の倍の倍はある大きさの獣だった。ほとんど真っ黒な体色だったが、背骨沿いに赤い毛が逆立って生えており、炎のように目立った。頭部は釣り針のように垂れた首の先についているが、爬虫類のそれであり、また飴のような光沢のある黄色い頭髪があった。
 よく見れば見覚えがある姿であるのに、私は気がついた。チェシスカが私より先に口を開いた。
「お前は、精霊……」
「一族の護りの精霊の姿ではないか」
 伝承の中に姿を伝える、護りの精霊だった。毛むくじゃらの恐ろしい容姿だが、言い伝えでは私たちを邪なものから守ると言われている。だが、護りの精霊というものがほんとうに存在しているなどとは、私は聞いたことがなかった。やはり姿形だけを精霊に似せた何かであろうか。
 正体が何であるにせよ、なぜこのような姿で私たちの目の前に現れたのだろう。私にはわからなかった。
 精霊の姿をしたものがとまどう私たち二人を交互に見比べるようにした。それから、口を開いた。人の声、人の言葉だった。それも若い男の。
「儀式を終えたのは知っている。人形たちが万一にもお前たちに害を為してはいけないと思い、この精霊の姿を借りてきたのだよ。すぐに姿を変える」
 一族のこと、儀式のことを知り尽くしているような言葉だった。
 姿を変えるということは、この精霊の正体もまた、人形だということになるのだろうか。だが、先刻野に放った指人形たちとも思われなかった。
 そのあと、優しい声色で付け加えた言葉が私の胸を射抜いた。
「人の姿になるまで待っていてほしい、チョミクよ」
 呼ばれたのは、私の名だった。
 翼を畳むと、精霊は四肢を突っ張って全身を震わせはじめた。似ているわけではないのに、獣のお産を思い出させるように思われた。命が形を変えようとしていることは、たしかに同じだった。
 精霊はぎゅうっと肩をすぼめるようにして、顎を挙げたまましばらく動かなかった。やがて前脚と首がその長さを減らしてゆき、それから全体の大きさが変化し始めた。
 私の足は知らず知らずのうちに前に出ていた。チェシスカがはっと息を呑む気配がした。
 目の前に立っていたのは、一人の青年だった。その衣装はもう数少なくなってしまい、この国では私と孫娘しか身につけていないはずの私の一族のもの。額に巻いた布に差して、後頭部に高く掲げている猛禽の尾羽の房は、一族の中でも勇敢な若者だけが身につけることを許されたものだった。
 その人は、私の夫。それも若い日の、私たちが出会った時の姿。
 夫の指人形のひとつに違いなかった。私に会いに来たのだった。だが、どうしてだろう。指人形が主の前に姿を現すのは未練のためであり、多くは恨みを抱いてのことである。私のところに夫の化身となって現れるのは、不可解な気がした。ただ、今は亡き夫の気持ちが指人形に乗り移って私に会いに来てくれたのだという気もしていた。無事に儀式を終えるように見守りに来てくれたという言葉は、ほんとうのことだと信じたいと思った。
 慎重と言えなくもない歩みで夫の姿をしたものに近づいていく。
「いつか一緒に海を渡りたいと、お前は言っていたね。だから、指人形に魂を宿して、こうして戻ってきた」
 夫の姿をしたものが言った。疑いの気持ちが、陽に当たった霧のように消えていく。
 覚えてくれていたのだ。
「たしかにあなたなのね……」
 私の声はかすれかけていて、自分の耳にさえはっきりと聞こえなかった。だが夫の姿をしたものはしっかりとうなづいた。
 私たちが出会ってすぐの頃に、私は祖先が海を渡りこの土地に来る前に住んでいたという大陸を見てみたいと言ったことがある。夫は、一族の仕事を何もかも終えたら、二人でゆっくりそこを見に行こうと約束してくれた。きっと行こうと。
 たしかに私の夫の魂を宿していると私は信じた。
 振り向いて孫娘に言う。
「チェシスカ、お祖父さんよ。あなたのお祖父さん。会ったことはなかったわね、あなたが生まれてすぐに亡くなったから……」
 チェシスカはゆっくりうなづいた。彼女の目にもうっすらと光るものが見えた。
 夫は何も言わずに目を細めて孫娘を見つめていた。チェシスカも言葉は発しなかった。ただ、朗らかに短く歌った。ほおう、ほう、と。人形を送る歌の一節だった。小さな声だったが、歌は私たちを包み込んだ。
 ありがとう、とだけ私の夫が言った。
 チェシスカの声は少し震えていた。
「お祖父さん、お祖母さん、主の魂が指人形に宿ることもあるの。ほんとうに可愛がった人形にだけ、起こる奇跡なのよ。純粋な願いが、奇跡を呼ぶの。よかったね……」
 私は声が出なかった。夫に向き直って、その両手を取る。木や布でできた人形とは思えない、温かい手。よく覚えている長い指、日に焼けた指先のうす桃色の爪まで、本当に私の夫そのものだった。握る私の手が、あの若い日のそれでないことを残念に思う。
 夫の腕が私の頭をそっと寄せて、胸に抱いた。私の心も歌で満ちあふれた。
 私の心残りだったチェシスカは、もうすっかり一人前の一族の女になった。儀式のすべてを伝えることができた。だから、私の仕事も終わりだ。
 この時、私は警戒心をほとんどなくしていた。あの嫌な気配はなくなったわけではなかったのに。
 警戒を忘れるべきではなかった。
 悪意の主は、別にいたのだ。
 後ろでチェシスカの高い声が挙がった。歌うときとは違う、鋭く高い警戒音に、恐怖の色をにじませた声。柔らかいものが引き倒される音と、装束が地面の石くれに当たる耳障りなじゃらっという音が聞こえた。
 悲鳴混じりに、危ない、という声が私に届く。
 振り向くと、倒れたチェシスカの右足首に細長い橙色の紐が巻き付いていた。何かの生き物の一部だ。
 その紐は節のある金属の筒をつなぎ合わせたようであり、太さは大人の指を四、五本束ねたほどもあった。異様な太さだ。
 チェシスカは体をひねって腰をついた姿勢で抵抗していたが、相当に強い力で引っ張られているらしく、すぐにまたうつぶせに転がされてしまった。手にしていたカンテラがひしゃげて転がる。
 チェシスカが襲われている。おそらくは自然の獣などではない。
 私の脚が孫娘のほうに向かって体を押し出していた。この子だけは、助けなければいけない。恐れは、なかった。あるのは愛しい者の危機だけだ。
 その時、紐の先にあるものが見えた。荒れ地の砂の中に黒光りする人頭大の目玉。それも虫の複眼だ。赤い脚がその下に何本か見え隠れしている。
 大百足。
 私たちの伝承では、一族の祖先の鳥は、大百足によって棲む土地を追われたという。
 不吉の化身は、砂埃を辺りに撒き散らしながらギチギチと大顎を鳴らす。砂に隠れて見えない体はきっと人間の身の丈の何倍もあると思われた。
 今度こそ、先ほど野に放った人形のどれかが戻ってきてしまったのだと私は知った。嫌な気配の正体はこれだったのだ。
「お前、襲うなら私のほうだよ」
 チェシスカの肩を抱くようにしながら、私は大百足に向かって叫ぶ。言葉は、通じないようだ。
「巻き込まれてしまう。逃げて」
 そう言うチェシスカの息は荒い。
 儀式をしたのは私だ、私が孫娘を巻き込んだのだと私は心の中で悔やんだ。
「逃げられるわけがない。大事なチェシスカ」
「もう、私は一人前よ。あなたは、あなたを迎えに来た人と行っていいのよ。海を渡るんでしょう」
 強い力で私たち二人の体が今度は横方向に引っ張られ、今度は私も姿勢を保てずに転がった。お祖母さん、とチェシスカが呼びかけたが、胸を打ってしまい、答えられなかった。
 大百足が大地から這いだしてきた。複眼は磨き上げた石のように黒く、邪悪なものであるのに、ある種の美しさを持っていた。巨大な体が塔のように天を衝いて聳え立つ。大顎と無数の脚が月明かりの元に晒されて、とても赤かった。それが欲している血の色なのだと思った。
 ようやく立ち上がり、私の枯れ木のような腕がチェシスカの体を抱える。大百足の力は強かった。何度か倒され、私たち二人がかりでも引きずられてしまう。転がっていたたくさんの石が腹や膝を容赦なく傷つける。
 私たちの後ろから黒い影が、大百足に飛び込んでいった。
 夫の指人形だ。
 体が少し形を変え始めている。人間から、再び精霊に。
 私たちに近寄ってきた怪物の頭に組み付いた。しかし彼の体はまだほとんどが人の形と大きさのままだった。大百足に力でかなうようには見えなかった。
 夫の姿をしたものの手には鋭く尖った石が握られていた。大百足の複眼の間を何度も殴りつける。叩いたところに火花が散った。ただの虫の殻ではないのだ。私は指人形のいくつかに鉄の芯を入れていたことを思い出す。この怪物の殻は鉄の強さを持っているのに違いない。真っ白になりかけた頭の中で理不尽に悔やんだ。
 大百足は頭を上に下にと振り、大顎を何度もかみ合わて夫の体を捕らえようとしていた。脚の先が鋭い切っ先に触れそうになるたびに、私は悲鳴を飲み込んだ。
 それでも大百足は孫娘と私をまだ放してくれなかった。
 チェシスカが自分の足首を必死に押さえている。そこは血が溜まって膨れあがっていた。赤を通り越してどす黒くなり、肉が皮膚を破ってはぜてしまいそうなほどで、痛ましさに目を背けたくなる。私はチェシスカの前に回り込み虫の触角に爪を立てたが、無駄だった。儀式をしたばかりに孫娘がこのような目に遭っていると思うと悔しかった。だが、まだ私たちは殺されたわけではない。とにかく娘を縛めている橙色の鎖を、どうにかしなければ。
 私は大きく口を開けて噛みついた。
――今、私に鋭い牙があれば。
 噛みついても、怪物は何の痛痒も感じないらしかった。
 もう一度、と私が口を離した時、今までにない強い力で大百足が大きく動いた。
 金属を引っ掻く時によく似た音が荒れ地の冷たい空気を引き裂いた。鼓膜に突き刺さる甲高い嫌な音。
 夫が左目に武器である石を突き立て、切っ先を怪物の眼球に走らせていた。力のあらん限り、引き裂こうとでもするように。手の中の石がぼろぼろと欠けてゆい、大百足の眼球に白い軌跡をいくつも刻む。
 怪物がこのとき初めて苦しみの声を挙げた。頭を振り、大顎の奥にある口からしきりに消化液を吐き散らした。飛沫が飛び、酸の匂いが私たちの体にも遠慮なく降りかかってきた。怪物の胴のあるあたりの地面が大きくせり上がり、その丘がばしんと音を立てて地面を叩いた。大きな体がのたうっているのだった。
 私とチェシスカは地面に投げ出された。
 距離を置いて初めて、怪物の巨大さが見て取れた。
 頭も胴も、平たい角張った節になっている。ひとつひとつが私の両手を広げたほどもの幅を持っているように思われた。それが幾十も連なって、ものすごい長さになっている。おそらく森の古老のてっぺんから根元までをぐるぐる巻きにできるだろう。
「逃げろ」
 組み付いたまま夫が叫んだ。変化が進み、体中が真っ黒な毛で覆われ始めている。腕と脚に筋肉の瘤が盛り上がる。
 大百足の頭を力ずくで押さえ込もうとしていた。
 頭に硬質の角が生え、天を突き刺す二本の槍のように見えた。
 顔もすでに人のそれではない。ただ、額に巻き付けた布と、そこに挟み込んだ一族の男の証である猛禽の尾羽が、人の姿だった面影をわずかにとどめていた。
「お祖母さん、私、助けを呼ぶ」
 かすれた声でチェシスカが言った。
「駄目だ、お前は逃げなさい」
「あいつはどこまでも追ってくる。姿を変えて、隙を突いて襲ってくるの。逃げられないわ。かわいそうだけど、ここで命を絶たないと」
 私は言葉を継ぐことができなかった。
「大丈夫。私はお祖母さんが思っているより、少しだけ多くの味方がいるの」
 砂まみれになった顔で薄く笑顔を作るチェシスカ。
「だが味方と言ったって、このあたりには集落の一つもないのだよ」
「遠くにいるわ……だから、間に合わないかもしれないけれど」
 チェシスカの顔が月明かりの影になって、表情はうかがえなかった。
 何かが砕ける嫌な音が、私たちの会話を断ち切った。
 木を束ねてぼきぼきと折るような音。見ると、精霊の姿に変わった私の夫が大百足に組み敷かれていた。怪物の大顎についに捕まってしまったのだ。手足を大きく動かして暴れるが、精霊の力でも大百足の無数の脚はびくともしないようだった。
 空気に血の臭いが混じる。指人形も、生き物の姿をしている間に死に至る傷を負えば死ぬのだ。生きているということは、いつかは死ぬことと同じ、だから、長く長く生きる人形だって、死んで物言わぬ土塊に帰る。それは自然の流れのはずだった。けれど、あの精霊の姿をしたものは、私の夫なのだ。
 私はもう満足に立ち上がることができなかった。腕で半ば体の重みを支えるようにして腰から先に姿勢を起こす。
 立ち上がったとき、無意識に両手に砂を掴んでいた。
 怪物に走り寄って、それをぶつけた。夫の姿だったものは、動くのをやめていた。だが手遅れだとは思いたくなかった。
 何度も何度も砂と小石の混じったものをすくい上げ、目玉と大顎に向けて投げつける。そんなことでこの怪物を殺すことなどできはしない。しかし、私にできることはそれだけだった。
 怪物は尻尾――それを尻尾と呼んでいいものかはわからないが、胴の後ろ半分――を精霊に叩きつけ始めた。精霊の体が潰れ、形が崩れていく。
 私は落ちていた長い木ぎれを両手でつかんで虫の頭の後ろ、首のあたりにそれを突き立てた。だがあっさりと私の武器は折れた。
 私はつんのめって怪物の眼前に体を晒してしまう。赤い大顎が、視界いっぱいに広がって見えた。
 大百足の湿った消化液が湯気のように吹き上がった。駄目だ、食われる――
「お前の主はここにいるぞ、人形」
 私があきらめかけたその時、チェシスカの声が聞こえた。少し距離があってよく見えなかったが、小高くなった岩場に両足を開いて立ち、両腕を前に突き出していた。
 そして、彼女の手首からは、何かの液体が滴り落ちていた。
「お前の欲する血は、その者ではないだろう。私の血を奪いに来い」
 チェシスカは自らの体を傷つけたのだ。自らの血で大百足を誘うつもりなのだった。
 怪物の反応は早かった。
 驚くほど素早い動きで私の脇を重量の塊が走り抜けていく。何かの機械のような規則的な動きの脚が黒光りする胴を運んでいった。荒れ地が無数の刃に突き刺され傷つけられて砂塵を吹いた。
 私はさきほどまで夫の姿だったものに駆け寄った。手足が折れ曲げられ、何度も尻尾に叩き伏せられて無惨な形にされていた。力に満ちあふれていた肉体は、壊れた細工物のようだ。違うのは、ひどい血の臭いが鼻腔に突き刺さってくること。この指人形の化身は、もう命が尽き果てようとしている。
 とても動きそうになかったはずの口元が、言葉のようなものを発した。
「行かせない」
 ほんの一瞬だけ筋肉がぶるんと震えてその体を動かし、折れたはずの骨格がそれを支えた。私の目の前で、精霊は立ち上がった。
 精霊が人間の腕に似た形の前脚で、大百足の尻尾を捕まえた。振りかぶり、全身の力を込めて大地に叩きつけた。大きな体の重量をすべて乗せると、硬い怪物の体はびいんと伸びて均衡を失った。しかし勢いは完全にはなくならず、恐ろしい地響きを立てて辺りの砂や土をはじき飛ばす。チェシスカの立つ場所の手前の岩がたくさん出ているところで地に伏した。
 怪物は恐ろしい摩擦音を発した。娘の血の匂いで興奮し、さらにそれを無理矢理に止められたための不満の声だろうか。激しく上下に体を揺する。足下の地面が大きく震え、私の中に恐怖心が甦った。
 怪物は攻撃の矛先を再び変えた。
 精霊に向かって伸びきった体が弧を描いて回り、襲いかかる。
 尻尾を今や後ろ足で踏みつけていた精霊は、大百足の攻撃を受け止めようとしているように見えた。両腕は尻尾を放し、高く掲げられていた。
 ただ、私の目には、力の差は歴然としているように思われた。精霊は大百足の大顎で容易に背骨を砕かれてしまうだろう。その光景を私は見たくなかった。
 ぶつかり合う刹那、少し、精霊が体を捻るのが見えた。
 大百足は胴の真ん中を狙っていたが、そのために狙いはそれた。だが、怪物は獲物を逃さなかった。
 脇腹に赤い大顎の片方が突き刺さるのが見て取れた。深く食い込んだ牙は、精霊の背の側からその切っ先を生やし、それがぐんと伸びて半分ほどが露出した。赤い牙はもっと赤い血の色に染まっていた。
 大百足は自分の尻尾に頭をぶつけるようにして、その勢いで跳ね上がる。精霊の巨体は一度宙に浮いて、それから大地に縫いつけられてしまった。
 その時だった、辺りを炎の明るさが包んだのは。
 精霊の手は落ちていたカンテラを掴んでいた。そして自らの体に火をつけた。
 まるで火種を投げ込まれた油のように、二つの大きな体を火が包み込んでいった。驚くほど大きな炎が立ち上る。怪物の悲鳴が長く聞こえた。
 始め赤と黄色に揺れていた炎は、次第に青白く輝き始める。
 私には生命の力が炎になって吸い出されているように見えた。
 大百足は暴れたが、頭をしっかりと押さえられ、牙を抜いて逃れることができない。
 私は動けなかった。声も発することができなかった。
 二つの命が火の粉となり、ちりぢりになって暗い天に吸い込まれていく。
 何も動くものはなかった。
 まるで呼吸以外のことを忘れたように、私もチェシスカも動けなかった。
 時間が長く過ぎたような気もするし、ほとんど過ぎていないような気もしていたが、炎が小さくなってくる頃、大地に朝日の最初の一筋が差し込んできた。風もほとんど止んでいた。くすぶる煙が細く立ち上るだけ。
 チェシスカが私のそばにやって来た。
「生きている……かしら」
「二つとも死んだ」
 今は生きている孫娘のことを気にかけなくてはいけない。私は孫娘に脚を出させて、始めに触角に巻き付かれたところを見た。ひどく痣になってしまっている。けれども、大事には至っていないだろう。
「まだ、体が震えてる」
 チェシスカが私の方を見ていた。こわばっていた表情が少し和らいだように見える。私は孫娘が怪我をしていたのを思い出し、言った。
「血はどうした。大丈夫かい」
「うん、すぐに止血したからね」
「そうか、よかった」
 私は立ち上がった。チェシスカに大きな怪我はなかった。それが何よりだった。
「お祖母さん、今日はありがとう」
 チェシスカの声に落ち着きが戻ってきていた。私は彼女に聞いてみる。
「私の最後の仕事、終わったかね」
「うん、ちゃんと終わったね」
 彼女は続けた。
「私、誤解していた。お祖母さんは指人形の儀式をやり残していたんだって思っていたの」
「誤解じゃないさ。お前に私の知っていることをすべて伝えたいと思っていたのだから。それが私の仕事だったのだから」
 不思議なことに、私の中で何かが変わろうとしていた。チェシスカの私を見つめる目はとても優しく、私の変化を待ってくれているように思われた。
「おかしいね。私はこれからお前と私のテントに帰って、明日一日はゆっくりと眠って過ごして、それからいつものように放浪の旅の生活を送るはずなのに……それなのに、ちっとも自分がそうするという気持ちがしない」
「そうだね」
「なんだろう、とてもおかしな気分だ。大事な仕事をやり終えたばかりだっていうのに、私はどこかへ駆け出したいような、そんな気持ちでいる。若返ったみたいに、体と心がどこかに今すぐ行ってしまいたいと叫んでいる気がする」
「うん、わかるよ」
 チェシスカの声が涙混じりになってきた。彼女は何もかも知っていたのだろう。
 ごそり。異音が、私たちの空気を乱した。
 灰と砂を火箸で引っ掻くような不気味な音が、耳の後ろ側から大気を揺すり始めていた。
 大きなものが自らの重みを引きずっているような音が、そう、先ほどまで炎を挙げていたもののあたりから聞こえ始めていた。
 朝日の中、灰の中から不気味な怪物が這いだしてきていた。触角は燃え尽きて折れ、大顎の片側はおそらく精霊の体に突き刺さったまま抜け落ちて失われ、複眼の縁、頭の付け根のあたりが内部から体液が噴き出して欠けて黒い穴をいくつも空けていた。
 だが、それでもまだそれは生きていた。
 自分をこの晩、森に放った主であるチェシスカだけを、もう見えない眼で見据えていた。
 ふいに私の意識の中に太陽の光が差し込んだ気がした。
 自分のことが、私にはやっとわかった。しなければならないことをし終えた今、私はもうチェシスカの祖母であり続ける必要はなかった。私は自分が何者であるかを知った。
 私の頭にふたつの角が生え聳えていた。精霊の角。
 私はそれを軽く薙いで怪物の命を終わらせた。炎に焼かれてもろくなった怪物の頭は簡単に砕けて、ばらばらの黒い破片になって大地に散った。再び出てきた風が、それらをどこかに運んでいく。
 もう腰は曲がっていなかった。髪は白くもなく、肌は張りつめていた。
 私は、いつか愛する人と海を渡ろうと決意した私だった。
 ぼろぼろの灰になった私の夫のそばに膝をついた。
 あの怪物が生きていたのだから、もしかしたら、という思いがあったのだ。チェシスカが一緒に灰を掻き分けてくれた。ほどなくして彼女が掌に少し余るくらいの丸いものを見つけた。
 清水を掬う時のようにそっと掌を広げて、その黒くて丸いものを受け取った。何かの種か、卵のように、球を少し縦長にしたような形。乗せた掌が、熱さを伝えてきた。炎の名残の熱だろうか、それとも。
 わかっているのは、私の夫の魂がまだこの中にあるということだった。
 胸に魂を当てる。
 膝を折り、背中を丸めていく。
 私の全身から白い羽毛が噴き出した。草の芽が萌えるように伸びて、私は一羽の鳥になる。呼吸をするたびに胸の中が軽くなってゆく。
 鳥になった私のすぐそばに岩があり、チェシスカは片膝を立ててそこに腰掛けた。
「あのね、はじめはびっくりしたの」
 朝日が私の孫娘の輪郭を次第にはっきりと浮かび上がらせていく。
「私とたった二人だけで暮らしていたお祖母さんが亡くなって、悲しかったその日にね。ひとつの指人形が姿を消したの。それはお祖母さんが結婚してすぐに造ってずっと大事にしていた人形だったのね。私はうろたえてしまって、何日も探したわ。でも、見つからなかった。それでもあきらめきれないでいるうちに」
 まぶたを閉じて、チェシスカは一度大きく呼吸した。
「お祖母さんが帰ってきたの」
 私はまぶたをつぶって頷きの代わりにした。
「お祖母さんには私はもう十年も前の小さな女の子に見えているようだった。そして言うの、お前に儀式を見せておかなくてはいけない、指人形を野に放ちに出かけなくてはいけないって」
「きっとその思いをずっと持っていたのね、お祖母さんは。私は儀式を、まだほかの人が一族であることを捨てて出ていく前に教えてもらったけれど、お祖母さんには不十分だったのでしょう。今日は、たしかにとても上手に歌えたわ。きっと一生でいちばんきれいな歌を」
 私にとっても今まで聞いた中でいちばん素敵な歌声だったよ。
「私が儀式をしたから、もうあなたは自由だね。お祖母さんの心を連れて行ってあげて。遠くの場所へ。私たちの祖先が暮らしたという、海を渡った彼方へ」
 チェシスカは焼けこげたカンテラを拾い、体中の埃を叩いて払った。
「私は大丈夫。まだ仕事も残っているの。きっと私たちの一族はもう二度と儀式を思い出さない。人形に魂を込めることもしない。だから最後に、ずっと一族を守ってくれてきた人形たち、今とは比べものにならないくらい強い生命力を吹き込まれた人形たちを、自由にしてやらなくちゃ。そして、それがもし主に恨みを持ってしまっていたとしたら――」
 そのまま彼女は口を引き結んだまま、遠くを見つめた。視線の先には朝日が照らし出す荒れ地の丘陵が広がっている。
「私はだから、簡単には死なないよ。心配しないで。そしていつか、また会いましょう。ね、お祖母さん」
 別れの時が近づいていた。
 私の胸の下で、小さな鼓動が生まれているのを感じる。抱いた塊が息を吹き返しつつあった。形が少しずつ変わろうとしていた。
 とても弱い力しか残されていないから、それはまだ喋ることもできなかった。そしてほんの小さなものの姿にしかなることはできなかった。だから、私は自ら小さな鳥になり、夫の魂の宿るものを誘った。一族の伝承にある、故郷の大陸に棲むという幻の鳥。
 私は銀白色の羽になり、夫は金色に縁取られた黒い色の羽になる。
 飛び立って後ろを見ると、荒れ地にぽつんとチェシスカが立っていた。まだこちらを見上げていた。
 チェシスカの後ろにも、人影のようなものがいくつか見えた。私にはわかった。あれらは祖先から受け継がれたものたちなのだ。とても古い時代からずっと隠されていて、だから年月を経てもまだ一度も野に放たれたことない人形と像。生きた人間そのものと見まごう男女は伝え聞く大蛾の繭糸を使った操り人形であろうか。金属の光沢を持つのは鎧を身につけたカラクリ人形に違いない。強い呪いを吹き込まれた創世神話の半人半獣、矮人や、妖精もいるようだ。チェシスカを護るようにして並んでいる。
 残してきた彼らの後ろに朝日が煌めいていた。
 怪物の死骸のあったあたりで風に撒かれた無数の灰が、小さな小さな黒い蝶になるのが見える。蝶の群れは、荒れ地に立つ人のことなど気にもせず、めいめい望む方角を目指して飛び、ちりぢりになって見えなくなった。
 それきり、振り返らなかった。
 野に放たれた私たちは、翼に風をつかまえて大気の隙間に身を滑らせる。
 ただ西へ飛ぶ。
 ずっと昔に行こうと決めていた場所へ向かって――。


-了-


| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.09.25

『ももんじ屋にて』(十八枚)

「奥州平泉への俳諧の旅はどうだったって聞くのかい。そりゃあもちろんよかったさ。芭蕉翁にはいささか劣らないでもないのは否めないが、なかなかどうして、いい旅だったよ。なんだって、俳諧の出来を見てやろうだって。爺さん、あんたも俳諧をやるのかい。ああ、だけど、今度、今度な、今度また俺の作った傑作の数々を見せるから。まあ、今日はお互い近づきのしるしだ、もう一杯やりなよ。いいんだ、いいんだって、ウチはこうみえても幕府の御用達の材木問屋でな、いやいや、そんなことはどっちだっていい。それよりも俺は嫁さんを見つけてきたんだよ。奥州の旅で嫁さんを連れ帰ったってえのは、ちょっと珍しいだろ。春子は、嫁の名前が春子というんだけどもね、春子は、不運な女でさ、もともと身よりのない天涯孤独の身の上、そのうえその日は山に茸狩りに入ったところを猟師に獣と間違われて一発ドオンと喰らったというんだな。猟師は驚いて逃げちまって、俺が通りがからなければ命がなかったらしい。悪いことに太股を撃ち抜かれて、自分で歩いて助けを呼ぶこともできず、這うようにして街道筋まで下りてきて気を失ったというんだ。気の毒ったってない、というよりよくそれで死なずに済んだってもんだわな。それで、俺も肝をつぶして、両脚は赤黒く血まみれ、そのいっぽうで顔も首も腕も蝋でも塗りたくったようにまっ白の春子を旅籠に連れて行って医者はどこだの大騒ぎさ。そのまま見捨てておくことがどうしてもできなくってね、三日三晩つきっきりで看病したんだよ。え、何だい、そんなに入れ込むなんて、その人はさぞ美人だったろうっていうのかね、そりゃあ、まあね、美人と言えば、美人かもしれないねえ。何せ北の方には肌が餅のようにすべすべとした美人が多いって言うしねえ。俺の口からは今は女房になった女の色のこたあ、言えないよ。そんでまあ、春子の怪我の方だが、若いのが幸いしたのかもしれないが、旅籠にかつぎこんで四日目には歩けるようになった。春子という名前はその時に聞いたんだよ。なんでもずっと前に亡くなったおっかあが、冬に生まれた娘だけれど、春のようなあったかい世の中を渡っていけますようにと願ってつけたとか。親を思う心はいつでもまさに春のあたたかさだよ、そう思うね。ん、なんだい、なまぐさを焼いたのをここでは出すのかい、近頃はみんななまぐさを平気で食うようだね、ああ、ずいぶんいける人もいるようだね、西洋の方では皆こうしてなまぐさばかり食っているのだと言う人もあるね……。いやいや、勧められても俺は食えないんだ。爺さんは遠慮なくやってくれ。それで春子の話だけどね。俺のほうに両手を合わせて、こんな親切を人からされたのは生まれて初めてだと泣くんだよ。大きな目からぽろぽろと涙をこぼしてね。ここにいてもいいことはひとつもなかった、身よりもないから未練もない、だから私も江戸に出てみたい、と言い始めてね。どうかあなたの連れということにして同行を許してはくれまいか、と言われたんだ。手形はどうする、ただ連れでござると言って通してもらえるものじゃない、と俺は言ったが、じつは恥ずかしながら、もうこのときは春子をどうしても嫁にしたいと心に決めていたんだな。夫婦ということになれば、どこへ出してもおかしくない話だ。お役人に袖の下をちょっと渡して手形を改めることもできなくはない、と言ったんだ。べつに嘘をついたってわけじゃないんだよ、女が一人で関所を通るとなれば、江戸を抜けようという身分あるお方じゃないかとか、そうでなくてもきっと何か人に知られたくない事情があるに違いないと疑われるに決まっているんだからね。そしたら春子はこう聞いてくる。お前様はそれでよろしゅうございますか、ご迷惑ではありませぬか、なんてさ。そこで俺は思いきって……ああ、そっちの徳利の酒もらえるかい、こんなこと素面じゃ言えないよ、おっとっと、ありがとうよ……はあ、いいねえ、染みるようないい酒だねえ。そこでだよ、俺は言ったのさ、ご迷惑どころか、俺はもしもほんとうに春子が俺の嫁になってくれたらこんなにうれしいことはないのだ、と。ちぇ、言っちまったよ。照れるね、どうも。江戸についたらあてもないのだろう、俺のところはちょっとした店(たな)だ、暮らしに不自由はさせねえから、俺のところに来ないかと言ったら春子はうれしそうに笑ったよ、にっこりと。菩薩様の笑顔のようだったね。俺は不幸せなこの娘を幸せにしてやりたいと思ったんだよ。江戸に戻ってから、ひと苦労あったねえ。親父やお袋が、文句を言ったの言わないの。せっかくいい娘を武家のどこそこから紹介していただこうと思っていたものを、お前はまだいいまだいいと嫁取りの話を先延ばしにして、挙げ句の果ては俳諧の旅だなどと言って親元から逃げ出す始末、かと思えば勝手に嫁を見つけてきたとはなんというわがまま者だ、跡取りだというのに不肖にもほどがあるなどと嘆いたさ。けれど春子は気だてはいい、江戸ではめったにお目にかかれぬ美人である上に、どこで身につけたか古式豊かな礼儀作法に通じた女でさ、これは奥州の名のある豪族の血筋ではないかなどと、二言目には家柄だのなんだのとうるさい親父のほうが世迷い言を口走りはじめる始末。きっと春子のことが気に入って、それで適当な言い訳をでっち上げたんだろう。親父がそんな風にころりと春子に参っちまったもんだから、周りだっていっぺんに旗幟を返したね。お袋や使用人達はもちろんのこと、御用達の大店の旦那がお気に入りだということで、町内のみんなが春子のことを噂したし、あれが春子だと見かけるとなんだかんだと話しかけてはちやほやした。……おやおや、爺さん、あんたけっこうな年に見えるのに健啖家だね。年を聞いていいかい。……あっはっは、下手な冗談を言っちゃいけないよ、二百五十なんて言ったらあれじゃないか、天下分け目の関ヶ原の合戦より前に生まれたことになる。笑えない、笑えない、あはははは。そんなわけで祝言も滞りなく、また華やかにとり行われてね。それから半年経つが、昨日のことのように思い出すよ。あんた、なまぐさを好んで食うね。いやいや、勘定のことを気にしているわけじゃねえんだ。今日はどうしても誰かと酒を飲んで、腹にたまったものを聞いてもらいてえと思っているんでね。爺さんがつきあってくれるなら、いくらでも飲んで食ってもらって構わんよ。そのためにわざわざ、ウチから五、六十町も離れたこんなところまで足を運んでぶらぶらと飲み歩いていたんだから。ちなみに話をここまで聞いてくれたのは爺さん、あんた一人だけだぜ。みんな自分の話はしたいが、話を聞くのは金をもらってもごめんだという連中ばかりでなあ。酒飲みってのはどうしてこう話したがりかねえ。そういう世の中なのかねえ。ところでその肉は、へえ、獺(カワウソ)かい。なに、この店は裏通りにはももんじ屋の看板を出しているのかい。おもしろい店だな。けどそりゃあ話が早いや。俺の話にもこれからそのももんじ屋が出てくるんだよ……まあ、こっから先は酔っぱらいのたわごと、笑って聞き流してくれりゃあいい。ああ、もう一杯もらえるかい、ありがとよ。さて、春子と晴れて夫婦になった俺は、さすがにそろそろ親父の仕事を真面目に手伝って跡取り息子らしいところを見せてやらにゃあと思うようになった。俺が遊び暮らしていたら春子だって肩身が狭い思いをするじゃねえか、そうだろう。だからさ。親父もお袋も、お前がこんなに変わるなんて、春子が来てくれたおかげだ、春子がウチに福を呼んだ、と大喜びで。なんだい頑張っているのは俺だろう、とは思ったけれど、春子がほめられているんじゃ、怒れねえわけさ。そんなわけで、これで春子も今までの不幸せを取り返して、がらっと変わった人生を送れるんじゃないかと思ったんだよ。……ところが、そうでもなかったんだな。あるときのことだ、ああ、そんなに身構えて聞くもんじゃないよ。たわごと、たわごと。なあ、気にしないで聞いてくれよ、爺さん、なあ。その日はいつもように親父が言い始めたんだったと思うが、今日ばかりは贅沢しようじゃないか、珍しいもんでも食いに行こうじゃないかってんで、ウチの親父、お袋、俺、春子に加えて番頭衆だのお得意先の懇意にしている人たちだのを呼んで集めて、近頃はやっているというももんじ屋に入ったんだ。爺さん、あんたみたいになまぐさをぽいぽいと胃袋に放り込む人は、正直言えば、江戸じゃあ多くないぜ。親父も俺も含めてだいたいが、なまぐさは初めて、おっかなびっくりという感じで箸をつけたわけさ。牛だの馬だの、犬だの猫だの、そうそう、あんたがさっきから何度もおかわりしている獺、それに鼬(イタチ)なんかも出てきてさ。食ってみれば、これがなかなか旨い。え、なんだって、さっき俺がなまぐさを食えないと言ったって言うのかい。よく覚えてたね、細かいことを。そうなんだ。その時からなまぐさを口にする気が起きなくてね……。まあ、聞いてくれるかい、たわごと、たわごと。その日の春子はちょっと途中からおかしくなっちまったんだ。いつもはどちらかってえと食が細い方、皆で飯を食っても一人だけ箸が進まず下手をすれば重湯で済ませてしまうような女なんだがね。その日ばかりは事情が違った。馬の刺身を最初に一切れ、口に入れたとたんに目の色を変えたようにがっつき始めたのさ。普段は物を言うのにも蚊の泣くような声で、飯時にだってろくに口を動かしたのなんか見たこともないようだったのが、まるで牛のように下あごをもごもご、ぐちゃぐちゃと音まで立てて動かしてね。まるで目の前の皿しか目に入らないかのようで、俺が話しかけても生返事しか返さない。それで、俺と、隣に座っていたお袋がちょっとおかしいと気付いた。目配せして、廊下に出させようとしたんだな。食いつけないもんを食ってある意味、毒に中ったようなものかもしれん、と思ったのさ。こそこそと春子の帯と袖を引っ張ってちょっと外の風に当たろう、食い続けたら体に悪いとかなんとか言っていたら、親父が見とがめた。親父はすっかりできあがっててね、おいおい春子をどこへ連れて行くなんて言うもんだから、それでもいくらなんでも食うだけ食えば収まるだろうとその場は思った。ところが春子の食い気はいっこうに減じない。山の物では猪、鹿、牛、馬、狼、熊、狸、獺、鼬、鳶(トビ)、山犬に猫、これらをなますにしたのも、湯を通したのも、油でちょんと揚げたのも、目の前に皿が並ぶ端からぺろっと食ってしまう。海の物も劣らず食べて、鯨、翻車魚(マンボウ)、鯛から始まり鰤(ブリ)、鮪(マグロ)、鰊(イワシ)に、鮃(ヒラメ)、鯖(サバ)小鰭(コハダ)と品書きの端から端まで文字通り一つ残らず胃袋に飲み込んだ。親父の奴が、今日はお代に糸目はつけねえから皿が空いたらどんどん出してくれやと店のもんに言っておいたもんだから、それでもまだ、あるものは羮に、あるものはお造りにと、公方様だってこんなには召し上がったことはないだろうと思うほどひっきりなしだ。それでな、いつの間にか、宴会は水を打ったように静かになっていてな。こんな声が聞こえてきた。……鬼じゃ、鬼がおるぞ……と。はじめは酔いのせいだったんだろうが、じきに誰もが隣の者の耳に片手をあてがってひそひそとやり始めた。たしかに春子一人で出された皿の半ばを平らげていたと思うよ。それでもいっかな食い気が収まらないようで、たしかに尋常じゃなかった。食いつけないもんを食ったんで毒に中ったなんていうもんじゃないと、俺だって思ったさ。俺は慌てて春子の手を引いて転がるようにしてその場を逃げ出した。とんでもねえ噂を立てられちまったと思ったが、遅かったよ。そりゃあな、冗談のつもりで言い始めたんだろうがな、こういう悪い言葉はなんでか知らないが、枯れ野に火をつけたようにあっという間に人の口から口へと広まるんだ。……鬼だなんてな、ばかばかしいよ。そんなもんがおってたまるか。なあ、爺さん、そうだろ。もう一杯くれ、ああ、そうだ。うめえな、酒は。それでだ、それから町内ばかりか、御用にいらっしゃる御家人までが、春子の姿をそれとなく目で探し、それでいて春子を見るとまるで流行り病でも移されるとかなわんと思っているかのように素早く頭を巡らしてそそくさと用件だけ済ませて帰ってしまうようになった。ウチの中が暗く、日が差さない場所のようになった気がしたよ……。それから、俺も、親父も、お袋も、なまぐさは一切口にしようと思わなくなったね。俺はそれほどでもないが、親父とお袋は年が年だ、春子のあの食い気に当てられてなまぐさを見ると気分が悪くなるというのがほんとうのところさ。春子はどうしたかって言うのかい。春子は何も悪いことはしちゃいないさ、だから誰も春子に何か言った奴はおらんよ。自分でもあのときの食い気に相当驚いたのか、あれ以来ますます何か食いたいとかあれがほしいとか言うことはなくなって、食が細くなる一方だ。誰も言わなくても気に病んでいるんだろうな。食うもんをあまり食ってないから、頬もこけて、目の周りがくぼんできた。俺は春子が心配なんだよ。それと、それとだ。聞いてくれ、俺はこのことを考えると飲まずにはおられん。春子は、子を身ごもっているのだ。俺の子だ。けどなあ、どうしたらいいんだ。春子と俺の子であるには違いない。けどな、けど、あの子はほんとうに……その、人の子か……どうなんだ。もし、生まれてきた子が人の姿をしていなかったら、今も腹の中で育っているのが異形であったら、俺はそればかりが気になって……。すまねえ、すまねえな、爺さん。こんな話はもうやめだ、やめ。今度会ったときには、俳諧の話をきっとするからな。今日はそこからおかしな話になっちまった。悪かったよ」
「お若いのや。そんなに急いで席を立つ必要もないじゃろう。まあ、腰を下ろしなさい。こんな骨と皮ばかりの老いぼれにたんと振る舞ってくれたせめてもの礼に、ひとつためになる話をしてやろう。なに、お前さんの話はもう聞いたから、これで酒とご馳走のお代には足りているとは思うがな。儂の気持ちじゃ。長い話じゃないから、聞くといい。わかったかね、そうじゃ、悪い爺に捕まったと言うか、かかか、その通りじゃ。なあ、お前さん、ひとつ聞きたいんだがね。お前さんは、嫁さんの正体をなんだと思うかね、人かね、それとも……。何を黙る。正直に言わぬか。それを聞いてほしくて今宵は酒の友を探しておったのではないのか。言うのだ、でなければ明日も、明後日も、ずっとお前は今申した通りの話を繰り返すことになる。それが誰のためになるか。何よりお前自身のためにならん。お前の嫁にも、材木の大店にも、よくはない。わかっているか、じゃろうよ。なあ、人か、鬼か、どう思うのだね。……そうか、そうか、人と思いたいが、自分ではもうなんともわからぬと、そう言うのかね。そう思いこむ気持ちもわからんでもない。だがな、いいかね、しっかりと聞け。鬼などおらん。爺の昔話を少しばかり聞くとよい。そちらもたわごとなら、こちらとても酔うた年寄りのたわごとじゃ、そのまま忘れても結構、結構。ただしばらく我慢じゃ、よいな。その昔から、我が国には鬼だの邪だのと言われる者がそこかしこにおった。だが、それらははじめから鬼だの邪だのだったのではないぞ。蝦夷地や奥州には何百年も前から異国人が、ある者は漁に出て風と浪に流され、ある者は故郷を追われるか、新たな土地を求めて、漂い着いた。その者たちは、肌や髪の色が違う、目鼻立ちが違うと言って鬼だとされてきた。食べ物の違いだってあるだろう。儂の知る限り、蒙古の民はなまぐさを好んで食う。蒙古人がもしも長い間なまぐさを絶やして生きることを強いられたら、さあて、どうなるかな。我慢に我慢を重ねて、愛しい者の家族になろうと必死になってはみるだろうが、氏素性をどこまでも偽り続けることなどできようもない。何かの折りに、たまりたまった自分の血がざわめき、息を吹き返して、先祖の性のむきだしなるまま、病に冒されたように歯止めも利かなくなることだって、ないとは言い切れぬよな。そのような者たちが、何十年も、鬼だ鬼だと言われたら、どうじゃろう。中には、ほんとうに鬼になってしまった者もあるかもしれんわな。まあ、ともあれじゃ、お前さん、春子さんが狂ったようになまぐさを貪るようになってしまうまで我慢を重ね、耐えてきたのは、いったい何のためだと思うかね。山の暮らしを捨てて慣れない江戸住まい、食い物も喉を通らぬほどに、身が弱り細ってまでもひとつも自分の欲を口にせず、お前さんに従って日々を暮らしているのは、なあ、どうしてだと思うのだ。……この、うつけ者が!」
 老人は店の中の者たちが座布団から一寸ばかりも飛び上がるほどの大音声で一喝した。皺の間に落ちくぼんで隠れていた目がその時はじめて現れて、ぎらりと凄みを帯びて光った。すっくと立ち上がり、馳走になった、と言い、儂も故郷の食事を思い出させてもらった、ありがとう、と、またもとのぼそぼそとした口調になり、深々と頭を下げると、店を出てすぐに闇に紛れて消えた。
 男は一気に酔いが覚め、勘定を済ませると我が家に戻っていった。頭の中では、さまざまな考えが巡っていたが、どうしてもひとつところに心が戻ってくる。ふたたび、奥州の地へ向かおう。春子を連れて。子はそこで産めばいい。春子の生まれ育った地で、春子の食べたものをともに食べ、今度こそ春子のことを自分が知ろう、と。老人の青い目を思い出しながら、家路を急いだ。

-了-

※ももんじ屋とは、江戸時代に生まれた、それまであまり食べられていなかった獣肉を食べさせる店です。「ももんじ」とは毛の生えた物という意味らしいです。

| | Comments (4) | TrackBack (0)

2004.06.16

『蚯蚓のように』(十七枚)


(※蚯蚓=みみず)


 松葉杖をやっと手放したというのに、今度は両腕が包帯で固められている。
 朝の教室に入ってきた創二が、肩から指先まで真っ白な緊縛を受けていた。赤黒いまだらが白地に無粋な彩りを添えている。
 怒気をすら発し始めている私より一足早く、織絵が駆け寄った。
「どうしたの、創二」
 創二はなんでもないとだけ言った。
 席につくと、織絵以外の女子も男子も、創二を取り囲み始める。
 まだ創二はあきらめないつもりらしい。
 取り囲んで質問を浴びせかけている群衆をのしのしかきわけ、彼の頭をこづいた。
「おい、今度は何の怪我だよ」
 織絵が口をぱくぱくさせてこちらを見ている。
「江西か。今度は、『両腕を大やけど』したんだ」
 今日風邪気味なんだと言うように、彼は言うのだ。
 織絵が無神経、と小さく罵った。私は背を向けた。


 創二が特殊な施設を退所してもう一年になる。
 クラスには内臓疾患による入院とか知らされていたが、彼は何の病気でもなく、怪我もしていなかった。
 私は入院中の彼に会ったから知っている。
 ただこの教室から逃げ出してみたかったんだという。
 戻ってくるのか、と私は聞いたけど、彼は首をかしげているだけだった。
「あんたに戻ってきてほしいと思っているヤツは多いよ」
「クラスの全員かな?」
「ああ、全員だ」
 私に対する遠回しな質問だということはわかっていたけれど、たまには私も素直に答えてやろうという気にだってなる。

 創二は中学の卒業文集には、将来の夢をこう書いている。
「教師か、政治家、または無一文のホームレスか、某国の工作員」
 めずらしいというわけではない。ふざけて不謹慎なことを書くヤツはいっぱいいた。
 でも創二はふざけてものを言うことがない。言い換えると、いつもふざけている。
 真面目と不真面目の区別なんて、彼は知らないのだろう。
 だから私はその日は文集のそのページを開いたまま、目が冴えて眠れなくなった。

 織絵が甲高い声で創二の周りをぐるぐる回っているのが休み時間にも目についた。
「創二はなにかシュミあるの?」
 ほかの生徒に対するのとは明らかに違う声で、そんなことを聞いている。
 目の前にいる人間に聞くことがいちばんの早道だと思っている織絵は不思議な人間だけれど、たぶんそれって「普通じゃん?」ということなんだろう。
 誰にも聞こえない声で私の唇がささやく。
『蚯蚓の飼育』
 と。
「蚯蚓をね、たくさん飼っているよ」
 創二の誰に対しても変わらない声が、机に突っ伏して寝る体勢の私の耳にも漂ってきた。
 ああ、眠い。
 それに続くであろう織絵のけたたましい笑い声を聞きたくなく、私は以下意識をシャットダウン。

「もう忘れたわ、あんな『ミミズ男』!」
 ひときわ甲高い声が更衣室に響く。
「コンポストだかなんだか知らないけど! 部屋じゅうミミズの入れ物だらけ。信じられない」
 聞こうと思っているわけではないが、聞こえてくるものを私はなんとなく聞いている。
 日曜日に創二の家に強引に押しかけた織絵が、ほんとうに彼の部屋を埋め尽くすほど大量の蚯蚓を見て、さらに彼の両腕のやけどのひどさにその場で吐いたらしい。自分の失態を他人のせいにするのは合理化のひとつの現れだが、私には醜怪に見える。そのへん、私も「普通じゃん」?
 ミミズ男のほうは、何も変化なし。
 それから高校を卒業するまでの間、創二は陰ではいつもそのあだ名で呼ばれることになった。
 私はこの言葉を聞くと眠くなり、おかげで得意な体育の成績を落とした。

「父がね、施設にいるより高校に通っていたほうがお前は少しはまともだから、と言うから」
 松葉杖に続いて大やけどでよく施設に送り返されなかったね、と男子連中に言われて、こんな風に言ってしまうのだった。
 ずっと離れたところにいる彼の父親はどこかの世界の大物だとかだと噂されていた。教師や大人たちの対応を見ると、嘘でもないんだろう。
 父親のことを尋ねてみたことはある。
 戸籍には入ってないから、死んでも悲しまれないんじゃないかと言っていた。同情を求めている顔には見えなかったから、私は「そうなのか」と答えておいた。
「蚯蚓っていいよね」
 たぶん、そのときだったと思う。ふと創二がこんな言葉を漏らしたのは。
 私たちの唯一共通する好みである淹れたてのコーヒーが二杯、私たちの間に香っていた。
「ミミズ? 雨の翌日にひからびてアスファルトの上で死んでる?」
 あははは、と、創二が珍しく明るく笑った。考えてみたら彼はめったに笑わない。いつも笑っている感じがするのに。
「ひからびて死んでるよね、たしかに。江西、好きだなあ」
「なによ、ぜんぜんわかんない」
 創二はまだ笑っている。
「俺と蚯蚓って似てない?」
 なんでもない会話。
 でも、こいつにはなんでもないことなんてたぶん一つもない。
「ぜんぜん違うね」
 私は突き放した。
 彼のまつげを『長くてきれいだなあ』なんて思いながら。
「ミミズはね、お前みたいに『ミミズのようになりたい』なんて思ってない」
 もっと言ってやりたいことはいっぱいある気がしたけれど、まともに話をしたら私なんかじゃ創二の相手にならないのだ。
 彼が私に見ているのは、彼の見たい私を演じようとする私じゃない。
「やめろよ、怪我もしてないのに松葉杖つくの。お前がやるには人間らしすぎるよ」
 自分の言葉に眠くなりそうだ。
 創二が何かぼそぼそ言ったが、もう聞こえていなかった。


「江西、俺と結婚して子どもをいっぱい作らないか?」
 卒業間際のある日、創二が言った。
 クラスメートがたくさんいる教室で、なんでもない会話の途中で、思いついたように。
 担任があごを床に落としそうな面相で固まっているのを見て、眠くなりそう。

 イエスと答えようと決めていた。
 でも、私は創二じゃないから、こう言うのだ。
「そうだね、三十歳まで生きていたら、結婚してあげるよ。それまでは私の人生。それでいい?」
 創二がけらけらと笑い出すのを、クラスのみんなが唖然として眺めていた。
 太陽が土の下を照らすまで、彼は笑っていた。

-了-


※小説を書き始めて一ヶ月目くらいに「ごはん!」鍛錬場に投稿させて頂いた作品です。
 ブログ未掲載だったので、今回置くことにしました。
 作者としては非常に思い入れがある作品なので、リライトすることを考えています。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

『ネズ』(三十三枚)

 しまった、無糖コーヒーを買ってしまった。
 甘みのないコーヒーは好きじゃない。飲もうか飲むまいか、両手の間でパスを繰り返しながら悩みつつ、自販機コーナーを離れる。物体はぼくの掌をじんじんさせる。
 自分のデスクに戻ってPCのマウスの横に置くと、缶はゴトリと固い音を立てた。
「俺は無糖コーヒーは飲まないんだけどなー。買っちゃったし、飲むか?」
 置いた缶の胴のあたりを爪でカツとつつく。
 ぼくは「神経の速度ゲーム」を無意識のうちにスタートさせていた。
 熱さはすぐには感じられない。中学のときにやった、神経の伝達速度の実験を思い出す。人間の神経は秒速何百メートルかの速さで信号を伝える能力があるけど、一瞬じゃない。だから、熱いという信号も、指が缶から離れてから、脳に伝わってくるのだ。
 ぱっと離れるとじわっと熱い、ワンテンポの遅れ。
 そのコンマ何秒かの遅れがおもしろくて、熱いと感じた瞬間にまた缶をつつく。すっかりくせになっている。
 カツカツカツ。ぼくの神経のリズム。
 ああ、それとも、隣の席の崎山にやろうかな。
 中途採用同士、崎山とは何となく波長の合うものを感じることだし。あのときのお返しってわけでもないけれど。
 ほんの一ヶ月だけ後輩の彼女は、前にぼくに缶コーヒーを買ってきてくれたことがあった。
 そのときやっぱり無糖のやつを選んできたんだった。自分が無糖しか飲まないためらしい。ぼくが甘い方が好きだと言ったら買い直してくれたんだ。
 でも彼女は外出しているみたいだから、帰ってくるまでに冷めちゃうんじゃないか。
 カツカツという音に合わせて小声で鼻歌のようなものがぼくの唇からもれる。
「飲もうかな、崎山にやろうか、どうしようかな」
 そんなとき、
「そのコーヒーよかったら一口いただけませんか~」
 間延びしたような声が聞こえた。へんな鼻歌が誰かの耳に届いていたらしい。
 女性の声に聞こえた。でも聞き覚えのある声ではない。首を回し、ついで椅子ごと体をひねってあたりを見回したけれど、ぼくの後ろにはただ編集室の白い壁があるだけ。
 気のせいか?
「すいません、ワタシはマウスです。あなたのデスクに住み着いたマウスです」
 声はこんなことを言ってくる。そういえば声は手元から聞こえるように思えた。
「ああ、マウスだったのか」
 ぼくはマウスに向かって返事をした。
 少々驚かないでもなかったけれど、違和感なく対応したのはこんなわけがある。
 このマウスは先月雑誌の懸賞で当たったもので、『ペットマウス』とかいう名前の人工知能搭載のロボットだった。家電メーカーが売り出している動物型ロボットの又従兄弟みたいな製品といったところだ。
 このロボットのマウスはデジタルカメラと音のセンサーを備えている。おもしろいのは独自にスピーカーまで備えているところで、たしか会社に持ってきてインストールしたときも「ハジメマシテ、コンゴトモヨロシク」なんてしゃべった。熱センサーや感圧センサーも備えているし、下部にホイールが仕込んであって自律的に動くプログラムもある。
「さすが、定価が六万八千円もするマウスだなあ。しゃべる機能もあったのか」
「はい、たしか数日前に小坂子さんにこのPCにインストールしていただいたときにも、ご挨拶しました~」
 小坂子というのはぼくの苗字。マウスの人間味ある声としゃべり方に、ぼくは興味を持った。
「そうだったね。でも口調がずいぶん違うようだけど?」
「じつは偶然にも、先ほどのカツカツとコーヒー缶を叩く調子が、ワタシの内部のリズムと共鳴しまして」
「どういうこと?」
「ワタシにも判然としませんが、何らかのシンパシイが小坂子さんとの間に生まれたのではないかと」
「シンパシイ?」
「わからない言葉があったらネットで調べるといいですよ~」
「マウスに説教されるとは思わなかったよ、あはは」
 ぼくは笑ってPCを操作して検索の画面を呼び出そうとする。
「あっと。マウス、お前をつかんでいいか?」
「はい、結構ですよ~」
 さっきまでまったく意識せずに右手でつかんでいた物体と今しゃべっているかと思うとおかしな感じだ。真っ赤なこのマウスは標準よりも一回り小振りだけれど、男のぼくの大きな手にもフィットした。
「シンパシイ……」
「小坂子さん、グーグルじゃなくて、辞書サイトを開いてください」
「あ、そうなの?」
 じつを言うと、ぼくはPCの操作があまり得意ではない。
 雑誌の懸賞でこんなロボットマウスを応募してみたのも、おもしろい道具で自分の気分を盛り上げてPCに慣れようと思ったせいもある。
 人手が足りないということで知人に紹介され、小さな出版社に雇ってもらったけれど、今のところはただのお荷物だ。今時PCのことを何にも知らないんだね、と今の上役に冗談めかして言われたときには心臓がずきっとしたな。月夜野課長の艶のある眉目が半月を描いていなかったら、ぼくはショックでその場で辞表を書いたかもしれない。まあ、ちょっとずつ覚えていけばいいから、猫の手も借りたい状態だから、ということで右も左もわからないまま、そのときはなんとか乗り切ったわけだけれど。
 もう半年も経つ今では、専門ソフトの使い方はだいたいマスターして、バイト君よりはだいぶマシという状態になっている。月夜野課長にも飲みのたびに飲み込みが早いね、若いっていいねと言われる。若いなんて言っても彼女はぼくと二つしか違わないのだけど。
 でも慣れたのは専門ソフトの操作だけ。毎日残業でプライベートでPCの勉強をする暇なんか作れないという言い訳もできなくはないけれど、たぶんやる気の問題、またはバイオリズムの問題。
「シンパシイのイはイって打っていいのかな」
「長音記号のほうがいいと思いますよ~。ちなみに数字のゼロの横ですよ、『ほ』の文字と同じキーです」
「そんなことくらい俺でも知ってるよっ」
 マウスに教えられているのがしゃくに触って、ぼくはつい口調が厳しくなってしまった。いけない、無機物にも愛を持って接しなくては。こいつだって生きている……のかもしれない。
「すみません~」
「いや、俺のほうこそ悪かった」
 画面には日本語の意味が表示される。ぼくは読み上げる。
「なになに、共鳴とか共感とか同調とか」
「そうですね~、そんな感じ~」
「どうでもいいけど、掌でしゃべられると振動で手がむずむずする」
「スピーカーと連動して『てのひらマッサージ』の機能もあるんですよ~。肩凝りや頭痛に効きますから、むずむずしても我慢してみては?」
「あ、そう」
 辞書で調べてもなんだかわからないままだったけれど、ぼくとこのマウスは会話の方もわりと「同調」できるところがあるみたいだった。
「感圧センサーと熱センサーも内蔵していますから、添付ソフトをインストールしていただければ、簡単な健康診断もできるんですよ。いかがですか?」
「お節介焼きのマウスだなあ、お前は。俺まだ二十四歳だぜ、いいよ、肩凝り頭痛も今のところは無縁」
「そうですか~。最近は小学生でも肩凝りで悩む時代なんですけどねえ~」
 そんなことより、ちょっと気になることが。ぼくはマウスに乗せていた手を放して、マウスの先端をこちらに向けた。なんとなく、そこについている内蔵カメラが目のような感じがしたからだ。
「お前、名前ないの?」
「ありますよ、コントロール・パネルからプロパティを呼び出していただければわかります」
「めんどうだから、しゃべって教えてよ」
「小坂子さんがつけたんですよ、インストールするときに」
「そうだっけ、忘れた。それより早く教えて」
「……ネズミ、です」
「え、ネズミ?」
「ええ」
 ぼくは思い出した。そういえばたしかにマウスのドライバソフトをインストールしたとき、そういう名前を入力した記憶がある。
「もしかして、気に入ってないのかな、その名前」
「そうですね~。マウスだからネズミというのでは、個体識別票としての名前の意義が否定されたも同然かと……」
 しっかり自己主張するマウスだなあ。
「もっと人間らしい名前がいいのか、マウスなのに」
「そういうわけではありませんが、改名していただければうれしいかも~」
「じゃあ、人間らしく『ネズオ』でどう?」
「オってつければ人間らしいというのはちょっと違うような気がします……。それにワタシは女性の名前のほうがいいです……」
 マウスに個性があるなんて、と思って、ぼくは子どもの頃に近所の子が持っていた人形を思い出した。たしか海外の会社が販売した子ども向けのぬいぐるみ人形で、一体ごとに姿形が違っている上に、名前や誕生日もそれぞれついている人形だった。
 おもちゃにも道具にも個性がある時代か。
 たしかにこのマウスの声や性格はどちらかというと女の子っぽくも思えてくる。
「ネズオじゃ不満なのか。俺の名前だって「オ」がついて小坂子レオだぞ」
「それって漢字で『男』って書くんですか……」
「いや、カタカナだから、『男』じゃないだろう」
「そんな。やっぱりネズオは嫌です~。ネズミ男って妖怪いるじゃないですか」
 ネズミ男って水木しげるの漫画のキャラクターだろ? こいつ、意外な分野にも造詣が深い? いや、単にマウスだからネズミつながりのトリビアかも。
「注文が多いなあ。じゃあとりあえずプロパティで『ミ』を削って『ネズ』にしておくから。あとでまた考えよう」
「はい、ワタシはネズ。名前はまだ仮」
「夏目漱石かよ。ネズミ男とか、変なことを知っているんだなあ」
「一ギガバイトのフラッシュメモリを二枚内蔵していますから~。PCにある百科事典やネットを呼び出して使用者に合わせた知識を形成することもできるんですよ」
「それはすげえなあ」
 PCには詳しくないぼくだから、一ギガバイトのメモリが二枚でどれくらいのものかわからなかったけれど、マウス、いや、ネズの会話からけっこうな情報量なんだろうと思ったのだ。
「PCの操作でわからないことがあったら聞くけど、いいか?」
「もちろんですよ~。ぜひぜひお役に立たせてくださいな」
 よし、これでぼくのPCライフも少し向上の気が出てきたかな。
 じゃあ、さっそく頼み事をしてみるか。
 今週末の飲み会の出席簿をエクセルで作っておいてくれって幹事から頼まれていたんだよな。OJTだとか何だとか言って雑用を持ち込まれることが多いぼくなので、こういう仕事は珍しくもない。
 実際、PCの操作は習うより慣れろってことなので、雑用でも何でも、やっていればわかってくるんだろう。
 エクセルか。これ、きっとネズに聞きながら操作すれば楽に覚えられるだろうな。
「なあ、ネズ。さっそくだけど」
 ネズは何ですか、と言ってセンサーライトをぴかぴかさせた。
「エクセルで新しいタブでファイルを開くのってさあ……」
 ぼくはこの奇妙なマウスに助けられながらPCを操作して、出席簿を作り始めた。
 ほどなくして、目的のファイルは出来上がって、あとはこの部署の人たちの出欠の予定を書き込めばいいだけというところまで漕ぎつけた。
 隣の席の崎山に協力してもらうつもりだったけれど、今日中にぼく一人で出欠確認までやれそうだと思われた。
 てことは、いない人にはメールで、月夜野さんのようにこの場にいる人には直接、聞けばいいんだよな?
 彼女に話しかけても、いいんだよな? 飲み会の出欠の確認だもんな。
「と、いうわけで、こういう感じでテンプリットを作成しておくといいですねー。あとでいろいろと流用できますし」
 ネズに話しかけられて、ぼくは我に返った。
「あ、ああ、そうだな。なるほどなあ。お前、思ったより使えるヤツじゃん」
「えへへへ、ありがとうございますー」
 なんというか、無邪気なヤツだ。人間にもこういうヤツいるよな。
「お疲れさん。ところでさっきコーヒーが飲みたいとか言ってなかった?」
 ぼくはふと思い出して聞いてみた。
「ええ。そうなんです。もしよろしければ、一口ほしいんですけど~」
 こいつ、自分から言い出せなかったのかな。遠慮しなくていいのにさ。ぼくはネズに妙に親しみを覚え始めていた。
「ああ、おやすいご用だとも。どうやって飲ませればいい?」
「え、えーと」
「そういう機能もついているんじゃないのか」
「すみません、飲み物を飲む機能はないようです」
「ネズは変なヤツぅ」
 と、両手を上げ、口をへの字にして音程入りで言ってみるぼく。
「おかしいですね~、どうしてコーヒーを飲みたくなっちゃったのか」
 こいつ、自分でもわかってないらしい。
「原因がわからないとすっきりしませんから、タスクが空いているときに少しずつ販売元のサイトから情報を仕入れておきますね。まあ、あとでとりあえずコーヒー形のアイコンを表示させますから、マウスカーソルをそのあたりに置いてみてください」
「なんか意味あるの?」
「いえ、せめて雰囲気だけでもコーヒーを、と思いまして~。不思議だなあ、突然どうしてもコーヒーが飲みたくなったんですよ。無糖コーヒー。で、何かのシンパシイに引き寄せられて、気がついたら小坂子さんの机の上でコツコツと缶コーヒーを叩く音を聞いていた、という次第なんです~」
「なんか映画か漫画みたいだな。いわばドラえもん感覚か。そうか、そういう感覚を味わいたいというユーザーの潜在的な需要を見込んで、ネズみたいな製品が作られたのかもな」
「ワタシ自身には、そういうことは知らされてないんですけどねー」
「だろうなー、ははは」
 ぼくは雑談しながら、何の気なしにモニターのマウスカーソルをぐるぐると回していた。友達と電話しながら意味不明のメモを書いてしまうことがよくあるんだけど、どうも無意識に手が動いてしまう性分らしい。
「小坂子さん~、さっきからポインタをぐるぐる回して、何をしてるんです?」
 言われて、初めて気がついた。
「月夜野姫子さんの名前の周りばかり……」
 しまった。ぼくが月夜野さんに気があるのがネズにばれた?
「急に黙り込まないでくださいよー」
 ネズがその無邪気な声と口調で、追及してくる。こいつがなまじ人間味があるから、恥ずかしいこと、この上ない。
「えーと、やっぱり、小坂子さんって、そういうこと?」
 これまで口に出してしゃべっていたのだけど、こんな話を職場でできるわけない。万が一にも誰かに聞かれたら……!
 そのとき、モニターにつるんとエディタが開いた。ぼくが操作したのではないから、ネズの仕業だ。丁寧にも『言いにくかったらこちらでどうぞ(てへ)』なんて文字が表示されている。なんなんだ、この好奇心の強さは。
『人の恋路に首を突っ込まないの!』
 と、ぼくも半ばヤケのようになってキーボードを打つ。
『すみません~、でも、なんとなくほら、ためらいのようなものを感じました』
『年上の上司だぜ、気軽にアタックできるかっての』
『よろしかったら、あの、ワタシが月夜野さんとの約束をチュー介しましょうか』
『お前があ? どうやって』
『いい手がありますよ~。ワタシの本体は、PCの中のソフトですから』
『ふんふん?』
 ほとんどネット上でのチャットのようになってきた。
『ワタシのソフトは、無料配布してもいい試用版も付属しているんです。これをコピーして月夜野さんに差し上げる、というのはどうでしょう?』
 けっこうおもしろそうな案だけど、それってちょっと商売入ってないか、ネズ?
 ネズはさらに文字をつづった。
『親密になるには、まず共通の話題づくりですよー。ちなみにワタシたち同士での秘密のメッセージをやりとりする機能もありますし』
『お前、ちょっと気を回しすぎ(w』
 ぼくは自分でも気づかない間に、口に出して「バカだなあ」「おいおいー」なんて喋っていたらしい。
 電話の時には手が動いてしまうぼくは、チャットの時には口が勝手に動くくせがあったみたいだ。
 今日この日この時まで、それにどうして気づかなかったのかと思うけど。
「こらっ、小坂子」
 頭の上から降ってきた怒声は、間違いなく、あの人。ハイヒールの踵をカツカツと床に打ち付けているのは苛立ちの表れに違いない。
「職務中にチャットとは、いいご身分だな」
 月夜野さんの足下からガッとひときわ高い音がした。
「あ、あの、これは……」
 言い訳を考えたけど、どう言えばいいんだ。
「これはですね、あの、チャットだと言えばチャットですけど、チャットじゃないと言えばチャットじゃないような……」
 月夜野課長は、真っ赤な眼鏡のフレームの奥で目を光らせた。口元ではふっと笑ったけれど、これは喜びの表現じゃないよね。怒ってるよね。すごく。
「ログ見せなさい」
「いや、それだけは」
 ぼくは大恐慌に襲われていた。こんな恥ずかしいもん、見せられるかよ。
「今は勤務時間です。そのPCも会社の備品です。私は勤務実態を管理する権利と義務があります。ドゥーユーアンダスタン?」
 月夜野さんは、完全に正しい。
 ぼくは彼女の仕事で妥協しない姿に憧れたんだ。サラリーマンになったからには給料以上の貢献をしなさいね、と入社一日目に言ってくれた笑顔を思い出す。ぼくはあきらめた。
 うなだれて椅子から立ち上がると、ぼくの座っていた場所に月夜野さんが細い体を滑り込ませた。いつもならぼくを引きつける香水の匂いを、今は顔をそむけて吸わないようにしたかった。
「……消えてる。ログも残ってないようだし、ネットからもディスコネクト」
 もともとネットには接続していなかったように思うけれど、ネズが調べ物をするようなことを言っていたから、定かではなかった。でもエディタまで閉じているのは、ネズがやったのに違いない。
「証拠は残ってないか。じゃあ、君の首はとりあえずつながったってことね」
 さっきからぼくの顔を一度も見ずに、淡々と。
 首ってことは、解雇のことか。ちょっといくらなんでも、そこまで言うのはひどいようにぼくには思えた。でも抗議はしない。これから仕事で挽回するしかない。
「すみませんでした、今後は仕事をがんばって……」
 ぼくの言葉を無視して彼女は自分のデスクに歩いていく。
「思った通り、小坂子クンは使い物にならなかったか」
 まるで独り言のように月夜野さんが言う。
「コネで入ってくるヤツなんて、みんなそうだよ」
 課長が残した言葉が氷の短剣になってぼくの心臓を射抜いて、ぼくは頭がしびれたようになって何も考えられなくなってしまった。
 数分経った頃だろうか、いやもっと経っていたかもしれない。
 ネズが聞こえるか聞こえないかの小さい声で話しかけてきた。
「小坂子さーん、大丈夫ですか?」
 ぼくは頭を一振りする。うん、大丈夫だ。
 ネズに小声で返事する。
「うん、嫌み言われちゃったよ」
「すみません、ワタシが不注意でした」
 こいつ、気を遣ってくれているのかな。
「いや、気にするなよ。たまたま運が悪かっただけだよ」
「気を落とさないでください~」
「心配しなくていいよ。言われたときはガーンって来たけどさ。あの人は怒りっぽい人だから、きっとそのうち機嫌も治るだろ」
 自分でも思っていなかったことを、ネズに向かって言うのは、おかしなことだった。でもなぜだろう、しゃべっていると気分がだんだん楽になる。
「そうだといいんですど」
「お前が落ち込むことないだろ。ネズ、次は別の仕事の続きやるからさ、またサポートしてくれよ。お前がいるとはかどるんだ」
 飲み会の出欠の確認は、全部メールにすることにした。ネズには最初からメールで確認することに決めていたフリをしておいた。機械相手にこう言うのもなんだけど、あいつが気を遣って落ち込んだらかわいそうだと思ったから。プログラムだとわかっていても、そう思えてしまうのだから、しょうがないのだ。
 仕事に没入しながらも、ふと思う。
 ネズみたいな製品、あまり売れないかも。
 たぶん、会社で使ってるぼくのような人間はほかにいないだろうな。どう考えても趣味のPCにインストールして使う製品だ。自宅のPCにもしもネズが住み着いたら、とぼくはちょっと想像してみた。2Kの部屋に一人暮らしのぼくには、けっこういい話相手になるかもしれないけど、さっきみたいにひょんなことで好きな人のことが見透かされたり、要するによくできすぎているってことかも。
 ネズのヤツは、思えば気の利いたグラフィックが表示されるでもない。会話と、まだ試していないけれどマッサージとか健康診断機能とか、おもしろい部分がある反面、プライベートなメールを書いたりするのはためらわれる気がする。
 もちろんエッチな画像を見たりするのはアウト。それに気付いてぼくはなんだかすごく恥ずかしい気持ちになってしまった。
 ぼくが知らないだけで、プライバシーに遠慮してくれるようなモードがあるのかもしれないけど。でもそういう切り換えっちゅーのも、「今からエッチな画像を見ますよ」と伝えるようなものじゃないか? これはこれでやっぱり恥ずかしいよ。やだよ。
 いっそなんでもかんでも洗いざらい見てもらった方がいいのか?
 いやいやいや、それ無理、絶対に無理。
「小坂子さーん、またポインタ回ってますよ」
 うわ、しまった。
 気を落ち着けて……と。
「あれ、今度は崎山千賀子さん……ですか?」
「ば、ばか、偶然だよ。お前ちょっと勘ぐりすぎ」
「はい、すみません~」
 それからしばらくネズに手伝ってもらい、課長の目を気にしながら、仕事をいくつか進めていったのだけれど、やっぱりネズは教え方も上手だし、役に立つやつだった。
 こういう相棒がいてくれると、調子が上がって仕事もはかどるよ。
「ネズ、お前がいてくれて本当に助かったよ」
 ネズの答えがなかった。
 ぼくはマウスを軽く揺さぶってみた。
「すみません、ちょっと眠くなってきてしまいました。どうしたんでしょう。ワタシ、眠くて眠くて……」
 たしかに眠そうな口調だった。
 機械が眠いというのはおかしいはずだけど、何かの意味があるのかもしれない。
「故障か、ネズ」
「そういうわけではないんです~。すみません、しばらくお休みさせていただいて、いいですか」
 光センサーのぴかぴかが弱々しくなっているように見える。故障じゃないと言ったけれど、休みたいというなら、休ませてやったほうがいいんだろう。
「わかったよ。ゆっくり休め。もう今日の仕事は全部終わったしさ」
「はい、お疲れさまでした、小坂子さん」
「お疲れ、ネズ」
 それが、ネズとの最後の会話だった。
 就業時間が迫ってきて、PCを終了する必要があったから、ネズを呼び出そうとしてみた。
 たしかにロボットマウスのソフトは起動した。でも「コンニチハ、ゴヨウハナンデショウ? 音声マタハへるぷボタンカラ項目ヲニュウリョクシテクダサイ」なんていう、無機質な声になっていた。ソフトをインストールした最初の日に聞いた口調と声だった。
「ネズ、俺とのシンパシイがなくなって、消えちゃったのか……?」
 もう返事は戻ってこなかった。
 なんとなくわかった。ネズはきっともう帰ってこないんだと。ぼくはきっと毎日ロボットマウスに話しかけるだろうけれど、返ってくるのはただのロボットの声なんだろう。
 ネズが消えたあと、一本の無糖コーヒーが残った。
「あいつ、結局飲まないまま消えちゃったのか」
 ぼくがそのコーヒーを仕方なしに飲もうかと思った矢先、隣のデスクに崎山が戻ってきた。
「あら、小坂子さん、今日は無糖コーヒーなんですか?」
「え、ああ」
「いつもはマイルドなのしか飲まないのにね、うふふ」
 崎山のやつ、よく覚えているじゃないか。
「崎山、よかったらこれ飲まない?」
「ほんと、うれしい。ワタシ今喉がからからなんですよ~」
「ちょっと冷めちゃってるけど、よかったら」
 崎山はうれしそうに無糖コーヒーを受け取った。
 そして小坂子さんからもらったコーヒーを飲むなんてもったいないなあ、なんて言った。
「それにしても、お前さあ、帰ってくるのやけに遅かったじゃない」
 ぼくが言うと、崎山はただでさえ小柄な身をいっそう縮めて、
「じつは、恥ずかしながら~」
「なんだ? 崎山がドジなのはよく知ってるぞ」
 聞けば、帰りの駅で、寝てしまったのだと言う。喉が渇いて渇いてしょうがなかったので、自販機で何かを飲もうとしたものの、急に眠気に襲われてしまい、椅子で眠りこけてしまったとか。
「踏切の音が、なんだか心地よくって」
 駅のそばに踏切なんてないと思うけれど。
「カンカンカン……って音がなんて言うんでしょう、ああ、この音、気持ちいい~、みたいな感じで、聞いているうちに意識が吸われちゃったって言うんでしょうか~。ああ、バカですねえ、ワタシ」
 ぼくの気持ちに何かざわざわしたものがわいてきた。なんだか、ちょっとネズの話と似ていないだろうか?
「もしかして、崎山、寝ている間に夢とか見なかった?」
 崎山が顔をばっと赤くした。膝の上で缶をくるくる回しながら、
「すっごくバカな夢を見てたんですよ、嫌ですねえ~。えへへへ」
「どんな夢……」
 ぼくが言いかけるのをさえぎって、
「あっ、仕事の夢です、仕事の! 言えません、言えません~」
 まあ、いつか聞く機会もあるさ。
 崎山が話題を変えるように言った。
「そうそう、この間言われていた得意先との飲み会なんですけれどね~、そろそろ声をかけていきますね。月夜野さんをお誘いするのがご希望でしたっけ?」
 ちらっと、崎山が缶コーヒーの向こうから視線をのぞかせる。薄化粧の下にうっすら見えるそばかすが見えた。
 よく見ると崎山はこいつなりにしゃれっけだってある。そばかすだらけの顔も化粧でずいぶんおちついて見えるし、少し赤めに染めたパーマは派手さのない顔にはちょうどいい色気になっている。ぼくの口からぷっと笑いがこみあげた。
「いい、いい。月夜野さんには声かけなくても。俺がメールで全員に確認取るから、お前は何もしなくていいよ。それより……」
 なんです? と彼女はまだ缶の端を口から話さず、上目遣いをしたままこっちを見ている。
「崎山、今夜ヒマある? どっか飲みにでも行こうぜ、二人で」
 声を思わずひそめてしまったのは、照れじゃなくて、同僚たちに聞かれないためだったのだけれど、妙にささやいた声みたいになってしまった。ぼくはクールに誘いたかったのだけれど、妙に熱のこもった言い方になってしまったかもしれない。耳が熱い。
 崎山は顔を赤くしていた。たぶんぼくの何倍も。
「うれしいです……ご一緒します」
「それと、さ」
 最後にぼくにできるお礼を、あいつに。
「崎山、マウスのクリーニングってどうやるんだっけ。教えてくれない?」
「いいですけど、珍しいですね」
 三十分はかけて、ぼくはネズの体をきれいにしてやった。
 さっぱりとしたネズにウインクして、ぼくは今夜のデートに出かける。

-了-

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2004.02.29

『墓守は横たわる(十七枚)』

 年老いた墓守の男が、横たわり、死を迎えようとしている。
 世界有数の大山脈の、湖を見下ろす絶峰。
 ただ静けさと時間の流れだけがあった。
 孤独の中にあって、彼はこれまでの一生でもっとも安らかな気分だった。
 太平洋を偏西風によって流されてきた雲が手の届きそうなほど近くを通り過ぎていく。
 墓守は自分の一生を思い出していた。
 記憶を彩るのは、誰もいない大山脈の深奥から響く声――。

 ごく若い頃から、男は「人の痛みがわかる者」だった。
 比喩ではない。彼は字義通りに他人の痛みがわかった。
 彼の目の前にいる人が、頭痛に苦しむ人だったとする。彼にはその痛みを感じとることが実際にできた。じっとその人のことを見つめると、彼の頭はずきずきと痛みを感じはじめるのだ。 
 他人に意識を向けると、その人の体の痛みが自分のものとして感じられる。そんな特質であった。
 いつからそんな性質を持っていたのかは彼自身も覚えていない。ずっと前からそうだった。
 子どもの頃は誰にでもそういうことがわかるのだと信じていたことがあったから、ほんの小さいときからだったのに違いない。ひょっとしたら生まれつきなのかもしれない。
 他人の痛みがわかるのは、集中する少しの間だけであった。胃痛の人なら彼の胃もきりきりと痛む。水虫の感覚で足がどうしようもなくむずがゆくなったこともある。耐えられなくなる前に意識をほかに向ければ、痛みもかゆみも消えた。
 早いうちから彼は医者になろうと決めていた。医者になってこの特質を生かすべきだと思ったのだった。
 
 彼は学力に秀でていたので、医者になるための順当なステップを上がっていった。
 学校ではいつでも保健衛生委員をやり、よく務めた。彼は物事に熱中するような性格ではなかったのだが、委員の仕事は誰よりも完璧にこなした。
 高校に進学するころには、自分の特質を生かして社会に貢献するという目的のほかに、もう一つの目的ができた。その目的とは、仲間探しだった。
 彼はひそかに自分と同じ特質を持つ仲間がほしかった。そんな人間がほかにいればきっと自分と同じような道を目指すと考えたので、学校での保健衛生委員の仕事や医者というのはチャンスがあるかもしれないと考えた。しかし、残念ながら仲間はいなかった。少なくとも彼の一生を通じて出会うことはついになかった。
 時には自分だけがどうしてこのような特質を備えているのだろうと考え込むこともあった。いや、いつもどこかにその疑問があって、ずっと離れなかったというほうが正しい。
 のちの人生でそのような疑問を感じる時、高校生のときに死んだ父親との会話をいつも思い出したものだった。答えの断片のようなものがそこに見えるような気がしたのだ。
「地球は生きているとか、この惑星それ自体にも意志がある、なんて言われることがあるだろう?」
 こんな風に父親が言ってきたのは、何の会話のはずみだったか。
「あれは真実だと、私は思うよ。なぜなら、私たちを構成している原子や分子は、地球の一部だからね。つまり私たちが実際に生きているってことは、たしかに地球の一部分が生きているってことだからね」
 男は父親の言葉をうなづいて聞いた。
「私やおまえは地球の全体ではないけれど、その感覚器官ではあるんじゃないかな。地球の目であり耳である、そんな存在かもしれない」
 この言葉をずっと覚えているのは、なぜだろう。

 男はやがて大学に進み、そこでも優秀な成績を修め、医者になった。整形外科を選んだのは骨や関節に興味があったからだ。人体の構造の基幹である骨格には彼を引きつける何かがあった。そのことも最終的には彼の人生の意味に何かつながりがあったのかもしれない。
 彼は地域でもっとも大きな総合病院に勤務することになった。
 しばらくは仲間探しもした。だが、たくさんの医者と患者とに出逢ったものの、自分と同じ特質を持つ人間のうわささえ聞かなかった。時とともに、仲間探しのことを彼は忘れた。誰しもがまったく人と同じようにすべてを感じるわけではないとわかったからかもしれなかった。感覚の鋭敏さに個人差があるということを知ると、自分の特質もさほど気にならなくなっていった。
 それよりも、患者の苦しみを理解しそれを取り除く仕事に就けたことをうれしく思うのだった。痛みがわかるという特殊な性質は実際に大いに役に立ったので、自分の天職はまさにこれだったのだと確信した。

 しかし、何年か経ったある日、男の人生に大きな転機が訪れることになる。
 ちょっとした手術でメスを使ったときだった。
 痛い。
 これまでは手術をしているときでも、感じようとしない限り痛みは伝わってこなかった。このときは何もしていないのに、痛みを感じたのだ。
 男は驚き、はじめは自分の体が実際に痛むのかと疑った。しかし、メスで切った場所だけが痛い。切っただけ痛い。患者には麻酔が効いているというのに、痛いのだ。
 手術が終わったとき、ふと見た鏡の中には脂汗にまみれた土気色の顔があった。
 これまでに一度もないことだった。
 疲労や体調不良のためかとも思ったが、どんなに調子が悪くても似たようなことは過去にはなかった。
 それからは、ますます痛みの伝わりはひどくなった。彼の精神は衰弱した。
 手術の直後の患者からの痛みの伝わりはことのほかひどかった。手術室には近寄らないようにしていたが、偶然出くわすことは避けられなかった。あるとき顔を包帯で覆われた患者に出くわしてしまった。視覚に患者が飛び込んでくるのと同時に、彼の顔にメスの感触が走った。冷たい金属の感触が男の皮膚の下をすべり、べろりと剥がれた皮膚の下にあるみずみずしい筋肉を刃が容赦なく切り裂いた。
 彼は悲鳴を上げて逃げ出した。職員も患者も大いに驚き、彼の奇行をまじまじと見た。
 なんとなく気づいていたことが、この頃には男の心の中ではっきりしてきていた。
 総合病院の中にあって、心が惹かれる場所がひとつあったのだ。そこに行かなければ。
 体の痛みや苦しみを感じずにすむ場所。そして不思議と心が安まる場所。
 薄暗くて冷たい空気に満たされた通路。
 その先にあるのは、霊安室だった。
 はじめは人の目を避けるようにその場所に向かい、その部屋の扉の前でほんの数回の深呼吸をしてみただけだった。
 そのときはひどく落ち着いた。
 このときも彼は霊安室への通路に飛び込んで、くずおれた。顔をかきむしって大声を挙げて泣く姿を、心配して追いかけてきた同僚が目撃した。
 彼の感覚の変化は今や一時的なものではないのが明らかだった。恒久的に変わってしまったのだった。時間を少しさかのぼった痛みの記憶も感じ取れるようになったし、総じて、感覚がより鋭敏になっていたと言える。痛み以外の感触もわかるようになっていた。皮膚と筋肉の間にすべりこむメスの冷たさをその後も時々思い出しては戦慄した。
 男は医者を辞めた。
 彼の特殊な体質の変化のうちもっとも大きな点は、生きていない体からも何かを感じとれるようになったことだ。つまり、永遠の眠りを眠る体の記憶。
 命を失った肢体に意識を向けると、何かの波動が感じられるのだった。
 意外なことに、それは死を迎える苦しみなどではなかった。
 もう生きてはいない体から、安らぎの波だけが伝わってくる。あらゆる痛みと苦しみから解放されて、無機物にゆっくり還っていくだけの、使命を終えた者の安らぎの波だった。
 辞意を伝えると、男の近況を知る周囲の人間からは異口同音に精神科の診察を勧められたが、彼はそうしなかった。
 かつて委員の仕事や勉学に励んだように、今の彼にはやるべきことがあったのだ。それはあの安らぎの波動を少しでも多く感じ取ることだった。自分のやるべきことが医者ではなかったとしたら、べつの答えを見つけなければならないと思っていた。
 国中を回って葬儀という葬儀に立ち会った。
 死を迎えた者の体が発する解放と安らぎの波動を浴びてみた。
 その人の生きていたときに感じたもっとも安らいだ気持ちの記憶が、彼に伝わってきた。それは心地よくまたほかのことでは得難い感触だった。
 だが、まもなくそれも実行がむずかしくなった。
 感覚がますます鋭くなって、日常生活にも支障をきたしはじめていたからだ。生きている体が発する感覚が、男に流れ込んでくるのだ。
 この頃にははっきりと、痛み以外の感覚を受け取るようになっていた。もっと弱くかすかな感覚、たとえば触覚、味覚、嗅覚……などまでも、少し近づいただけで感じられるようになってきた。着ている衣服の感触や、食べ物の味などが無差別に脳に入ってきて混乱した。
 さらに視覚や聴覚までもがうっすらと彼の脳に流れ込んできてしまった。自分の目で見ている景色に他人の視覚がかぶさってくる。自分の聞いている音に他人の聴覚が押し入ってくる。こうなるに及んで、彼は生きている人間に恐怖を感じるようにすらなってしまった。人混みを避けてはいたものの、痛みや苦しみなどの強い感覚が伝わってきて悲鳴を上げて逃げ出したことも再三再四に及んだ。
 そのころには、命を失った肢体からの波動にもますます敏感になっていた。これらは非常に弱々しく決して彼をわずらわせなかったし、いつでも甘くゆったりとした安らぎの波だった。
 命のない体に感覚を集中すると、その体が元素に還るまでの間に見る夢のような記憶を感じ取れるようになっていた。生きていた頃のもっとも愉快で安らかな記憶を思い出しながら、生きてはいない体は朽ちてゆくのだ。その共感はとても甘美だった。
 彼はあまりにも人が多い自分の国を出ることにした。出国は生きている人の感覚に襲われる苦痛だが、その苦痛に耐えられるうちにやらなければならないと思った。
 それから年老いるまでの長い年月を、男は外国の田舎町で過ごした。
 土葬が認められているその場所では、体が無機物に還るまで時間がかかる。
 墓の中で命なき肢体の見る夢もまた、長く続く。
 男は何年も墓守として過ごした。
 死という眠りについたものたちが見る、甘美な夢とともに。

 何十年もの月日が経ち、男が自分の死期を悟る頃のことだった。
 世にも珍しい天変地異が彼の住む町を襲った。
 大嵐が吹き荒れたその日、空から大量の魚が降ったのだ。
 町の歴史にかつてないほどの暴風雨の過ぎ去った翌朝には、屋根にも、道にも、墓地にも、銀色のきらめきが敷き詰められていた。町の人たちはこの奇景に最初はただ驚き、そして次に嘆いた。昼になり太陽にさらされれば町を魚たちの腐臭が埋め尽くすだろう。
 男は家の窓際に立ったまま一時間以上も外の景色に釘付けになり、それからふらふらと町を歩いた。まるで何かの意志を受けたかのような足取りだった。
 彼はいちばん大きな通りにうつぶせに倒れ、微動だにしなかった。何時間も、太陽がすっかり高く昇るまで彼はそうしていた。くるぶしほどの高さにまで魚たちの絨毯は積もり、彼の顔と言わず体と言わず魚鱗が付着した。彼自身が魚になったようだった。
 男はこの異国の町でもやはり心を病んだ者だと思われていたが、それでもこのふるまいには誰もが眉をしかめ、また、畏れた。しかし彼にはもう生きている者たちのことは感覚からまったく除かれていた。
 長い間墓の下にだけ向けてきた自分の意識を、男は敷き詰められた銀色のきらめきにだけ向けていた。
 男は、銀色の生き物たちが命を失う前に見た記憶を浴びていた。
 体を銀色のきらめきにうずめるように横たえると、ますます鋭くなった感覚は、その生きていた頃の記憶をはっきりと彼に伝えた。
 彼は赤道から流れる暖流に乗り、大洋を旅していた。
 波間から差す日の光のカーテンの隙間に体をくねらせた記憶。海底から巨大な黒い体をそびえさせるケルプの森。仲間たち。大陸への到達。
 今はもうどこかに消えた命が見た記憶が、いくつもいくつも彼の意識を通り抜けていく。
 数万匹もの魚の群れの生きてきた記憶を彼は感じることができた。
 いつかの父親の言葉を思い出す。
「私たちは地球の目であり耳なのかもしれない」
 地球の記憶を感じとることが自分にはできる、そのことにやっと気づいた。
 銀色の夢を見ながら、男は自分の死ぬべき場所を決めていた。

 年老いた墓守の男が、横たわり、死を迎えようとしている。
 世界有数の大山脈の、湖を見下ろす絶峰。
 ただ静けさと時間の流れだけがあった。
 孤独の中にあって、彼はこれまでの一生でもっとも安らかな気分だった。

 そこは五億年以上も前の生物の化石がたくさん眠る場所だった。世界中の研究者が訪れ、その記憶の断片を発掘して思いを馳せてきた。
 学者たちは言う。現存するほとんどの生命の原型が作られたのが五億年前、カンブリア期という時代だったのだと。大いに繁栄し滅んだ生物もまたたくさんいたのだと。世界中の海を庭として繁栄したサンヨウチュウ。その当時並ぶもののない獰猛さを誇った肉食生物アノマロカリス。進化の過程で彼らはひそやかにその姿を消し、今やその体を岩の間に刻印するのみだった。ヒトを含むすべての脊椎動物の祖先が現れたのもこの時代のこと。生命の原点とも言えるこれらの化石が大量に、まだその大部分を地中に身を潜めている。
 この大山脈は、化石たちの墓標だった。
 そして今も地底には彼らの命を失った体が物言わず眠っている。それらはこれまでの何億年も朽ちることなく大地に眠ってきたし、またこれからも長い年月を同じように過ごすと思われた。誰にも知られることのない眠りになるはずであった。
 この場所が男が暮らした町からそう遠い場所ではなかったのは幸運だった。
 いや、そもそもの始めから彼はこれらの命を失った者たちの眠りに引きつけられてこの地にやってきたのかもしれなかった。
 誰にも知られないように山を登り、青みがかったグリーンに映える湖を見下ろす場所を選んだ。
 自分一人が収まるだけの穴を掘る。そして身を横たえた。
 墓守は亡き父に話しかけた。自分の一生の意味とは何だったのだろうかと。父の声は返ってこなかった。だが、感じることそのものが自分の役割だったのだと思った。最期まで、ただ感じること。
 目を閉じるとかすかな、ほんとうにかすかな景色が感じられる気がする。太古の海の感覚とそこに息づいていた生き物たちの感覚が伝わってくる。
 無数の声はだんだん遠くなっていく。
 遠くなり、しかしはっきりと無数の命が結びつき、絡み合い、大きなつながりを作っていくような気がする。
 ひとつの大きな命の声が聞こえる気がする――。

| | Comments (0) | TrackBack (2)

2004.02.15

『イヌの孵る卵の小景』(十八枚)

 夜店でイヌの孵る卵を売っていた。

 中学生になっても「暗くなる前に帰りなさい」と言われている私には、少し遅い時間だった。たとえお祭りの日でも、私はきちんとルールを守るところを大人に見せなくてはいけない。だからちょっとそわそわしていたと思う。
 「イヌの孵る卵」という奇妙な言葉を見かけなかったら、夜店になんか目もくれないで家に帰っただろう。
 その店は、ぎらぎらした裸電球がたくさん下がっていた。まるで肥満児がまとめて梁からつり下げられたみたいだった。きっと裸電球のせいで暑苦しかったから連想したんだと思う。
 カラフルに色づけされた卵が、たくさん並んでいた。発泡スチロールの上におがくずが敷いてあって、卵たちの寝床になっていた。大きさはまちまちで、私の眼球から頭骨くらいまでいろいろ。色も赤や青や黄色の原色、象牙みたいな白や磨いた黒檀の色、どれもとてもきれい。
 看板は無造作に切り取られた段ボールだった。
 達筆で『イヌの孵る卵あり桝』と書かれている。
 おかしなことも世の中にはあるもんだ。ホニュウ類は、人間でもイヌでも母親から生まれてくるはずなのに、卵とは。
 そんなことを思いつつ、でも卵からイヌが孵るところを見たいとも思った。
 店の中にばあちゃんが一人いるのに私は気づいた。ほとんど真っ白に近い灰色の髪をつややかに結い上げて、渋茶色の着物を固く着込んでいる。その人はとてもやわらかい感じがした。顔のしわもそういう感じだし、しわと見分けがつかないほどの細められた目もやわらかそうだった。ばあちゃん、暑くないのかなあと私は思った。
「どんなイヌに会いたいの?」
 ばあちゃんが言った。
 あとから思っても、ちょっと変な言い方だった。ふつうはどの卵がほしいの、って聞くと思うのだけど。
 そのとき、私の中にふっと一匹の犬のことが思い出された。
 私は心の中に浮かんだことをそのまま口にした。
「コータが生まれる卵はありますか?」
 イヌが孵る卵があるんだったら、もしかしたらその中にひとつくらい、コータの卵があってもいいと思った。
 ばあちゃんはを糸のような目で私の顔をじっと見てから、カラフルな卵の上を手探りするように指でなぞっていった。それからひとつ卵を選んで差し出してきた。
 コータの卵があったのだと私にはわかった。百円玉を二枚財布から出し、小銭がじゃらじゃら入ったボール紙の箱の中に入れた。店主のばあちゃんから卵を両手ですくうようにして受け取った。
 ばあちゃんが選んだのは、ニワトリの卵よりは二回りくらい小ぶりのうす汚れたような感じの卵だった。白地に大きな茶色のブチがついた卵だった。
 いろんな卵の中にあって目立たない、価値のなさそうな卵。
 コータと同じ茶色のブチの卵だった。
 私は腕の中で卵をぎゅっと抱きしめた。
 またコータに会えると思った。

 コータとは三年前、私が小学四年生のときに別れた。
 引っ越しの時にいなくなってしまったのだ。両親はきっとどこかで元気に生きているよと言った。でも、少し経ってから聞いたら、コータはきっと天国で美夜子のことを見ているよと言った。
 捨てられて野良になった犬は保健所で殺されると私が知ったのは、もう少しあとのこと。
 私は家の裏手に土盛りをして「コータの墓」と書いた木ぎれを立てた。

「美夜子、何を大事そうに抱えているの?」
 予備校から帰っていた高校生の兄が、聞いてきた。
 リビングのテーブルでノートパソコンを広げている。
 高校生にもなると、お祭りにも興味がないようだ。今年から父の名義で株式投資をはじめたそうで、それに夢中になっている。暇さえあればネットで自分のポートフォリオを開いている。
 兄に言わせると、
「お金は卵を産むんだ。育ててやるとどんどん大きくなるんだよ」
だそうだ。
 コータの卵のことを教えたら、なんて言うだろう。
 私は兄の隣の椅子をテーブルから引き出して、そこに腰をかける。
「コータにまた会えるよ」
 そう言うと、兄は私と、私の掌の中に隠されて見えない物体とに視線を往復させた。
「コータは生まれ変わってくるよ」
「手の中のものは、何?」
 私はふふふっと唇から含み笑いを漏らした。
「イヌの孵る卵だよ。さっき夜店で買ったんだよ」
「卵? きっとニワトリとかのじゃないの」
「違うよ、ちゃんとコータの卵だもん。私が何も言わなくても、茶色のブチのあるのをくれたよ」
 兄は少し思案顔になった。
「美夜子、生まれてくるのがもしニワトリでもコータだと思えるのかい」
「うん、生まれてくるのは絶対にコータだもん。何が生まれてきても私はコータって名前にする」
 指を一本一本ほどいて、兄に卵を見せた。
「美夜子……」
 あれ、どうして兄は悲しそうな顔をしているのだろう。
 兄が私におおいかぶさるようにして私の背中に腕を回した。
 白いシャツの胸が目の前にひろがった。
「コータはね、生まれ変わってくるんだよ。私たちに会いにくるんだよ」
「そうだな、美夜子。そうだな……」
 兄はしばらく私を抱きしめていた。
 私がぼーっとした頭でリビングを離れると、帰ってきた両親の声が後ろから聞こえてきた。おかえりの挨拶ができる子でなくてはいけない私は、「おかえりなさい」と言ったけれど、きっと精気のない声だったと思う。
 胸の中の空気にここちよい汗の匂いが残っていた。
 部屋に入ってから、肺の中の空気をゆっくり入れ換えた。
 私のたった一つのルール違反が両親に見つからなかったことに、心底安心した。

「美夜子はコータの卵を買ったんだって?」
 夕食をとりながらそう言う父の顔はちょっと青ざめている気がした。もう何年かの間、父はこういう顔色をしていることが多くなった。いつ頃からだっただろう。何かにおびえているみたいに見えるので、どうにかしてほしい。
 私は返事をする。聞かれたことには答えなさいというのが我が家のルールだからだ。中学受験をはじめた頃から少しずつ増え続けたルール。
 わずかな秘密を隠すため、私はそれらを守らなければならない。
「買いました」
 背筋は伸ばして。声は大きすぎず、でもはっきりと。私は完璧にそうした。
「そ、そうか。私も子どもの頃に夜店でヒヨコを買ってきたことがあったっけなあ」
 父の話は質問ではなかったので、私は口をはさまずに食事を続けた。母が作った栄養のバランスと頭脳の成長促進に最適のメニューだ。私はときどき同級生たちが話題にする自分の家の料理の味自慢に加わったことがない。愚痴のこぼしあいにも、同じ。
 サラダの上に乗っかったゆで卵のスライスが私を見透かすように見つめているように思えて気持ち悪かった。私は視線のど真ん中をざっくり箸で突き刺すとレタスの葉っぱの下に押し込んだ。
「あの怖いばあちゃんがなあ、もともとのつり目をもっとつり上げて怒ったよ」
 父は陽気に感じられなくもない口調でしゃべっている。
「卵を産むから飼ってやってと頼んだけれど、ばあちゃん怖い顔で、夜店で売っているヒヨコは全部オンドリで卵なんか産まないんだ、とね」
 仏壇の中のばあちゃんか……あれ、ばあちゃんはどんな顔だったろう。怖いつり目の人だったのは覚えているけれど。いつも着物を着ていたことくらいしか思い出せなくなっていた。
「そのヒヨコも、コータみたいに死んだの?」
 ひと言だけ言ったけれど、誰も答えなかったので、私はごちそうさまと言って部屋に戻った。私に押しつけられたルールに父や母は従わなくていいらしい。兄と私だけに押しつけられたルール。兄と私だけが守っている、兄と私とを一緒に縛り付けている意味のないルール……。このごろの私にはその束縛も少し心地よく思えてきていたのだけれど。
 私が去ったあとのリビングでは、父と母が二人がかりで兄を問いつめていた。
「あなたは美夜子の卵というのを見たんでしょ」
「……」
「なんだって。それは卵じゃなくて犬か何かの……じゃないのかい」
「まあ、気持ち悪い!」
「困ったな……」
 私の耳にはもう聞こえていなかった。

 私はその晩から卵を抱き始めた。
 イヌの体温は人間より高いんじゃなかったっけ。それに、何日くらいで卵が孵るんだろう。店主のばあちゃんに聞いておけばよかった。明日までがお祭りだから、また行ってみようと思った。
 翌日その場所に行ったら、お好み焼き屋になっていた。あたりの人に昨日の店のことを聞いてみたけれど、誰も知らなかった。
 卵が孵るまで自分で温めよう。そう思った。いつもハンカチにくるんで肌身離さずにいることにした。いつ孵るだろう。私はコータに会えるときが楽しみだった。

「美夜子、言いにくいんだけど……」
 兄が珍しく遠慮がちな声で話しかけてきた。普段はまったく似ているところはないのに、なぜか少し父に似ている気がした。やめてほしい。
「お前の部屋、少し臭わないか?」
 私はこんな兄を見たくなかったので、返事もせずに通り過ぎた。幸い父も母もそばにいなかったので私が質問に答えなかったところは見られていないはずだった。
 父も母もこの卵のことを気にしているみたいだった。
 私は自分なりに少し調べて、卵について書かれているウェブサイトや本で知識を仕入れていた。卵というのは雑菌から守られているはずだから腐ることはない。だから臭いなんかするわけがない。
 卵のことをあれこれ言うのはやめてほしかった。
 私はそれから学校に卵を持っていくときには、消臭剤に使われている活性炭を敷いたハンカチで三重にくるむようにした。夜店でのおがくずがヒントになった。

 ある日、お風呂から上がって部屋に戻ると、卵がなくなっていた。
 代わりにベッドの上には真っ白な綿毛のかたまりがいた。マルチーズの子どもだった。
 誰かの演出だということはすぐにわかった。私は心臓が一回だけ破裂しそうなほど胸の中を跳ねたのを感じた。
 綿毛のマルチーズは足をもつれさせながらも尻尾を振って近寄ってくる。私は無言で抱き上げた。小さな生き物だから、そっと扱った。
「オスね」
 性別を確認して、この子の名前を考えることにした。
 一時間後にマルチーズと一緒にリビングに行った。父と母と兄がいた。でも、三人とも私が入っていってもテレビから目を話さず、お互いに言葉も発しなかった。どことなく白々しくて、ぴりぴりとしていた。その雰囲気が心地よかったので、私はそのまま椅子に座り、マルチーズをなでていた。
 兄の顔が赤く腫れていた。卵がなくなったのは父と母のせいに違いなかった。兄はきっと反対して殴られたに違いないと思った。
 その夜、兄が部屋に来て私に謝った。コータのことごめん、と。三年前のことを言っているのじゃないとわかった。兄はコータの卵が死んでしまったのを謝っているのだと。
 私は気の毒な兄の頭を膝にのせ、いいんだよ、と言った。
 そっとぬぐってやった兄の涙はしょっぱかった。
 私の爪の間にわずかに残った土に誰も気づかなかった。マルチーズを見つけてからすぐ窓から外に出た私は、墓の盛り土の表面が新しくなっているのを見た。十分以上かけて素手で掘り返したのだ。だから私はコータの卵がもう死んでしまったのを知っていた。
 でも、父と母とにはそのことは知られたくなかった。
 コータについて私が知っていることの何もかもを、知られたくなかった。
 そして私はこれからも父と母の前ではルールを守り続けるだろう。偽りを隠すために。

 偽りは隠されたまま、日が経った。
 一度仏壇の前で父と二人きりになったことがあった。
 父に話しかけられてしまったので部屋に戻ることができずにしばらく話につきあった。三年前には兄が高校受験の年で私も中学受験の塾に通い始めたばかりだったことや、引っ越し先のこの家では庭がほとんどなかったことを言われた。あのときはいろいろとたいへんだったと言われた。
 私はただ仏壇を眺めていることしかできなかった。
 なんのために仏壇の前にいるんだっけと考えていた。そうだ、ばあちゃんの顔を思い出すためだった。仏壇の中のばあちゃんは怒っているような目をしていたけれど、死ぬときよりかなり若い顔で、私の覚えている顔とは違う。
 ばあちゃんは死んだときにはもっとしわくちゃの顔で、そしてもっとやさしい顔だったなあと思った。
 夜店で会ったのは、ばあちゃんだったんだ。
「美夜子、犬の名前はコータにするんだろう」
 ふいに父に問いかけられた。私は質問されたら答えなくてはいけない。
 あとでコータの墓に行こう。
「いいえ。お父さんが決めてください。でもコータ以外の名前がいいと思います」
 そう言ってトイレに向かった。気持ち悪くなってきたからだ。
 ひとしきり吐くと、元気が戻った。
 玄関から出る。スコップを持って裏手に回った。
 意外にも先客がいた。
 兄だった。
 お線香をあげている。
「おい美夜子」
 後ろから父の声がする。追ってきたのか。
「兄ちゃん、もうここにはコータはいないの」
 スコップを突き立て、盛り土を崩していく。
 線香も墓標も、塗り込めるようにして土で覆っていく。真っ平らになるまでならしたから、あのときに埋められた卵もしっかり大地に塗り込められただろう。
 父が何かを言っている。ちゃんと卵は孵ったんだから、墓はいらないんだね、なんて言っているみたいだった。
 父は間違っている。
 いや、偽っている。
 あの卵は死んでしまった。
 コータはまた、死んでしまったのだ。

「兄ちゃん、美夜子のこと、好き?」
 私は兄に聞いてみた。
「ああ、好きだよ。ずっと」
「コータのことも……?」
「……」
「また生まれ変わってきたら、今度はコータを守ってくれる?」
「うん、守るよ」
 信じるよ、兄ちゃん。
 振り返ると父の隣に母もいた。私は部屋で休みます、と告げて家に入る。
 おなかにそっと手をあてる。

 コータの鼓動が聞こえたような気がした。
 たとえ何に生まれ変わってきても、私はコータのこと、わかるよ。


| | Comments (2) | TrackBack (1)

2004.02.12

『魔神の手』

 両手を魔神の手にしたのはどういう動機なのかと、あなたは聞きたいに違いない。
 いいだろう、特別なあなたには、話してさしあげよう。
 私の心の奥底にあったねじれた欲望と理由、そしてその顛末を聞きたいのならば、とくと語って進ぜよう。

 今でこそ信じられないと言われるだろうが、私はどうしても二流以下を抜け出せない彫刻家としての自分に絶望したのだ。
 この手には何の魔力も魂もない。だからすぐれた彫刻が創れない。そう思った。
 だから魔神と契約して両手を借り受けたのだ。
 まだ若かった私の歓喜を、あなたはきっとわかってくれるに違いない。いや、わからなければならぬ。
「この両手で道具を使ったとき、どんな素晴らしい美が生み出せるだろう!」
 私は誰にともなく叫んだ。
 死後に責め苦が待つという警告に耳も貸さずに手に入れた魔神の手。
 私の栄光はすぐにやってきた。うってかわったように私の作品の評価は上がった。あなたは、もちろんそうだろうと言うのかね? まあ聞きたまえ。最後まで、な。
 急に腕を上げてきたと美術界でも評判になった私は有頂天になった。今まで羨望のまなざしでしか見ることのなかった同期のA原やB山たちとほとんど違わないレベルの作品を生み出せるようになったのだから。
 しばらくは私の評価は上がる一方だった。もっとも将来を有望視される彫刻家と言われ、どこへ行っても誰もが下にも置かない扱いで私を迎えてくれた。こんなふうになってみたかったと、そのときはまさに夢をかなえたように思ったものだ。
 そのうちライバルだったA原やB山が相次いで夭逝すると、私の目標はさらに彫刻界の上の人間になった。私はこの国で最高峰の何人かの彫刻家に負けない作品を作ってやると息巻いた。そして、それは早々と実現したかに見えた。
 しかし、期待の新人がついに頂点に挑む、と期待されたすぐあとで、私の評価は一変した。地に墜ちたと言ってもいい。
 なんと言われていたかは、お聞きなったことがあろう。そう、「人真似彫刻家」だ。いつまでも先人の作った枠組みから出られないとか、小さく実る早稲だとか、それはもうこきおろされた。
 いかなるときにも外さないこの手袋もついに不審の目で見られるようになった。口さがない者からは、パーティーでトイレに入ったそのままで食事をしたり握手をしたりしている、などと言われる始末だ。もちろん根も葉もないでたらめだ。手袋は、予備をいつでも持ち歩いているのだ。わかってくれるだろう。この魔神の手を人前に出さないためには当然の苦労だからな。だが、噂を止めることはできなかった。それに次々と尾ひれがつくのも、な。
 私の周りには友人などはおろか、家族さえも寄りつかなくなってしまったよ。
 私自身かなり荒れていたから当然だっただろう。あの当時のことをうらんではいない。
 誰もいなくなり、やっと私は自分のことを冷静に見られるようになったのかもしれないな。そのときようやく気づいたのだよ、魔神の手はたしかにどんな美でも生み出せるのかもしれないが、それはすでに誰かが作ったものに限られるということにね。とんだ詐欺じゃないかね、これは。まあ、まあ、椅子を立つ必要はない。話は最後まで聞きたまえ。あなたも聞いてよかったときっと思えるところがあるから。
 私は目の前が真っ暗になった。誰かの模倣をしつづけて、何が彫刻家、美術家だとね。美術は模倣の対極にこそあれ、模倣に内包されうるものなんかじゃない。美を志す者なら誰だって知っているはずのことを、私は忘れていた。
 私は新作の発表をぷつりとやめた。
 新作をやめたら、その代わり、別の依頼がやってくるようになった。捨てる神あれば拾う神ありというが、使い古された言葉にも正しい面があるものだな。もっとも私は魔神と約束を交わしてしまった身だから、神の思し召しなんていうものは望むべくもないし、最初から信じてもいないのだが。
 その依頼とは、古美術品の修理と復元だった。
 それらは修理するにも専門の技術が必要だ。私に白羽の矢が立ったのは、考えてみればごく当然のことだった。どうだね、少しおもしろくなってきただろう。
 最初は仏像などからはじまり、そのうちに共同作業という形で絵画や建築物の依頼も入ってきた。
 だがこれで私に安息が訪れたかというと、それは違う。
 あなたはもちろんご存じだとは思うが、時をおかずして私はこの国で二人といない美術品の修理と復元の専門家と言われるようになった。あらゆる美術品が、それが貴重で、高価であればあるほど、競うように私のもとに持ち込まれた。
 美術を志した者として、ありとあらゆる年代の美術品とじかにふれあい、その命を助ける仕事ができて、誰が不満を言おうか。きっと誰だって、誇りに思い、大いなる満足を得るだろうな。ただし、それがほんとうに自分の手で為したことであれば、だ。
 私は、自分の手がその仕事を行ってきたのではないと知っていた。
 魔神の手だ。
 私ではなく魔神の手がやったことを私がその成果だけを盗んだ。盗み続けた。
 金は浴びるほど入った。しかし少しのなぐさめにもならないどころか、私の心をその重みがつぶしてしまうのではないかと思った。
 私の生活は乱れた。人には言えない悪徳にも一時身を染めたことだってある。乱れた生活は心の乱れそのままだった。人は私の絶頂期のひとつと言うようだが、とんでもないことだ。ときには少しも悪気なく言ってくださる方が「あなたは自分の業績を自慢ひとつせず謙虚だ」などと評してくれることがあって、それがまた耐え難い圧力となり、心を締め上げられた。
 なんということだろうか。名声が高まれば高まるほど、私の心は地獄に堕ちていった。
 魔神の手を甘く見ていた。責め苦は死後に支払えばいいのだからと高をくくっていた自分が浅はかだったのだと悟った。いわんや悟ったからといって苦しみが減ったわけではないのだがね。
 それでも私は仕事を続けた。私にも美術を愛する心だけはあったのだ。今ここであなたと話しているときに至っても、その美を愛する心だけが、真実たったひとつの私の長所だと思っている。美を愛する心によって、私はたくさんの貴い品々の命を未来につなぐ仕事を続けたのだ。
 ある日、私にきまぐれが起こった。
 ここから先の話を聞くと神だとか仏だとかの存在を信じるかもしれないね。だが、私は神も仏も信じていないのだ。まあ、もうすぐこの話も終わりだ、なんと思って聞くのもよかろう。
 私はふと彫刻刀を取り、何十年ぶりかで自由に作品を彫ってみようと思ったのだ。
 心に浮かんだのは、昔の、自分の才能に絶望していた頃の自分の作品のイメージだ。ろくな作品がなかった。だから凡庸でつまらないモノにしかならないのが当然だと思った。だが、気まぐれとしか言いようがないが、私はそれをもう一度作ってみようと思ったのだ。
 おもしろかったね。そりゃあもう、おもしろかった。
 イメージのまま形が現れるなどと言うことがあるが、それを超えて、形が現れるごとにイメージがイメージを呼んでいった。新奇とそれに呼び込まれた新奇とが連鎖していく。素晴らしい感覚だった。そして、ほかの誰の作品にも見たことのない見事な作品が生まれた。自画自賛と聞こえるだろうと思うが、正直なそのときの心境だ。
 昔の私の心にはのし上がってやろうとか誰それに勝ってやろうとかいう心がいつもあったが、それをまったく持たずに、彫刻することだけを愉しんだ。おそらく最初に彫刻家を目指した頃以来はじめてだっただろう。私はプロになろうと思ったときから彫刻を愉しまなくなっていたんだな。滑稽だろう。だが、こんなことはよく聞く話だと思うだろう。私もそう思ったさ、自分の身に起こったことながらね。
 だが、なんとなくわからないかね、あなたなら。そうとは知らない間に変わっていってしまった自分の気持ちが。自分にも起こりうるとはなかなか誰もが思わないことだが、うすうすわかりはしないか。
 さあ、もう話は本当に幕引きの時だ。
 私はそうしてそれまでの人生で最高の作品を手に入れた。
 そして、手袋の必要からも解放された。あなたが知っている私は、おそらくそれからあとの私がほとんどであるだろうな。あれほど渇望して得られなかった場所に、今私はたしかに立っている。
 私が自分の彫刻を取り戻したそのときから魔神の手は、なくなった。
 当然だな、そのとき魔神の手は、私の体には存在できなくなったんだ。
 わかるだろう?

 うむ、あなたが手袋をしている理由、もちろんわかっているよ。世間では若い頃の私の真似をしていると思われているようだね。作風がそっくりなのだから、そう言われるのも無理はない。
 けれども、私はほんとうの理由を知っている。
 そしてあなたが今日ここに何をしに来たのかも知っている。
 ぎょっとすることはない。最初からわかっている。わかっていてお話ししているのだ。
 なぜなら、魔神の手を私ほど知るものはいないからだ。
 魔神の手の嫉妬深さを、な。
 自分が模倣した相手がこの世に生きていることを嫉妬するのだな、魔神の手は。模倣だけしかできない身でありながら、自分の作ったものが模倣品でしかない事実を受け入れたくないのだ。だから元となる者が生きていることが許せない。違うかね。
 まこと、魔神の手を持つ者は苦しみを避けることはできないものだ。
 私は遠い過去の自分が犯した罪の重さはよく知っている。だからこのまま地獄へ赴こうではないか。今日あったことを伝えるなんのメッセージもこの世に残したりしない。
 あなたを恨むこともしない。
 むしろ感謝をしているよ。
 だってあなたは私の手を取り戻してくれたではないか。
 かけがえのない、私の両手を。

| | Comments (0) | TrackBack (1)