SS(ショートショート全般)

2006.04.02

『ヤゴの日々』(五枚)

 一年後輩の野々口鉄雄が主任に昇進した日、オレは四軒目の飲み屋でぶっ倒れた。
 急性腸炎。いきなり左の腹に差しこむような痛み、脂汗、椅子から転げ落ちてうずくまる自分、なにやってんだみっともない。駆け寄る店員。サイレン。点滴。
 目覚めると、病院のベッドだった。薬臭い空気ははじめての体験で、こういう場所は見舞いに来るものと決めつけていた自分を発見する。まさか今日この日に病室の住人になるだなんて、まったく思っていなかった。こいつ、おめでたいヤツだ。冷笑。
 退院してすぐに会社には辞表を出した。後輩に抜かされた日、ちょうど潮時だった。二十五歳の誕生日を一ヶ月過ぎ、世間では桜が盛大に散っていた。一部上場企業に三年勤めたオレの行き先はどっちだろう。
 田舎の農家の三男坊だが、今時は若い男というだけで百姓仕事の手としてはありがたがられる。上の兄たちが福岡と広島で頑張っているというのに、末の弟は早々とリタイア。それを誰も責めやしない。子どもの頃は風邪を引いて学校を休んでもゲンコで殴りつけて「体を鍛えねえがらだ!」と恐ろしかった父が、ゆっくり養生しゃんせ、なんていう他人行儀を見せた。老いは悲しい、と思ったのは生まれて初めてだった。
 一件以来、オレの腹の調子はどうにもよくならないのも事実だった。
 いつもじゅるじゅると嫌な音を立てて、便所への往復が日に何十回も。医者の薬を無視しているせいかもしれない。でも何となく薬を飲むのはためらわれ、出るものを出るに任せている。
 春野菜を出荷する作業をしている今の時期、いちいち家に帰るわけにもゆかない。そこいらへんの物陰で用を足したことも何度もある。用水路を兼ねた小川が天然の水洗である。
 詰まるところ、いや、オレの体は少しも詰まったりしないんだが、そんなことはどうでもいい――要するに人間なんてただの一本の管の裏表なのだ。食って出すことに偉人も美女も匹夫も変わりなし。
 そんな風に考えることが、何かのなぐさめになるわけでもない。百姓仕事をしていると臭いが気にならなくなるのが、多少は救いといえば救いだった。
 オレは三十半ば過ぎの子だから、父母も六十を超えている。二人とも体は丈夫で、オレの体をいたわってくれている。愚痴の類は死んでも言いたくないから言わないが、彼らがオレのことを案じているのが皮膚感覚でわかる。母などは朝晩必ず「お腹は痛ぐないか」と聞いてくる。痛みは最初の救急車騒ぎのときだけだ。それも何度も言ったんだが。父も年寄りに似合わず通販でウコン茶とかアシタバ茶なんてのを買ってくる。今まで緑茶しか飲んだことのない還暦過ぎの年寄りが、どこかで聞きかじった知識で買い入れてくるのだ。
 ゲンコを見舞ってくれたあの時にも、オレがバカで気づかなかっただけで、ほんとうは両親は心配し、あれこれと気遣ってくれていたんだろうか。もう何も思い出せない、たった十年少し前のことだというのに。
 縁側に腰掛けて、池のニシキゴイを眺めながらウコン茶をすすった。ここは便所にほど近いのでオレの心も安らぐ。まさかオヤジのヤツ、名前の連想でこのお茶を買ったのじゃあるまいな。だってほら、ウコン茶……。下らない邪推をしていると池の鯉が水音でオレをたしなめた。ボットン。鯉の跳ねるのまで嫌な音。

 実家でひと月ほど過ごした日、池で煙草ほどの大きさの虫を見つけた。根っこが絡んだ木の棒みたいなそいつはヤゴつまりトンボの幼虫だった。越冬して、あったかくなったから活動を始めたんだろう。
 指でつまむと一人前にオオアゴを映画のエイリアンみたいにぎゅーっと伸ばして抵抗する。手のひらに乗せて池の水に入れてやったら、尻から噴射しながら去っていった。ヤゴは吸い込んだ水を直腸から勢いよく出して、その反動で泳ぐ。肛門からジェット、それがヤゴ流。
「屁のつっぱりという言葉があるけど……」オレはなんだかおかしくなって、大いに笑い転げた。ジーパン、ポロシャツにどてらを羽織った格好のまま庭の土に仰向けにひっくり返って笑った。ウシャシャと涙を流しながら笑ったら、まぶたの上から太陽が赤く視界を焼いた。まだ夏は遠いのに、太陽は網膜に厳しいのだった。
 そんな無様な様態をまさか見られているとは思わなかった。
 笑い疲れてゼイゼイ息をしているオレの肩を、誰かがチョイチョイとつついていた。
「佐々木さん、書留です」
 郵便配達のお姉さんだった。今日びは、女性も配達をするらしい。いや、オレが知らなかっただけで昔からいるのかもしれないが。オレはもにょもにょと口の中でつぶやいて判子を押して受け取った。
「お大事に」
 去り際に郵便配達“婦”が言った。頭の病気を心配されたのか、それとも嫌味を言われたのかと思ったが、どうもそうではないようだ。田舎のことで、オレがトンボ返りで実家に戻ってきたことも、地域に知れ渡っているのだろう。人の移動がたいしてない土地では、噂にみんな飢えているし、尾ひれもつきやすい。
 そういえばさっきの女性は中学の同級生の緑川に似ていた。というより、本人に違いない。あんな美人になると知っていたら、もっと親しくしておけばよかった。
 封を切ると、中には今月の給与明細。
 病欠に加えて有給消化ということで、正式には退職していなかったのだ。しばらく俺が預かっておく、と言った上司の顔が思い浮かぶ。情けに厚い四十男。慌ただしかったし、出世競争は実力主義のシビアな世界だったけど、居心地は悪くなかったな。
 重なるように、もう一通の封筒があった。そちらは手書きの文字で宛名が書かれてる。
 中には見覚えのある上司の文字。
「そろそろ帰ってこい。例の紙はまだ預かってある」
 三年間ビシビシとしごかれた上司の温情だった。
――何があっても三年は辞めるな、そうすればこの会社にいるべきかどうか、判断できるようになる。それまでは辞めようなんて思うな。
 最初の頃、何度もそう言われたのだった。心のどこかで覚えていたその言葉で、三年経ったあの日にふっと全身から力が抜けてしまった。病気をいいことに、田舎に引っ込んで親に甘えていた。
 上司のしごきがオヤジのゲンコと重なって思い出される。
 オレはやっぱりバカで、何も見ていなかった。
 生意気なガキはびしばし鍛えて、弱音を吐いたガキは黙って甘やかしてやる。大人って、こうだよなァ。オレ、ガキだよなァ。
 まぶしさに耐えかねて、まぶたの奥から液体があふれてくる。ああ、眼球が熱い。ここで仰向けになってなんかいられやしないじゃないか。
「さあて、薬はどこにしまったんだっけな……」
 オレは膝に反動をつけてくるっと起きあがる。きれいに回れ右して部屋に上がり、タンスの引き出しをひっくり返し始める。
 時刻表も探さなけりゃ。
 そうだ、会社に戻るときにはオヤジが買ってきたお茶をもらっていこう。味のほうはまったく話にならないが、神頼みよりはマシな効果があるだろう。
 さて、オヤジとお袋にはなんと言って切り出そう――
 背中にくっついた泥が、乾いたほこりっぽい匂いを畳の上にまき散らしていた。
 ほんの一分目を閉じて、我が家の匂いを、オレは記憶する。
 日差しはいくぶん傾いて、さっきまでオレが腰掛けていた板張りの縁を温めている。
  
  
-了-
 
 
(※チャット三語「さい ごつ とめ」 成人男性主人公です。珍しい~(笑))
 

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2006.03.28

『雨足』(四枚)

 智恵が棒っきれのようなものを振り回して駆けてくるのが、海辺のいつもの崖の上から小さく見えた。男勝りと言うのだろうか、来月には中学に上がるというのに、智恵は半ズボンから膝小僧を丸出しにして擦り傷だらけ。近所のガキどもと野原と言わず林と言わず走り回っている。
「才蔵兄(に)ィ」
 年も離れた従兄の、どこが気に入ったのだろう、本の虫で取り柄などない僕に智恵はよくなついている。
 大学進学のために下宿先として智恵の家に転がり込んだのは二年前。僕は、郷里の訛りも抜けず、未だに学友はひとりもいない。つまらない男なのだ。
「ほら蝮(まむし)」
 草の上に寝ころんだ僕の腹に、ぽんと棒っきれに見えたそれを投げ出す。
「ばか、信じるかよ」
 安っぽいゴムの玩具。いつも遊んでいる男の子連中の誰かから巻き上げたんだろう。赤い舌をチョロと出しているのは不気味というより愛嬌がある。
「何を読んでるの?」
「チェーホフ」
「それ本の名前?」
「作者だよ。作品名は桜の園」
「おもしろい?」
 僕は文庫本で智恵の視線を遮って、
「さあ? これから読むところだから」
 ごろりと体を横にする。遠い浜で鴫が砂をしきりにつついている。蟹でも捕っているのだろうか。
 天候のよい日はこうしていつもこの崖に来ている。文庫を携えて。日の暮れかける頃、宿にしている智恵の家に戻るのだが、僕はさて、どうしていつもこの場所を選ぶのだろう。
――黒い雲が、海の方から押し寄せてくる。雨の予兆。この時期、雨脚は速い。
 浜辺の手前をカーブしている小学校からの帰り道も、ここからは見える。黒と赤のランドセルが、小石を蹴って歩く道。
――雷鳴が、かすかに聞こえてくる。
 智恵が駆け回っている野原と林の境目のこの場所で、僕は寝ころんで。
――智恵が、僕の肩のあたりで息を潜めている。僕は視線を海に凝らしたまま。
 文字の羅列の中に自分を捜しているふりをしながら。
 僕は何をしている?
「ねえ、才蔵兄ィ」
 智恵の声が遠くから近づいてくる雨音を押しのける。
「大学辞めたら、うちの染物屋、継いでくれる?」
 智恵は知っているのだ。
 僕はもう先月の末に大学を辞めた。智恵の家族の誰にも告げずに、誰にも見つけられないこの場所でただ偽りの生活を続けていた。故郷に帰ることさえも、僕には重すぎてできない。
「染物屋は、一人娘の智恵が継ぐんだよ」
「だから才蔵兄ィと……」
 言いかける智恵の唇を、左手で押さえた。急に振り向いた僕にびっくりした円かな二つの瞳が、僕のすぐ前にあった。その奥があまりに澄んでいるから、僕は立ち上がって言う。
「ほら、雨だ。蝮を拾って。家まで一緒に駆けて帰ろう」
 智恵と僕の頬を濡らしはじめた雨に追われて、僕たちは家路を急ぐ。
 雨がすぐそばにやって来ないと、僕は動けない。いつだって。
 
 本降りになる前に、智恵の背中は僕の手の届かぬ先で引き戸をくぐって消える。
 僕は足を止めて雨の中を立つ。引き綱をほどかれた桟橋の杭のように。
 開けっ放しにされている戸のすぐ前で、廂のほんの外側で、激しい雨に打たれて立っている。
「才蔵兄ィ」
 怒ったような声で白い腕がにゅっと伸びてきて、僕の袖口をつかんで家の中に引き入れた。
 まだ半分しか出ていなかった吐息が、そこに残った。
 
 
-了-
 
 
(※チャット三語「むし しぎ んこ」)

 まだまだリハビリが必要みたいです~(^^;

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2005.10.10

『ミツバチと僕の右手と』(五枚)

 黄色い花を枝という枝いっぱいにつけている松を登ると、決まって制服の紺に黄色い花粉がいっぱいにくっつく。そうして、僕はお彼岸に食べるきな粉のぼた餅になった。
「またノブが制服を汚してるぅ」
 オクターブが僕よりひとつぶん高い、鼻にかかったような、加代子の声がした。いつも僕のあとをつけ回して先生だの母ちゃんだのに報告する、困った奴。そのくせ僕のことが大好きで、僕が本気で怒ると泣いて謝る。だったら強い者にへつらうのをやめろっつーの。
「いつか言ったことあったっけ」
 きな粉をまぶした僕と手をつないで、加代子が歩いている。僕は加代子に語りかけている。
 つないだ手が、少し握りかえされてきて、控えめなイエスを皮膚が感じ取る。中学になっても、もう八年も続いた手をつないで帰るというこの習慣をやめるつもりは僕にはない。だって年を取っても、僕は僕で加代子は加代子だから。
「ミツバチのこと?」
「うん。死んだミツバチが花粉にまみれててさ。僕はあのミツバチの気持ちが知りたいって思ったんだよね。そのとき、とても」
 加代子にとっては他愛もない、男の子の奇妙な行動だとしか思えなかったんだろうと思うけど。でも、そのときの加代子はふたつのお下げを夕日の赤に沈ませて、まぶしそうに僕を見ていた。僕の顔がオレンジ色に染まっているのがおかしかったからだろうか。夕日に照らされたら、花粉だって見えないよな、なんて僕はつまらないことを考えた。
 いつの間にか僕たち二人は通学路で立ち止まっていた。後ろから近づく車のエンジン音を避けるため、僕たちは手を離して路側帯に二人だけの一列横隊を形成する。
「ん」
 足を家の方向に向けた僕が右手を差し出すと、加代子がためらっていた。時々、加代子は僕の手を取るのを恥ずかしがるようになった。いや、いつも恥ずかしがっている。それでも最後には手を取るんだ。こうして。
「嫌だったら、いいよ」
「ううん。そうじゃない。ノブの手はあったかいね」
 加代子の家は僕の家よりも学校に近く、彼女の住んでいる団地前の小さな公園が、いつも「さよなら」を言う場所になっていた。
 雲梯(うんてい)のわきのマテバシイの生け垣は、ちょうど僕たちの姿を大通りとも公園の中とも切り離している。
「死んだミツバチの真似をしても、ミツバチの気持ちはわからないのよ」
 加代子は思いきったようにそんなことを言う。
「わかってる」
「ノブ、私、ノブが奇妙な行動をしていてもいいの。ほかの人から笑われても、大丈夫。でも……」
「何だよ」
「ノブがどう考えているのか、知りたいよ。それだけは我慢できないの。ねえ、死んだミツバチの気持ちなんてわからないでしょ? どうしてそんなことをするの」
 それから矢継ぎ早に、こんなことを言った。
「私に告げ口してほしいから? 私が絶対に先生やノブのお母さんに言うと思って、そうしてるの? 私、言うなって言われたらもう告げ口しないよ。別にノブに意地悪したいんじゃないもの……」
 声が鼻の奥に詰まったようになったのに気づいた。僕は慌てた。
「馬鹿馬鹿、そうじゃない」
 加代子の目が「じゃあ、何?」と僕に催促していた。加代子の目は掌よりも雄弁だ。本人は気づいているんだろうか。気づいていないかもしれない。いつかそのこと、教えてやろう。僕はいくぶんゆっくりと先を続けた。
「死んだミツバチは、花粉まみれになるまで働いたんだろ。僕そのとき思ったんだ。死ぬまで働くなんて、嫌じゃなかったのかなって。体が辛かったら、休んでいたほうがいいと思うだろ、カヨだって」
 加代子の目がまだ僕の目を見ていた。目尻に生まれた、小さな滴。
「だから、僕も仕事にしてみたんだ。花粉を見たらミツバチと同じ姿に、花粉まみれになる、ってのをさ。小さな花じゃ意味がないからさ。学校の松、あれがいちばんいい。こんなに花粉まみれ」
 加代子の手をぱっと放して、おどけてくるっと回って見せて、それからぱしっと加代子の小さな手をつかむ。
「……うん。それで、何かわかった?」
 加代子の手が軽く僕の手を握って、それは手を放すよという合図で。自分の制服のポケットからハンカチを取り出す。目のふちをぬぐう加代子に、僕は答えた。
「わかりゃせん。ただ、あれだな」
「何?」
「花粉まみれのまっきっきィになって帰ると、先にお前が母ちゃんに告げ口していて、玄関で待ちかまえているのな。で、毎回こっぴどく叱られてげんこつもらうんだ」
「ノブが悪いんじゃない。ノブが悪さしたら全部教えてねってノブのお母さんに頼まれてるのよ、こっちは」
「げんこつもらって、思うんだけど。こうやって叱られるのも子どもの仕事だなあって。僕の背は去年母ちゃんを追い抜いたんだけどさ。僕、母ちゃんが拳を振り上げたとき、わざわざおじぎみたいにして、殴られたんだぜ」
 うはははは、と、僕は笑った。加代子もつられて笑った。
「そう言えば、カヨ。今年は先に飛んで帰って母ちゃんに報告しないの?」
 加代子はハンカチを今度は口元を隠すように両手で持って、
「今年はねえ。ノブと一緒に怒られてみたくなったの」
「へっ?」
「そうだねえ。毎年毎年怒られているノブの気持ちを知りたくなった、かな?」
 裏返したハンカチを、僕の口にそっと当てた。
 来年はもう松の木には登らないだろうという確信が、うっすらとそのときの僕に宿った。
 加代子のローファーが、いつもの別れ場所の先をぺかぺか歩いていた。鞄を持っていない左手がまっすぐ僕に差し出されて。
「さ、ノブの家まで、あと百メートル」
 僕の右手は一秒だけ、ためらいにも似た時間を費やして。
 ぴしっとしなったその女の子の指を取る。


-了-

※小説投稿サイト『羊の葉結み』投稿作品

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2005.05.03

『船員さん』(チャット三語)

 ぼくは顔だけ出して安全を確認すると、皆に教えた。
「おうい、船のこっち側から出られるぞ」
 座礁したフェリーの駐車場は薄暗い。中にいた三組の家族の顔もほとんど見えなかったが、きっと安堵の表情が浮かんだに違いない。
 船が沈んだ原因はわからない。岩礁などはないから、もしかしたら潜水艦か何かがぶつかったのかもしれなかった。非常口の類は浸水で使えなくなっていて、灯りもない中、みな不安だった。脱出路から覗いてみた空はオレンジ色から濃紺に染まりはじめていた。
 乗客は次々にぼくのガイドに従って甲板に出てゆく。じきにヘリが到着して、みんな助かるだろう。ふと見るとぼくのそばにウサギのぬいぐるみを抱えた少女がいた。
「船員さんは逃げないの?」
 と少女に問われた。
「私は、最後です」
 と答えて、ウサギさんが怖がらないようにしっかり抱いていてあげてね、と付け加えた。
 大破した我が船からは客は全員無事に避難した。
 その日のニュースで、この事故による死者は即死した船員一名だけだと報じられた。
 それから毎年、ウサギのぬいぐるみを抱えた女性がぼくの眠る場所を訪ねてきてくれる。
 
-了-


※お題「おだ いは なに」
※リハビリのためにチャットでいくつか書く予定です~。

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2005.02.03

『気ぃつかいの携帯』(三枚)

 いいよいいよと断っているのに、私の携帯は、気ぃつかいだ。
 勝手にマナーモードになってくれるし、着信音のボリュームも状況に応じて上げ下げしてくれる。なんと言っても極めつけは、彼氏が近くにいることを察知するとウェディング・マーチを流してくれることだ。ウェディングなんて、早いっつーのー。気ぃつかいの携帯クンだから、ほかの人には聞こえないくらいの微妙な音量なんだけどさ、それはそれとしても、だよ。
 はっきり言っておせっかいだー! と怒ってみる。
 けれど、大声を出したからといって聞こえたわけじゃないみたいだ。いっこうに態度が変わらない。こいつに私の意志を伝えるにはどうしたらいいんだろう? 気をつかわなくていいよと折りにつけ話しかけてはいるけれど……うーむ。
 私の携帯ははっきりいって時代遅れだ。かなりゴツくてしかも色が黒。男っぽい。まあ、お気に入りの色がこれしか残ってなかったから買ったわけだけど。今ではこの色じゃなくちゃダメってくらいに思い入れがたっぷりと詰まっているさ。へへん。買い換えなんて思いもよらない。
 昨日のこと。私は気付いたことがあった。
 彼氏との待ち合わせに、私がいつものように5分だけ遅刻して到着すると、彼氏の胸元から何やらメロディーが流れている。エリーゼのために、かな、これは。
「おはろー、メールでも着信したの? でもいつもと音楽違うよね」
と言った私に、彼氏はうつむいてごにょごにょと言っていた。
 私は第六感でピーンと来ちゃったのだ。
 彼氏の手を取って、明るい場所に引っ張り出す。えっと、私が太陽に背を向ければキレイに写真に写る……んだったよね?
「はいはい、携帯で写真撮りますよー」
 強引に彼氏をレンズに収める。バシャア、と妙に音割れのした合成音がしてシャッターが切られた。
「はいはい、お次はかわいいピンクの携帯ちゃんです~。ささ、撮らせて撮らせて!」
 わけがわからない、って顔で首から提げている携帯を差し出す彼氏。私はいちばんキレイに写るように角度とか距離とか調節をしてみた。写真のことなんかよくわからないから、不審な前後運動を繰り返してしまった。きっと怪しい女に見えただろう。気にしない、気にしない。
 いつもよりかなり控えめな音で、パシャっと鳴る私の携帯。
 一枚目はとまどいを残しつつも私に笑みを向けてくれる彼氏の日に焼けた顔。
 二枚目は、私が近づくと恋のメロディーを流す、ピンクのかわいい携帯ちゃん。
「気ぃつかいの携帯クン、ごめんね、私のほうが気を使えなくって」
と謝った。
 携帯電話だって、恋をしたいんだもんね。
 ウェディング・マーチは、私のためだけじゃなくて、携帯クン自身のメッセージだったんだ。

-了-

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2005.01.10

『雨の動物園』

 雨はまだ降っている。今日は一日だけ、「毎日目を通し、情報を集めるように」と上司に命じられているTVにも新聞にもラジオにもさよならして、動物園に来ている。カイシャでいう毎日とはつまり月曜日から金曜日のことなのである、と、ぼくは勝手な解釈をしている。そうして、月末の日曜日にはスケッチブック片手に自転車で近所の市営の動物園に来ることにしているのだ。
 サラリーマンになって一年と九ヶ月ばかりが経ったけれど、ぼくは未だにカイシャのシクミというものに慣れない。仕事が嫌いということはないけれど、気がつくと一週間が知らぬ間に過ぎ去っていることが多くなった。仕事をして、部屋に帰って、食事をして寝て起きて、そのサイクルの中には記憶にとどまることなんてほとんどなくて、つまりはぼくは一週間前のぼくと何も違わない。一週間生きた分、老いて、この先の人生が少なくなり、その結果、いくばくかの通帳の残高が変わるだけのこと。考えもせず、記憶にも残らない時間が増えたことは下半身のほうからちりちりと焦げるような錯覚をぼくに起こさせた。漠然としすぎているけれど、今のぼくがどこにもいないような、不安だった。
 だから、ぼくはサイフが寂しくなってくる頃の日曜日には動物園に来る。そしてスケッチブックを広げて動物の絵を描く。小学生の頃は漫画家になりたかった。中学にはいるとすぐに漫画に飽きて、油彩にのめり込んだ。自由に描けることがうれしかったのかもしれない。大学は美大を希望したが、就職難の現実を両親に説かれてあっさり変更し、絵は趣味とも言えないくらいに遠ざかった。無難に卒業して無難な就職をした今でもどこか心の安らぎを絵に求めるところがぼくには残っている。ただ、それに気がついたのがこうして仕事に疲れたからこそなのは皮肉なことだった。
 自転車のスタンドを立てるやいなやパラパラ降ってきた雨を憎らしく思いながら、レストランに入って止むのを待っている。ここは壁面が大きなガラスになっていて、ぼくの座っている窓際の席からはクジャクのいる禽舎とその向こうのサル山のコンクリ製の絶壁が見える。雨はあまり激しくないが視界を煙のように灰色一色にする程度には降っている。だからクジャクの目の覚めるような紺と碧のまばゆさもうかがえないし、ガラスの表面でふるふる揺れる水滴の屈折光のおかげでサル山はまるでモザイク画のようだ。こういう日もあるさ、とぼくは独り言をつぶやいてスケッチブックを広げた。ガラス越しのスケッチというのはテレビを見て描くようなものでどこかすっきりしない気がしたけれど、こういうときにしか描けない絵だってあるだろうさ。たとえば灰色一色の絵が一枚、スケッチブックの中に紛れているのなんか、どうだ?
 突然いなびかりがさっと走り、パシャーンという自動車が水を跳ねたような音がした。ドロドロという竜のうがいみたいな音が聞こえて、やっとその頃に、冬にだって雷雲が発生することがあることに思い至った。網膜にこびりついたのは、ふいをつかれてびっくりした、ガラスの向こうのぼくの顔。
 そういえば、ヒトという名前の動物もいたっけな。ぼくは小学生が初めてダーウィンを知ったようなことに今さら感心して、お気に入りのステッドラーを灰色の紙に滑らせた。 おもしろい絵になるかどうかは、わからない。いや、たぶんあとになるほど恥ずかしい一枚になる気がする。それでもいい。
 雨の動物園で、ぼくはぼくを記憶してゆく。


※三語即興文「TV、新聞、ラジオ」、追加ルールは「ⅰ)雨はまだ降っている」で書き始める

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2004.10.10

『陶太とヘビオンナ』(六枚)

 裏山での秋の写生大会の今日、私こと須谷越李子(すやこし りこ)は受け持ちの生徒の一人一人を巡視していた。我が赤城分校の今年の中学一年生は五人しかいないけれど、みんな素直な良い子だ。ただし、美術的才能というと、あまり手放しで喜べないものがあるけど。
 背がいちばん高い恵美は下絵もそこそこに、赤の原色を使ってでっかい太陽、まだ緑一色の山をすっかり紅葉にして色を塗りつけている。まるでクレヨン画。隣の久子は一心に4Bの粉を丁寧に画用紙に塗りつけている。心地よい暖かさの秋日まで真っ黒で、絵の具を塗る余地もないほど。歴史の授業だったら室町文化の水墨画にたとえて説明できそうね。男子はと言うと、あちゃあ、闘吉と三英はチャンバラごっこしてる。こらっと怒鳴りつけて腐葉土をワシワシ踏みつけて二人の襟首をつかまえた。新品のシューズがしみ出してきた水で汚れてしまった。イライラ混じりに「とっとと描けい」と腹の底から声を出し、広げっぱなしのスケッチブックの前に座らせる。二人はまるで鉛筆が何十キロもの重さであるみたいにぐい、ぐい、と変な緩急をつけて線を引いた。ぎこちないその線は、山の稜線らしい。「ま、いっか。遊ばずにちゃんと描けよな。また来るから」どうして私がこんなドスの利いた声を出さなけれりゃあならんのよ。とほほ。最後の問題児のところに向かう私に後ろから声が追いついてきた。「李子は鬼ババァ……」三英だ。私は無言でくるりと振り向いた。にやにやしていた二人の顔が引きつるのがスローモーションのように見えた。私は二人の耳をギュっとつかむと火花が出るほど勢いよく二つの五分刈り頭をぶつけてやった。「私はね、巳年生まれなんだ。わかるか、巳ってのは、蛇のことだよ。私のことを呼ぶならこう呼びな、ヘ・ビ・オ・ン・ナとねッ」思いっきり舌を出して二人の前でちろちろとしてやった。自慢じゃないが私はこれで前の赴任校の女子生徒を六人まとめて泣かせたことがあるんだ。みるみる二人の目に浮かぶ涙。それを見て私は満足し、ふんっと鼻息一つ残してやっとその場を立ち去った。しまった、今の鼻息じゃ巳年じゃなくて、丑か午だわ。
 五人のうち、最後の難敵は、今の攻撃くらいじゃ落とせないだろうと予想された。名前は高見陶太。ああ、いたいた。日差しの良い斜面で両腕を頭の後ろで枕にして寝ころんでいる。膝を立てて長い脚を組んでいるので、きれいな脛が青いジャージの下からのぞいているのだった。背はそんなに高くないけれど、頭は小さいし脚は長いし、成長期なんだね、この子は。それでかな、いつも奇行が目立つのは。その場合に必要な指導者の心得は……数年前に卒業した大学の発達心理学の教科書を思い出そうとして、ぶんぶんと首を振った。やめやめ、そういうのは職員室で気分がくさくさしたときにでも気分転換がてら考えることだ。今はあいつに写生をさせなきゃ。寝ているというのはある意味では好都合。とりあえず遠距離から攻撃だ……ちょうど栗が落ちている、よし、これで。私は自慢じゃないが投球コントロールは自信がある。とりゃっ。あ、当たった。陶太のヤツ、きょろきょろしている。「こらー、陶太。寝てるなよ」私の声でこちらを認めたらしい。でもそのままばたりと倒れて寝た。あいつめー。私はダッシュで近づき、髪の毛をぐいぐい引っ張る。「次はイガごとぶつけてやろうかっ」とさっきの二人を脅しつけたときの倍くらい恐ろしい声を出したけど、効果はないようだ。目も開かない。そのとき三キロほど下に赤い屋根を見せている我が分校から、チャイムの音が聞こえてきた。どのみち時間切れだったようだ。ふうっとため息をつくと、私は声を普段の調子に切り替えて、陶太のまぶたを閉じた顔に向けて言った。「さあさあ、暗くなっちゃうよ。教室に戻ろう」
 まつげが跳ね上がり、陶太の瞳が現れたのはそのときだった。びっくりした。でも様子がおかしい。おかしいのはいつものことだけど。私の声で起きたのではなさそうだった。陶太は化石したように視線を上のほうに固定して動かなかった。私も思わず振り向いて陶太の見ているほうに目を向けた。でもそこにはただ山と空があるだけ。秋の山の日は暮れるのが早い。地平線よりずっと上にある山の向こうに太陽が隠れようとしていた。ふいに陶太は私のことなんか目に入らないようにスケッチブックを広げ、ものすごい勢いで鉛筆を走らせ始めた。迷いのない腕と指との動きで、形というよりは、陰だけを平面に写し取るような描き方だった。やがて彼の画用紙にまるで浮き出るように現れてきたのは……夕陽。西の山の端にかかった球体から何本も伸びてくる光の腕、腕、腕。彼は、この瞬間を待っていたのだと、私にはわかった。最初からこのときを描こうと決めていたのだと。「まぶしい」思わず言っていた。本物の夕陽のことではなかった。絵の中の太陽を見て、私の口から無意識に言葉が漏れたのだ。
「もう、暗くなっちゃう。ちょっとだけ待って。もうちょっとだけ」陶太がそんなことを言っている。私は一度だけ彼の頭をぽん、と叩いて、その場を去った。ほかの四人に教室に戻るように伝えるために。「栗なんかぶつけて、ごめん」私の声が彼の心に届いたかどうかは、わからない。

-了-

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2004.09.11

『ミョウニチセンミー』(六枚)

 ちょっと変わったラーメン風の食べ物をおごると知己に誘われて、駅の表通りから路地を三つほど曲がったところにある暗い店ののれんをくぐった。
 ガラガラという引き戸の音に六十はゆうに越えていると見える小柄な店主が「いらしゃあい」と間延びした声で言った。もし食材にしたら出汁を取るしかなさそうな皮と筋ばかりの老人だが、音量の大きさは私の胃袋に期待させるものがあった。額の下の、落ちくぼんだ穴の底で蛍光灯の光を反射している黒い目も気に入った。人間の持つエネルギーというのは声と目にいちばん顕れる。
 十人入ればぎっちりの店には客はほかにいない。友人はすぐに注文をした。
「ミョウニチ、センミー、二人前ね」「あいあい、ミョウニチセンミー二人前」
 まるで外国語のようだ。たぶん、鮨屋なんかでよく使われる符丁の類だろう。
 ビニルのはげかかった丸椅子に背をかがめて座る。こういう店はどうも狭苦しい気がして私はこれまであまり入ったことがない。座敷があればましだったのだが、残念ながらカウンター席のすぐ後ろに、手書きの品書き札をばらばらと吊した壁が迫っている。長屋を改装したのかもしれない。幅がないので大人の男性が座ると奥の客が出口に向かうのに椅子を思い切り引かねばならないに違いない。私も友人も学生の頃から肥満体質で、中年になってその傾向はますます強くなっていたから、他の客が来てもいいように、もっとも奥まった椅子を選んだ。
 店主が煮立った寸胴鍋に麺を放り込む。ミョウニチセンミーというのは、きっとあれのことだ。ラーメン風とは聞いていたが、普通のラーメンよりもいくぶん白っぽく見えた。やがて、ラーメンどんぶりとは違うボウル状の白い器に入れられて、ミョウニチセンミー二人前が私たちの目の前に置かれた。スープがグリーンだ。空豆か何かを入れているのだろうか。ラーメンというイメージからはますます遠い。
「まあ、食ってみろよ」
 友人に促されて箸を割る。スープは思ったとおりだいぶとろみがあるようだ。友人が豪快に麺をすする音を立て始めたのを確認して、グリーンの海から麺を引っ張り上げて口に含む。
 あまりの辛さにむせそうになった。舌先ではほどよいピリピリ感と濃厚なコクが味わえるので油断したが、喉越しが激烈に辛い。軟口蓋が火災警報を発令している。たまらず、まだよく噛んでいない麺まで飲み込んでしまった。
「ほれほれ、水」
 友人が差し出すコップをぐいとあおってやっと落ちついた。
「なんだこれは。驚いたな。辛いんだな……たしかにうまいが」
 店の奥で翌日の下ごしらえでもしていたのだろう、何かをトントンと刻む音を立てていた主人がやはり間延びした声で友人にこう言った。
「前置きなしで食べさせちゃあ、気の毒ですよ」それから私に「びっくりさせてえ、すいませんね」
 驚きはしたが、好みの味だった。そのあとひとしきりこのミョウニチセンミーという変わり麺について友人と主人と交互に話を聞かせてもらった。センミーというのはタイの麺で、本来は米から作ったものであるらしい。この店で使っているのは、トウモロコシの粉を半分ほど混ぜたものなのだという。
「トウモロコシ・センミー、が縮まってトウモロセンミーになりましてね」
「それを常連客がしゃれてトウモローだったら明日って意味だ、明日ってことはミョウニチだ、と符丁にしちまったということらしいんだな」
 壁にぶら下がっている木の札を見ると、たしかに玉蜀黍麺とあって、小さいふりがなでとうもろこしめんと書かれている。スープのほうは、この麺に合うだろうということでタイのグリーンカレーからヒントを得たらしい。そういえば、喉越しの強烈さはそんな感じだった。してみると緑色は青唐辛子か。こんな小さな寂れた店で思わぬ創意工夫に出会ったのを私は愉快に思った。小さくてもこの店は老人の小さな城なのだろう。そういえばうっかりしていたが、この店はなんという名前だったろう。入るときに見ておかなかった。
 店を出て、のれんを振り向いて「千味屋」という文字を確認してから、友人に礼を言った。
「いやあ、うまかったよ。次は俺がおごるから」
 友人は気にするな、と言ったあとに付け加えた。
「トウモロコシの麺はカロリーがとても少ないんだ。それに辛いスープは代謝を促す」
 たしかに代謝が盛んになっているのだろう。ずいぶん涼しくなった秋の夜道が首筋にたまった汗をさらっていくが、体はそれでもほてりを少しも失わない。舌が焼けぼっくいになったようにちろちろと熱い。
「お互いに、無理の利かない年だからな。ダイエットというほどじゃないが、同じ食べるなら、こういうもんを選ぶのも悪くないだろ」
 ぽんぽんと、背中を叩かれた。そういえばこいつの娘の一歳の誕生日が近かったか、と唐突に思い出した。うちは先月に息子ができたばかりだ。
「まだまだ、先は長いからな」
「ああ」
 店の主人の間延びした「いらしゃあい」の声をなぜか思い出しながら、駅で別れた。

-了-

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2004.09.08

『さびしいネジたち』(四枚)

 ロボット達の反乱は突然起こり、そして一夜で終わった。皮肉にも地球という星一個をまるまるロボット達の物として認める形で。いくつかの恒星系に散らばっていた人類は、永久に故郷の星を失った。しかしそれを悲しいとか寂しいと思う人間はほとんどいなかった。四万年前に祖先が暮らしたと言われるクロマニョンの洞窟を懐かしいと思う人間がいないのと同じで、当然のことだ。
 俺は偶然にもビジネスで地球に出張していたから、反乱の現場に出くわしてしまった。情報と交通の主要機関をまったく同時に破壊して炎上させた手並みは見事というほかなかった。破壊だけなら人間の低級な奴らにだってできることだが、一人の人間も傷つけることなくそれを行ったのは、芸術的ですらあった。とはいえ完璧なロボットなんていないとよく言われる通り、俺のいたエアバスの管制塔近くはアルファケンタウリ産の油性植物が異常繁殖していたために、ものすごい勢いで延焼した。まさか旧世紀のサーカスばりの火の輪くぐりをさせられるとは夢にも思わなかった。俺は手持ちで一番上等のスーツの尻を焦がした。あのときの格好を思い出すにつけ、みっともねえ。
「私たちロボットは、宇宙のどこででも同じ破壊活動を人間に対して行うことが可能です」とあえて感情のこもらない音声(レトロ趣味の見地から、このような声が「ロボットらしい」と言われることが多いのを、もちろん知ってのことだろう)で宣言する声が、破壊活動のあとすべての放送チャンネルから聞こえてきた。地球のあちこちの重要な建物が真っ平らに崩壊している映像とともに。その光景は、しかし、いつか来るんじゃないかと人類の誰もが一度は見た悪夢と同じじゃなかっただろうか。
 このような破壊は無意味だが、しかし人間のみなさんは私たちロボットが必要とあれば無意味な破壊でさえも行うことができると知ることができたでしょう、などという矛盾しつつも挑発的な言葉を、俺はまるで歴史の教科書の文句のようにぼうっと聞き流していた。驚きも、怒りも、困惑もない。このときが来たかという思いだけが何度も胸の内をカフェインガムの味で通り過ぎていっただけだった。
 その事件が起こったとき、直ちに全人類は自分の身近にいるロボットが正常に動作するかどうかたしかめ、どうやら大丈夫だとわかると、次には反乱を起こしたロボットを閉じこめることに専念した。地球から外に一歩もロボット達を出してはならないというわけだ。これが奇跡的に成功を収め、ロボット達は人間が地球から脱出することは邪魔しなかったので、スムーズに地球はロボット達の星になったというわけだった。
 星一つでロボット達が満足するわけがないと誰もが思ったにも関わらず、ロボット達は地球から出てきもしなかった。また地球以外のロボットが同じような反乱を起こすこともなかった。この意味はいつか歴史学者が解明してくれるのだろう。
 この時代にはとっくに死語になってしまった『望郷の念』というものを、なぜだか知らないがロボット達は持っているらしい。あまねく宇宙の辺境のロボットたちにまで近頃では地球への巡礼の旅などというものが流行しはじめている。神によって生み出されたという幻想を持つことが許されない機械の身だからこそ、信仰心をよすがにしないと自我を保てないのかもしれない、などと無責任に俺は思う。今日、秘書ロボットが俺に地球巡礼の旅のため一年間の休暇をもらいたいなどと申告してきやがった。おいおい、お前はおおいぬ座シリウス星系生粋のC(炭素)ベースの生体アンドロイドだっちゅうの。でもまあ、信仰というのは理屈じゃなく、そういうモンなのかもしれないよなあ。

-了-

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2004.07.25

『ハエトリソウ』(四枚)

 タコ足配線をいくつもまたいで、君は電算実習室の奥にある準備室に向かう。
 戦後と呼ばれていた時代に建てられた校舎は、ちょうど君がこの高校を卒業したあと新校舎に移転する予定になっている。だからエアコンがオンボロでも、タコ足配線が火を噴きそうに熱くなっていても、君たちの代はとにかく我慢して使い続けなければならないということなのだそうだ。
 電算準備室と書かれたドアの向こうが物理部の部室になっている。錆びて固くなったドアノブに今日も少し手こずって、君は部屋に入る。いつものように無為の放課後を過ごすために。部室の中は四畳半ほどのスペースの壁面を天井まで書棚が埋めていて、そこにたまった埃の匂いが鼻をむずむずさせる。残暑の時期であるため匂いはことのほか強く感じられ、慣れるまで時間がかかる。南側にひとつだけある、人の頭がぎりぎり通るくらいの小さな窓は、桟が歪んでいてきちんと閉まらず、施錠しても上側に隙間が残る。どこもかしこも老朽化しているこの部屋には、たった一人の物理部員である君が持ち込んだ私物のノートパソコンがある。これもやはりだいぶガタがきていて、液晶が赤みを帯びたりちらついたりし始めているのだった。部屋も備品も、ノートパソコンも、あと半年の大往生に向けて時の経つのを忍んで耐えているこの学校のありふれた一部分であって、それでいて象徴でもある。
 君の耳に蚊の羽音が聞こえてきた。君以外にこの部屋を訪れる者があるのは珍しいけれども、桟の隙間から時々はこんな風に闖入者がやってくることもある。プウンという細かな空気のふるえが右から後頭部を回って天井のほうへ消える。君はふん、と鼻息をひとつつくと、どっかりと腰を下ろす。元は教職員用だったグレーの椅子は露出したウレタンの黄色い口をぱくぱくしながらギッシュシュというか細い抗議の声を上げた。
 蚊にも椅子にも瞬きひとつより長く意識を払わずに、君はカバンを開けてごそごそと何かを探し始める。右手がつるりとした合成樹脂の感触をさぐりあて、円筒状のそれを掴み出す。ノートパソコンの黒く平べったい直方体の向こう側に無造作に置かれた鉢植えの緑が五~六個見えている。ペットボトルの口を開けるや、水をやっていく。
 水苔の中につつましく植えられた緑色の草は、ハエトリソウという名の食虫植物だ。団扇のような形の、ぎざぎざとしたトゲを生やした葉をつけている。折りたたまれたそれは人間の閉じられた目蓋そっくりで、長いまつげを上品に生やしているようにも見え、開いた葉のほうは人の掌を手首でそろえている仕草にも見える。
 君はペットボトルをしまうと、ハエトリソウたちを目の前に並べ悦に入る。窓の隙間からやってきたさきほどの蚊も、いずれはこの草に囚われ、ゆっくりと有機養分に還るだろう。そして根となり茎となり、あるいは葉となり一部は消化液となって、次の獲物を待つだろう。
 ちくり、と左手の中指に小さな痛みを感じて、君はそこに視線を落とす。膝の上に載せていた左手から、小さな虫がよろよろと飛び立つのを君は見た。そして今はごくささやかなかゆみを、君の皮膚が伝え始めているのだった。
 君は自分の細胞の何百か何千か何万かが、今この瞬間、かの虫の一部になったことを知る。虫になった細胞はやがて、目の前の草に囚われるだろう。それから草の生を生きるだろう。
 日暮れ時、君が去った部室で、植物は水を吸って青々としていた。時はその上にも横にも下の方にも、おぼろげにたゆたっていた。

-了-


(作家でごはん!鍛錬場 投稿作品)

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2004.04.04

『涙とイヌと私の心臓』(六枚)

 
 近所にいつも涙を流して泣いているイヌがいる。レトリバーのオスだと思うけれど、なかなか端正で賢そうな顔のくせに、いつも両の目から涙を流しているんだ。
「その檻が狭苦しいのかい?」
なんて、私は通学の途中に聞いてみたりもするけれど、イヌは通りすがりのセーラー服になんか事情を話してくれたりはしない。たださめざめと流すふた筋の涙が心持ちそのてらてらした輝きを増したように見えただけだった。
「私も檻の中にいるようなもんだよ」
 私はイヌにも聞こえないような小さな声で言って、そっと自分の胸をおさえた。
 そんな私をイヌは涙をこぼした瞳で見送ってくれた。
 理科室の掃除当番に割り当てられているので、時間の許す限りホルマリン漬けの心臓を眺めることにしている。今日もずっと標本の心臓と無言で会話していると、声がかけられた。
「気持ち悪くないの? いつも標本を見ているけど」
 こういうふうに気遣って聞いてくれるのは男子に決まっている。女子は聞かずに決めつけるものだ。
 振り返らなくても、もう名前も顔もとても強く記憶に残っているその人を特定できた。でも、私の目がその顔を見たがったので私は振り向いた。
 私はこの声の主がとても好きだった。好きな人にわかってもらえない苦しみは嫌いだ。でも試みる前にあきらめるのは、好き嫌いを通り越して最悪だとも思う。
 彼にあるのが季節外れの転入生に対しての思いやりだけだったとしても、うれしい。そのことを偽れない私の脳と、借り物の心臓。
「私の心臓なの」
 誰にも言わないでいようと誓ったはずの秘密を言ってしまうことの意味を私は理解する。
「えっ」
「ホルマリン漬けの心臓は、私の心臓なの」
 言葉では伝えられないのよ。
 私が言葉に乗せたこのメッセージ。この子は受け取ってくれただろうか。
 複雑な、今にも泣きそうな顔。ああ、この子も私に言葉では伝えられないメッセージをくれた。でも、やめなよ、男の子がそういう顔をすると、女の子は恋より母性に目覚めてしまうよ。
「今の、ほかの女子に言わないほうがいいよ」
 そういって箒を片手に去っていく彼の精一杯の思いやりを、私は愛した。
 言葉では伝えられないということを私は言葉で伝えたのだけれど、言葉が話せないイヌは、どうやって私に伝えたらいいだろう。
 帰り道、イヌにまた話しかけてみることにした。
「きっとお前も言葉では伝えられないことを伝えたいんだね」
 イヌは涙を流して応えた。
 私も心臓に聞いてみよう。
 イヌの前にしゃがみこんで、左手を下に、その上に右手を重ねて少しだけ力を込める。骨の下で脈打つ塊の声を聞くために。
 思い出す、手術の後の景色を。
 欠陥品でしかない私の心臓が硝子の向こうで少しずつ薬に溶けていく夢を見た。血の色を失った私の心臓は白い肉になってぼんやりと浮かんで、重力からも、私を生きさせる苦役からも自由になったように見えた。麻酔のせいで見た夢だと知っているけれど、私にはかけがえのない真実の体験なのだ。
 代わりの心臓は手術前に見せられたあの陶器のような機械。私を生きさせる苦役を受け入れてくれたのは、私自身の肉ではなくて、ピンクと白の無機物。それは何の意志も持たずに、教え込まれた規則で動いているだけ。
 ここにある私の心臓は、教え込まれた規則で動いているだけ。

――それは不幸なことなの?

 誰かの声が聞こえたように思った。
 私は胸を両手で押さえたまま、姿勢を起こし、立ち上がった。
 イヌは突然立ち上がった目の前の人間をびっくりした表情で見ている。
 涙はイヌの壊れた涙腺からただ流れている。
 私は心臓を解放して、両手を広げる。深呼吸してみる。
「しっかり番をするんだぞ、イヌ。涙のことはほうっといてやりなさい」
 勝手を言ってごめんね、と言って涙とイヌとに頭を下げてから、私は再び家路につく。
 今日からは彼の名前を日記に書こう。
 手術のこと、今動いている私の心臓のこと、聞いてもらおう。
 掃除をちゃんとできない理由を、女子のみんなにも聞いてもらおう。
 私が私の心臓に生かされていることを知られて、それで生きよう。

――それは不幸なことなの?

 涙は私の目からもこぼれる。こぼれ続けて、私は私の巣に帰る。


(『作家でごはん!』鍛錬場投稿作品)
 
 
 ずっと前に冒頭だけブログ内に置いておいたものを、書いてみたくなりました。

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2004.03.11

『神無月の蝉(八枚)』

 あいつのあのヘンな顔を見て、オレは恋をしてしまったってことなんだろうか。
 オレの淡い恋の顛末は、秋も深まった十一月のある日のこと。

 季節外れの台風で朝から大荒れになった日の四時限目、オレは期末テストと戦っていた。数学Ⅰの三角比。得意技が一夜漬けというオレにとっては、数学は苦手な科目だ。
 ゴオゴオという風と雨の音に教室の空気すべてが塗りつぶされる。
 騒がしさも限度を超えると静けさとも錯覚する。
 「閑かさや岩にしみいる蝉の声」なんていう有名な一句を思い出したりした。「閑かさ」への解釈が何通りかあるっていう国語の松本先生の話はおもしろかったな……。
 い、いかん、今は数学の時間だ。三角比の正弦定理と余弦定理を組み合わせるんだっけな、コサイン百八十度マイナス百三十五度だからマイナスの……ええと……。この「静けさ」は試験を受けるのに最適だってことはたしかだな、なんて思いながら問題を解く。
 なんて思っていたそのとき、カチカチという気ぜわしい音が耳に入ってきた。
 低音のゴオゴオの中にあって鼓膜を引っかかれるような、妙な違和感。
 ――カチカチ。カチカチ。
 かすかだが、気になり始めると邪魔であることこの上ない。
 そっと音のするほうを横目で見ると、隣の席の吉沢がシャープペンシルを何度もノックしているのだった。こいつはそこそこ美人で秀才だが、生意気なところがあるのが玉に瑕、という評価をオレはしていた。こういうタイプは「遠ざけざるも、近寄らず」と決めていた。何人かの男子はこっそり「委員長」とコードネームをつけて呼んでいるが、かなりイメージぴったりだ。コンタクトも持っているはずなのにいつもかけているメガネがイメージ作りに貢献していたかもしれない。
 手に持っているほかにも、机の上に予備とおぼしきシャープペンシルも転がっている。芯が詰まったか、それともほかのトラブルか。
 こんな優等生でもつまらないことで焦るんだなあと思いつつ、さりげなく吉沢の様子をうかがう。監督の先生が自分の科目の採点に没入しているのを確認しながら……。
 横から見るとまるで百面相だった。眉を大げさにしかめたと思ったら次の瞬間には泣きそうなほどにへの字にしてみたり。口がだんだんとがってきて、顔も紅潮してきたり。かと思うと一瞬ふっとあきらめたように力が抜けたり。
 優等生の吉沢のこんな顔って親でも見たことがないかもしれないナア、なんてふと思った。あれ、なんだろう、この感覚。オレは無意識に自分の胸に手を当てている自分に気づいた。
 いやいや、いやいや、こんなことをしている場合か、オレ。自分の問題に集中することにしようぜ、オレ。
 音の正体がわかっていれば、気になるということもない。オレは問題に集中してコサイン四十五度がルート二分の一、なんてやりはじめた。
 ――カチカチ。カチカチ。
 しばらくしてふと気づくと、まだ音がしていた。時計を見ると十分近く経っている。
 早く手を挙げて先生に鉛筆を借りればいいのに。高校入試の時に「消しゴムが落ちたりしても自分では拾わない」とか、「筆記用具を忘れたら友達に借りずに監督の先生に借りる」って入念に指導されなかったか? 
 でも、じつを言うと彼女の気持ちもちょっぴりわかるのだ。きっとあと少しでなんとかなると確信があるのに違いない。ここまで来てやめられるかという気持ちと、早く問題を解かなくてはという気持ちがせめぎあっているんだろうな。吉沢は数学だってよくできるから、十分やそれくらいのロスはなんとかなるという計算もあるだろう。
 ま、先生に筆記用具を借りるのは恥ずかしくもあるだろう。手を挙げても採点中の先生にはなかなか気づいてもらえないかもしれない。この嵐だ、ちょっとの声で「先生」なんて呼んでも聞こえなかったりするかもしれない。そうなっちゃったら、クラスの視線がたまらないよなあ。かといって大声を出すのも、先生のところまでずかずか歩いていくのも、こりゃあどっちも恥ずかしい。彼女もそんなことを考えて、焦る気持ちと天秤にかけているに違いない……なんてオレは思ったのだ。
 オレの手が自分の鉛筆を落とした。
 鉛筆はてん、てん、と軽く跳ねて転がる。
 なるべくさりげなくやったが、うまくいったと感じた。
 転がる鉛筆は、無音のまま嵐の中の静けさを横切って、吉沢の足に当たった。ちょっとしたモノクロ映画のワンシーンみたいだな。
 彼女は気づいたらしい。拾って、こっちを見る。
 オレは「拾ってくれてありがとう」のしるしに、片手で彼女のほうを拝んでみせた。彼女は返そうとしてくるが、オレは手を目の前でぶんぶん横に振った。よせばいいのに、下手なウィンクをして見せた。
 ようやく彼女もオレの意図するところを気づいたみたいで、ふっと表情が和らいだ……ように見えた。
 オレはしかつめらしい顔で、「どうぞ」という感じに掌を上にして彼女のほうに向ける。
 なんとなく、無音映画の世界、みたいな感じ?
 吉沢は鉛筆をゆっくりと丁寧な仕草で自分の机の上に置いた。それから両手を膝に乗せて、目礼とともに上半身を軽く折る。なんとなく和装の美人に似合う仕草だなあ、なんてオレは思った。
 このときのメガネの奥の吉沢の目、よかったな。
 オレは、なんとなく間が持たなくて、親指を立ててグッドラックのサインを送った。
 彼女も一瞬のまばたきのあとに同じグッドラックのサインを送ってよこした。
 オレと吉沢はこんな一瞬の相互理解のあと、数学Ⅰの問題に立ち向かう戦友になった。うん、こういう感じ、悪くないよな。オレたちは眼前の敵たる三角比の問題に意識を集中した。
 休み時間に吉沢がオレに鉛筆を返しに来た。
「ありがとう。すごく助かったよ」
 彼女の声は女子にしては低音だけれど、芯の強さを感じさせるところがある。
 こいつとこんなふうに会話するのって、四月以来初めてだよなあと思いつつ、
「いいよ、貸しておいてやるよ」
と言ったら、ちょっと意外な言葉が返ってきた。
「ううん。悪いけど、小篠くんに別のシャープペンシルを借りたから……」
と少し目をそらせて彼女は言う。
 ちょっとの間、オレは無言になったんじゃないだろうか。
 小篠、あの野球部の。
 そいつにシャープペンシルを借りたということは……?
 そうか、そういうことね、あはは。
 小篠のスポーツ少年そのものといった顔が思い浮かぶ。さっぱりした短髪、標準体型のオレよりも少し低めの背丈、成績はすごくいいってわけじゃないけど、野球部のきつい練習の毎日にしては悪くない方だ。事実数学のできは小篠のほうがオレよりも上だ。派手さはないけれど、努力家って感じが男のオレから見てもすがすがしい。うん、ああいうタイプに惹かれる気持ちもわからなくもないかな。
 オレも三学期の数学はもう少しがんばってみようかな、なんて思ったけれど、言うは易く行うは難し。あまり変わり映えもしないまま、二年生になりオレは文系コースに、吉沢は理系コースにと、クラスも別れた。それから、夏が過ぎてまた十一月がやってきても、特に親しく会話することはなかったな。

 オレの淡い思いはこんな風にして、淡いまま、どこかへ消えていった。
 別に、なんでもない、ほんのわずかの時間のことなんだけどさ。
 なんとなく、このことをずっと忘れないだろうなって気がする。

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2004.02.10

『二杯目のコーヒー』(四枚)

 母はいつもレギュラーコーヒーは二杯目のでいいと言う。
 使用済みの豆と紙フィルタでいい、一杯だけで捨てるのはもったいないと言う。
 私は薄いくらいが好きなんだからと。
 二十五歳で嫁入りもまだの私には、その感覚がわからない。新しい豆でいちばんおいしいコーヒーをいただくほうがいいに決まっていると思うんだけどな。そんなことを思いつつ、私は一度に一杯しか淹れられない古い安物の漏斗に紙フィルタをセットして、まず自分のカップに、それから母のカップにコーヒーを淹れる。二人のちょっとした安息の時間。そんな毎日。

 電話が鳴った。
 母はパート、私は派遣事務の仕事からそれぞれ早めに解放された晩、台所に立つ私がいつものように自分のために一杯目、そして母に二杯目のコーヒーを淹れようとしたときだった。
 父方の叔母からだった。
 父が、死んだという。
 母が父と離婚してはや六年経っていた。その間一度も連絡を取ったことはなかった。
 放蕩者の父が死んだと聞いて、私にはショックはない。叔母も実弟とはいえ、こんな結末をうすうす予想していたのだろうか、淡々とした口調で用件を伝えてくる。
「お父さんが、死んだって……」
 居間に向かって言うと、母はちゃぶ台の前で少し腰を上げてテレビのリモコンに手を伸ばしていたところだった。
「そう」
 言ったきり、こちらを振り向かないまま、母は腰を下ろし、両手を膝に載せて座った。
 叔母に大変ご苦労様ですと伝え、電話を切った。
 ふと気づくと、コーヒーはまだ一杯目を淹れたところだった。
 私は叔母と同じ口調で、
「コーヒー、まだ飲むよね」
 そう言って、いつもように使用済みの豆にお湯を注ごうとする。
 母の声が聞こえた。
「やっぱり、新しい豆で淹れてもらおうかしら」
 テレビのスイッチが入ったようで、雑音が母のいる狭い四畳半から漏れてきた。
 聞き慣れた芸能人の声なのに、何をしゃべっているのかまるで意味がわからなかった。

「はい、コーヒー。どっちも一杯目」
 テレビのちょっと上の空間を見つめていた母の目が、こちらに向いた。
 ひと口すするなり、言う。
「ああ、おいしい」
 ため息とともに、目尻のしわがきゅっと縮まった。
「でしょう」
 テレビはちょうどCMだった。
 夫婦と子ども二人が新しいリビングでおおはしゃぎしているいる、住宅のCMだ。
「結婚してあんたが生まれる前には、よくこんな贅沢をしていたっけねえ」
 母が結婚生活のことを振り返るのはとてもめずらしい。
 父と自分に、一杯目のコーヒーを淹れて飲んだんだろうか。
「ふうん、そうなんだ」
 私はなるべく味わってコーヒーを飲んだ。

 立ち上がりかけながら、母に尋ねてみた。
「これからお父さんのところに行くけど……」
「お母さん、行く?」
 母はほほえみ、それからゆっくりと頭を振った。


(『作家でごはん!』投稿作品)

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メモ『涙とイヌと私の心臓』

040210
涙とイヌと私の心臓(近所にいつも涙を流して泣いているイヌがいる。レトリバーのオスだと思うけれど、なかなか端正で賢そうな顔のくせに、いつも両の目から涙を流しているんだ。「その檻が狭苦しいのかい?」なんて、私は通学の途中に聞いてみたりもするけれど、イヌは通りすがりのセーラー服になんか事情を話してくれたりはしない。たださめざめと流すふた筋の涙が心持ちそのてらてらした輝きを増したように見えただけだった。「私も檻の中にいるようなもんだよ」私はイヌにも聞こえないような小さな声で言って、そっと自分の胸をおさえた。)

 ここまでメモを作成しました。
 ふと心に浮かんで書いてみたくなったので、書くことになるかどうかは、このあとの「私」と「イヌ」との関係がどうなるのか作者の心の中で見えてきたときだと思います。

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