『ヤゴの日々』(五枚)
一年後輩の野々口鉄雄が主任に昇進した日、オレは四軒目の飲み屋でぶっ倒れた。
急性腸炎。いきなり左の腹に差しこむような痛み、脂汗、椅子から転げ落ちてうずくまる自分、なにやってんだみっともない。駆け寄る店員。サイレン。点滴。
目覚めると、病院のベッドだった。薬臭い空気ははじめての体験で、こういう場所は見舞いに来るものと決めつけていた自分を発見する。まさか今日この日に病室の住人になるだなんて、まったく思っていなかった。こいつ、おめでたいヤツだ。冷笑。
退院してすぐに会社には辞表を出した。後輩に抜かされた日、ちょうど潮時だった。二十五歳の誕生日を一ヶ月過ぎ、世間では桜が盛大に散っていた。一部上場企業に三年勤めたオレの行き先はどっちだろう。
田舎の農家の三男坊だが、今時は若い男というだけで百姓仕事の手としてはありがたがられる。上の兄たちが福岡と広島で頑張っているというのに、末の弟は早々とリタイア。それを誰も責めやしない。子どもの頃は風邪を引いて学校を休んでもゲンコで殴りつけて「体を鍛えねえがらだ!」と恐ろしかった父が、ゆっくり養生しゃんせ、なんていう他人行儀を見せた。老いは悲しい、と思ったのは生まれて初めてだった。
一件以来、オレの腹の調子はどうにもよくならないのも事実だった。
いつもじゅるじゅると嫌な音を立てて、便所への往復が日に何十回も。医者の薬を無視しているせいかもしれない。でも何となく薬を飲むのはためらわれ、出るものを出るに任せている。
春野菜を出荷する作業をしている今の時期、いちいち家に帰るわけにもゆかない。そこいらへんの物陰で用を足したことも何度もある。用水路を兼ねた小川が天然の水洗である。
詰まるところ、いや、オレの体は少しも詰まったりしないんだが、そんなことはどうでもいい――要するに人間なんてただの一本の管の裏表なのだ。食って出すことに偉人も美女も匹夫も変わりなし。
そんな風に考えることが、何かのなぐさめになるわけでもない。百姓仕事をしていると臭いが気にならなくなるのが、多少は救いといえば救いだった。
オレは三十半ば過ぎの子だから、父母も六十を超えている。二人とも体は丈夫で、オレの体をいたわってくれている。愚痴の類は死んでも言いたくないから言わないが、彼らがオレのことを案じているのが皮膚感覚でわかる。母などは朝晩必ず「お腹は痛ぐないか」と聞いてくる。痛みは最初の救急車騒ぎのときだけだ。それも何度も言ったんだが。父も年寄りに似合わず通販でウコン茶とかアシタバ茶なんてのを買ってくる。今まで緑茶しか飲んだことのない還暦過ぎの年寄りが、どこかで聞きかじった知識で買い入れてくるのだ。
ゲンコを見舞ってくれたあの時にも、オレがバカで気づかなかっただけで、ほんとうは両親は心配し、あれこれと気遣ってくれていたんだろうか。もう何も思い出せない、たった十年少し前のことだというのに。
縁側に腰掛けて、池のニシキゴイを眺めながらウコン茶をすすった。ここは便所にほど近いのでオレの心も安らぐ。まさかオヤジのヤツ、名前の連想でこのお茶を買ったのじゃあるまいな。だってほら、ウコン茶……。下らない邪推をしていると池の鯉が水音でオレをたしなめた。ボットン。鯉の跳ねるのまで嫌な音。
実家でひと月ほど過ごした日、池で煙草ほどの大きさの虫を見つけた。根っこが絡んだ木の棒みたいなそいつはヤゴつまりトンボの幼虫だった。越冬して、あったかくなったから活動を始めたんだろう。
指でつまむと一人前にオオアゴを映画のエイリアンみたいにぎゅーっと伸ばして抵抗する。手のひらに乗せて池の水に入れてやったら、尻から噴射しながら去っていった。ヤゴは吸い込んだ水を直腸から勢いよく出して、その反動で泳ぐ。肛門からジェット、それがヤゴ流。
「屁のつっぱりという言葉があるけど……」オレはなんだかおかしくなって、大いに笑い転げた。ジーパン、ポロシャツにどてらを羽織った格好のまま庭の土に仰向けにひっくり返って笑った。ウシャシャと涙を流しながら笑ったら、まぶたの上から太陽が赤く視界を焼いた。まだ夏は遠いのに、太陽は網膜に厳しいのだった。
そんな無様な様態をまさか見られているとは思わなかった。
笑い疲れてゼイゼイ息をしているオレの肩を、誰かがチョイチョイとつついていた。
「佐々木さん、書留です」
郵便配達のお姉さんだった。今日びは、女性も配達をするらしい。いや、オレが知らなかっただけで昔からいるのかもしれないが。オレはもにょもにょと口の中でつぶやいて判子を押して受け取った。
「お大事に」
去り際に郵便配達“婦”が言った。頭の病気を心配されたのか、それとも嫌味を言われたのかと思ったが、どうもそうではないようだ。田舎のことで、オレがトンボ返りで実家に戻ってきたことも、地域に知れ渡っているのだろう。人の移動がたいしてない土地では、噂にみんな飢えているし、尾ひれもつきやすい。
そういえばさっきの女性は中学の同級生の緑川に似ていた。というより、本人に違いない。あんな美人になると知っていたら、もっと親しくしておけばよかった。
封を切ると、中には今月の給与明細。
病欠に加えて有給消化ということで、正式には退職していなかったのだ。しばらく俺が預かっておく、と言った上司の顔が思い浮かぶ。情けに厚い四十男。慌ただしかったし、出世競争は実力主義のシビアな世界だったけど、居心地は悪くなかったな。
重なるように、もう一通の封筒があった。そちらは手書きの文字で宛名が書かれてる。
中には見覚えのある上司の文字。
「そろそろ帰ってこい。例の紙はまだ預かってある」
三年間ビシビシとしごかれた上司の温情だった。
――何があっても三年は辞めるな、そうすればこの会社にいるべきかどうか、判断できるようになる。それまでは辞めようなんて思うな。
最初の頃、何度もそう言われたのだった。心のどこかで覚えていたその言葉で、三年経ったあの日にふっと全身から力が抜けてしまった。病気をいいことに、田舎に引っ込んで親に甘えていた。
上司のしごきがオヤジのゲンコと重なって思い出される。
オレはやっぱりバカで、何も見ていなかった。
生意気なガキはびしばし鍛えて、弱音を吐いたガキは黙って甘やかしてやる。大人って、こうだよなァ。オレ、ガキだよなァ。
まぶしさに耐えかねて、まぶたの奥から液体があふれてくる。ああ、眼球が熱い。ここで仰向けになってなんかいられやしないじゃないか。
「さあて、薬はどこにしまったんだっけな……」
オレは膝に反動をつけてくるっと起きあがる。きれいに回れ右して部屋に上がり、タンスの引き出しをひっくり返し始める。
時刻表も探さなけりゃ。
そうだ、会社に戻るときにはオヤジが買ってきたお茶をもらっていこう。味のほうはまったく話にならないが、神頼みよりはマシな効果があるだろう。
さて、オヤジとお袋にはなんと言って切り出そう――
背中にくっついた泥が、乾いたほこりっぽい匂いを畳の上にまき散らしていた。
ほんの一分目を閉じて、我が家の匂いを、オレは記憶する。
日差しはいくぶん傾いて、さっきまでオレが腰掛けていた板張りの縁を温めている。
-了-
(※チャット三語「さい ごつ とめ」 成人男性主人公です。珍しい~(笑))



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