トレンチ(塹壕)の中で老兵士と一緒になった。
「若造、助かりたいか?」
ヘルメットに落ちてくる泥を左手でぱっぱっと払いながら、爺さんは声をかけてきた。命の瀬戸際だというのに、暢気なのか図太いのかわからない。
「当たり前だ。こちとら身重の嫁さんを国に待たせてある」
無視しなかったのは老人への敬意というものを僕がわずかに残していたのと、そして、なによりも気を紛らわせなければ攻撃をしのぐ間を僕自身が耐えられなかったからだ。この日、枢軸側の猛攻は極みに達していた。前方ばかりでなく、左右からも、背後からも敵の着弾による爆裂音が響く。完全に射程に侵入を許している。
「元気な返事だ。そうか、それならいいものを見せてやる。私はほんものの魔法使いなんだ」
爺さんは襟元からロケットを取り出した。僕は真に受けたりはしなかった。誰でも方便で、自分は魔法使いだとかサンタクロースだとか言うものだ。が、方便に乗ってやってもいい気持ちになっていたのも事実だった。
爺さんはロケットを開いて中を見ろという。
銀色の扉はかすかな金属の音とともに開いた。中から淡い水と森の色があふれてきたように感じた。
絵画にたいして興味のない僕も、目を引きつけられた。やわらかなタッチで描かれた裸婦像だった。マネの描くような飾り気のない裸の女性が、木の蔭から上半身だけ出してこちらを伺っている。豊かなブルネットが裸身にイバラのように絡みついて、むしろその肢体ののびやかさを映えさせていた。印象だけを抜き出せば、マネのような印象派というよりは、ルネサンス期のジョットの描くような聖女が僕には連想された。
「何がほしいの?」
と、裸婦の声が聞こえた気がした。
たぶん、戦場での極度の緊張が、幻聴のようなものを生んだのかもしれない。僕はそれを不思議にさえ思わなかった。考えるより先に、ためらう間さえなく僕はその女性に言っていた。
――僕は、
そこから意識の空白が訪れたらしい。ぼくは、彼女に何かを願ったのかどうかさえ自覚がないまま、現実に戻された。
「おい、引き上げの合図が出たぞ」
気づくと、爺さんが脇腹を小突いていた。
「ところで、何を願ったんだ」
僕はようやく、自分が絵を見たこと、その中の裸婦に何か聞かれた気がしたのを思い出した。どうやら僕は問いに答えたらしいこともわかる。願い事だったのか? 何を願っただろう。それだけは、思い出せなかった。
「思い出せないよ。でも、そうだ。覚えてる」
「なにをだ?」
「最後に、その女性は俺にウィンクしてほほえんでくれた気がするんだ……」
爺さんは最初、じつにつまらなそうにまぶたの垂れたままの目で僕を見下ろしていた。『私の知りたいのはそこじゃあない……』と、唇を動かさずに言ったように思えたが、気のせいだったかもしれない。
突然、彼は口の両端をぎゅうっとつり上げた。それから大声で言った。笑いながら、
「ばはははは、そうか、そうか。それじゃお前さんは生きて帰れるのだろう。じつはお前さんは本来なら生きて還る望みはほとんどなかったんだ。一人で子を産んだかみさんも長患いをしてな。私はひょんな偶然から、お前さんの娘に頼まれたよ。それも、十五の若さでありながら昼も夜も熱で床から起きあがれない病身で、瞳のスミレ色ばかりが輝いていてな。それで興味を持った。運命が変えられるのなら、私の運命もまた、変えられるかもしれないと。お前さんは私の実験につきあってくれたな。なに、お前さんにとってはもっぱら転がり込んだ僥倖というものさ。お前さんは願いをうまくやりおおせた。子どもは身寄りのない寂しさを与えることも、お前さんには起こらない未来になっただろう。よかったな!」
爺さんのつばが顔中に飛んでくるのも僕は上の空だった。ウィンクした裸婦の黄色みがかったハシバミ色の瞳を思い出していた。
「ああ、それにしてもなんと願ったのか知りたかった。若かった私が彼女をロケットの中から失い、二度と見つけられなくなったあのとき、どう願えばよかったのか。それだけが知りたかったというのに。願いが叶っても彼女は戻らない。ああ」
周りの兵士が次々にトレンチを脱出していく。僕もようやく正気に返って、泥の底から這い出した。ふと見やると、爺さんの姿はもうなかった。
『忌まわしい、あのときの戦場くんだりまで来て、私はいったい何をしているやら……』と、声が聞こえた気がした。
まもなく戦争が終わり、捕虜の交換も済むと、僕は家に帰ることを許された。爺さんの姿はやはりどこにも見つからなかった。ただ、僕と同じくらいの若い捕虜がたったひとつの私物として大事に手のひらに包んでいたロケットと、うつむき加減の瞳のハシバミ色とが、ほんの少しだけ気になった。
帰郷して一ヶ月後には、僕は無事に父親になった。
娘は母親に似てヒマワリのようなブロンドの髪をしていた。ただ瞳の色だけが、両親のスミレ色を受け継がなかった。その色は、黄色がかったハシバミ色をしていた。
その色の瞳でぼくに笑いかける彼女を見るたび、僕は思い出す。
あの人はたしかに願いをかなえてくれたのだと。
瞳の色は、運命のちょっとしたすげかえを知らせる徴(しるし)なのだと。瞳のスミレ色と引き替えに、ひとつだけの願い事を叶えた彼女のささやかなサインなんだとわかるのだ。
ぼくはあのとき、自分の命を願わなかった。
もう、いつでもはっきりと思い出せる。
――生まれてくる子どもの無事を祈る……。
たしかにそう願ったのを。
もうじき娘が十四歳になる。もうじき彼は来るだろう。昔、捕虜だった男がきっと娘に会いに来るに違いない。
そうしたら教えてやろう。
自分自身ではない、自分がほんとうに大切に思う人のことを願うといいと。過去をやり直せるとしたら、ただ一人の他人のことをだけ心に浮かべるといい。そう、言ってやろう。
-了-
(※『作家でごはん!』鍛錬場・三語即興文投稿作品:【トレンチ】【身寄り】【絵画】)
(※少し手を入れてみました。人物関係が整理されているといいのですけれど(^^; どうでしょうか……?)
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