短い作品2007~

2009.04.03

『ナミテントウの放課後』(五枚)

 美術部は半分、いや、ほとんど全部「帰宅部」だ。
 だから活動はきわめていい加減……もとい、きわめて自由度が高い。そんなところが気に入っている。久しぶりに午後の授業が一コマで終わって早く帰れる日、屋上に出ると坂村くんが先に来ていた。主な活動が「まっすぐ家に帰ること(寄り道可)」である美術部員同士がこうして校内で出会うなんて偶然、めったにないことだ。
「あれ、宮備(みやび)もまだ残ってたの?」
 坂村くんは屋上のいちばん縁(へり)にしゃがみこんでほっぺたを挟んでいた。
「坂村くんこそ」
 私はずけずけ近づいていく。春風がいたずらを起こしてスカートをさらいそうになった。
「ぎゃあ」
「見ねえよ、宮備のなんか」
「うっさい! 違うよ。糸が切れてほどけかけてんの。もし万が一全部ほどけて屋上から校内に向かって一反木綿を垂らすことになったらどうすんのよ」
「そりゃ剛毅だなー。宮備木綿、一度見てみたい」
「他人事だと思ってな。そのときには坂村くんのズボンも一緒に吹流してやるから」
「冗談きついよ、なははは」
「冗談だと思ってるの?」
「……」
 風が止んでいる数秒間、沈黙が続いた。冗談か冗談じゃないか、真剣に考えているんだろうか。いっとくけど、坂村くんのズボンなら私は脱がすに異論はない。私の餌食となるか、坂村くん?
「ま、全部ほどけたりすることは起こり得ない事象だと思うけど。そんなんホッチキスで止めておきな」
 坂村君が飄々とした口調で沈黙を破った。
「坂村くん、今ホッチキス持ってるの?」
「持ってるよ」
 と言って投げてきたのは職員室の備品だった。はっ。坂村くんのヤツ、美術部員である以前に生徒会役員だったのじゃなかったか。やる気なさそうな垂れ目のこの人がなぜか去年、書記に見事当選していた。書記がホッチキス持ったままこんなところにいるなんて。さては、先生の誰かに頼まれごとしていたのをバックレたか。
「止めちゃうからあっち向いててよ。よし、パチパチっと」
「返礼は、十六時に始まる職員会議のお茶出しの手伝いな」
「うげっ。余計な借りを作ってしまった」
 私はふと気づいた。坂村くんの視線がさっきからべつのところへ向いているのを。何かを見つめているのだ。
「何を見ているの?」
 さりげなく隣のポジションを確保。
「ん。テントウムシ。今、クリフハング中」
 指の先をたどると、たしかにそこにいた。黒い体に赤い斑点が二つ。テントウムシ。
「真横になって崖に張り付いているね。あんまり動かないけど、何をしているんだろう」
「俺にもわからない。日向ぼっこかな」
 と、そんなことを言った先。
 テントウムシが動いた。
 くるりとその場で方向転換、頭を上に向けたかと思うと触覚をひくひくと動かしたように見えた。次の瞬間。
「飛んだ……」
 背中がぱくっと二つに割れて、広がった。花びらが開くように。その隙間から透明な長い羽が現れて、あっというまに風を捉えた。と思うと、テントウムシは空に混じってしまっていた。
 なんだか不思議なものを見てしまった気がしたけど、考えてみるとごくありふれた光景。
 でも、坂村くんと私の二人だけが見た光景であることはたしかだ。私は今はそれで満足しておく。それで十分嬉しい。
「ほい、宮備」
 私の手に何かが握らされた。4Bの鉛筆だ。
「記憶が薄れないうちに、早く」
 と、二、三十枚の紙の束も手渡された。何の記憶を? なんて訊き返すほど私はバカじゃないつもりだ。描いてやる。今のテントウムシ。隣を見ると、もう坂村くんは手を動かし始めている。
 十分後、私たちは紙の束を交換しあう。ホッチキスでパチン、パチンと端を留めて。
 抑えた指をゆっくりずらすと、春の風が紙を一枚一枚めくってくれる。
 ぱらり。
 ぱらぱらぱら。
 ぱらぱらぱらぱら、ぱらららら。
 あはは、おんなじだ。私の見たテントウムシと同じ、可愛い色黒のナミテントウが、坂村くんの紙の上にも現れて、羽を開き、飛んだ。
「おんなじだね」
 と言うと、彼も
「おんなじだろ?」
 と言った。
「こんな偶然も、たまにはいいな」
「俺も、おんなじ」
 そっか。このまま十六時になっても職員室なんか放っておいて屋上にいるのもいいな。
 なんて、そんなことを考えるのもおんなじかな、坂村くん?


 -了-
 
 
(※「作家でごはん!」三語即興文投稿作品:、「お茶」「ホッチキス」「崖」)
 

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2009.01.26

『メアリとタクトの国の叙事詩』(五枚)

 二つの国があった。
 メアリとタクトの国では、「彼ら」のことは黒人と呼んで厳密に区別がなされていた。
 タクトは子どもの頃、隣の部屋に住むメアリによく尋ねたものだった。
「黒人が攻めてくるってほんとうかな?」
 二人ともまだ知らないことだったが、メアリは高貴な身分の女の子だった。子ども同士であるから、遠慮なく会話することができた。
「攻めてくるかどうかなんて知らない。国境あたりでしょっちゅういざこざがあるというわね。たまに、軍隊が出動する騒ぎにもなっているみたい」
「怖いね」
「うん。でもきっと黒人から見たらきっと私たちも恐ろしい存在なのよ。なんで二つの国がこんなに争いばかりするようになってしまったのかしら。昔は争いなんてなかったんだって大人が言っていたけど」
 メアリの声が少し震えていた。
「なんとかならないのかな」
「じゃあタクトは大人になったら、黒人と私たちのことをもっと研究しなさいよ。そして、私たちの子どもにもう怖がらなくていいって教えてあげて」
「うん。メアリがそう言うなら」
 タクトは大人になると科学省に入省した。約束を守るためだった。
 メアリは、王位を継承した。きっかけは国土の外縁部に出向いた先代が小競り合いに巻き込まれて亡くなったことだった。
 女王になったメアリは歴史的演説を行った。
「わずかに残った化学物質を使って、黒人を撃退します」
 二つの国があるのは、もとは一つの建造物だった物体の中だった。昔、ずっと大きな体を持ったヒトと呼ばれる生き物が木を材料にして作ったものだと言われている。建てられて二千年近く経つというのが通説だった。
 木の中はメアリたち白いアリと、黒人と呼ばれる黒いアリとのどちらにも生活の場所であった。白いアリは木部を食べる。黒いアリは菌糸を殖やして食料とする。トンネルを掘って領土を確保していた両者は、想像よりずっと早く前面衝突することになった。
 フィーバー(熱)とかトーチ(たいまつ)と呼ばれる棒は、先端にリンがついていて、ごく少ない摩擦熱で一気に燃え上がる。火を使うことは禁忌で、この武器の使用をメアリに進言することはタクトにもためらわれた。尻込みするタクトに、仲間の科学者たちは絶対不可欠と声をそろえ促した。そしてそれは実行に移された。
 効果は絶大だった。黒人の陣地に殴りこんだ兵アリたちはたくさんの敵を殺し、菌糸の畑を熱で破壊した。だが、そのことがかえって敵の盲目的な突撃を生んだ。その結果、メアリたちの国ほぼすべてが果てしない戦闘状態に陥った。
 大混乱の中、タクトはひとつの荷を抱えて外へ向かっていた。
 途中までメアリの出すフェロモンの信号を感知できていたのだが、それがぱたりと途絶えていた。だがタクトは希望を失っていなかった。
 国土の外は赤黒く染まった曇り空だった。昔、人類が滅びるより前は空は青かったという。タクトは大あごにくわえていた繭を赤い空のよく見える床に置いた。そして、背後に迫っている十匹を超す黒い敵に向き直った。
 タクトが最後の敵兵を打ち倒して自分も地に伏す頃、繭から羽化した子の羽がやっと固まった。延焼による炎も間近に迫っていた。
「さあ、行きなさい。羽のあるお前ならきっと新しい国を見つけることができる」
 そう告げたタクトの目に映った光景は、絶望を絵にしたものだった。空にはたくさんの黒い影が飛んでいた。敵の羽アリの大群だった。
 メアリの子はためらわなかった。透明な翼を開くと浮くように軽々と飛び立つ。鈍く弱々しい恒星からの輻射が、飛行する彼女の羽と体とをきらめかせた。メアリの子はただまっすぐに黒い群れに突き進んでいく。振り返ることはついになかった。
 恐れも絶望も知らないかのような彼女の後ろ姿が、炎に包まれゆくタクトの見た最後の光景だった。


 -了-


(※「作家でごはん!」三語即興文投稿作品:【フィーバー】【歴史的演説】【黒人】課題:実在の人物は使わないでください)

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2009.01.20

『コミックマーケット・クライ』(十三枚)

 高校受験が人生のクライマックスだった。
 自分の力で勝ち取ったのは、それくらいで、十五歳の時の栄冠にすがりついて俺はプライドを保ち続けてきた。でも、長持ちしていたプライドも、あることがきっかけで折れた。
 折れた心で三十一歳と二ヶ月の俺は会社を辞め、実家を飛び出してその日暮らしを始めた。
 何もかもを投げ出した理由は、俺が操り人形だったからだ。そのくせ、舞台裏ではコネによるお膳立てが進んでいたことすら知らなかった。会社では俺は仕事ができるほうだと思い込んでいた。自分の力で契約を取ってきたと思い込んでいた。ある酒の席で、上司がうっかり漏らした。俺の顧客リストの一枚目に並んだ超がつくお得意さんの全員が、実は親父の名刺入れの中に名前を連ねているということを。何のことはない。俺の顧客じゃなかった。親父の力のおこぼれで、俺は仕事をちょうだいしていたというわけだった。
 俺には絶望しかなかった。翌朝、預金通帳を持って家を飛び出た。退職願はどうしても会社に出しにゆけず、わびの手紙とともに郵送した。そんな無礼が許されることではないと知っていたのだが。ダメ人間の烙印を自ら押したのだと俺は思った。
 その日その日をなんとなく暮らすうちに、ネットでコミックマーケットに誘われた。俺もその昔は人並み以上の漫画少年だったから、興味が湧いた。
 人生の転換をもたらすとも知らずに、俺はのこのこと東京ビッグサイトに足を運んだ。
 そのときのチャットのログを再現すると、こんな風になる。俺のハンドルがノブ(本名が伸義だからだ)で、チャーハンさんと黒戦車さんはチャットで知り合った仲だ。ゲームと漫画のファンであることが共通していて、似通った漫画を読むので気が気が合う。
 話題は、漫画家で食っていくにはどうしたらいいか、ということだった。このチャットは漫画好きだけではなく、漫画家志望が多く参加するものだった。

 チャーハン:雑誌連載の新人をコミケで発掘してくるのなんて、今はフツーだしね。
 ノベ:なんかそれ裏口入学みたいッスね。
 チャーハン:なんで?
 ノベ:だって普通は新人賞に応募してデビューでしょ。それか、持ち込みでしょ。
 チャーハン:ノベっち、『まんが道』の世代だったっけ?
 ノベ:そうですけど。
 黒戦車@新人:コミケいいですよー。一度あの地獄を体感してみるとクセになりますよー。
 チャーハン:というわけで、じつは今日はノベっちにコミケの誘いを……。

 裏口入学なんていう言葉が出てくることに俺は自嘲した。まだ高校受験の時の気持ちが忘れられないらしい……。
 そのコミケにドハマりした。
 最初は熱気に当てられた。外人のゲームキャラのコスプレに衝撃を受けた。ゼルダ姫が、リンクが、神々しかった。日本人の女の子が金髪ツンツンでFF7のクラウド・ストライフのコスをやると妙に決まるなんて意外だった。それから、チャーハンさんと黒戦車さん(黒戦車さんはやっぱり女性だった。ちなみに二人とも俺と同年代らしいのも予想通りだった)が入念に下調べしてきたらしいサークルを回った。そこで俺はさらに衝撃を受けた。
 目の前の人が描いた漫画が、印刷されて本になって売っている。それを本人から手渡しで買える。
「大手だと雇われ売り子さんも多いっすけどねー」
 と言いながらチャーハンさんはマイナーブースを狙い撃ちするのが趣味のようだった。
 俺も描きたくなった。自分でも漫画を描くらしい黒戦車さんにいろいろと質問して、知識を得た。一年後のコミックマーケットで、俺は百ページの同人漫画誌を売ることになった。絵も稚拙だしはっきり言ってペン入れすらしていない鉛筆の漫画だが、「鉛筆漫画もけっこう描いている人いますよー」という黒戦車さんの言葉で発奮した。「でも、プロになりたい人には決してお薦めしないですー」とのことだったが、創作意欲を書きたてられた俺にはプロだとかアマだとかいうことはどうでもよかった。俺はゼルダ姫みたいな少女を救うファンタジー物語を書き始めた。(ちなみに黒戦車さんはそののちチャーハンさんと結婚した。どうもチャーハンさんが俺を誘ったのも、本命の黒戦車さんと会うのが目的で、二人で会うより三人のほうが警戒されないだろうという作戦だったらしい。人生、何が転機になるかわからない。黒戦車さんがじつはプロ漫画家志望の人だったと知ったのも結婚の話を聞いたときだ。有名な出版社、白泉社をもじったハンドルだったんだそうだ。言われてみれば、なるほどねと思う)
 本は売れなかった。オフセット印刷で五十部刷ったうちたった一冊だけがどこかの物好きに買ってもらえたきり。それも、俺がブースを留守にしている間にはけてしまっていた。黒戦車さんに売り子をしてもらっていなかったらその一冊だって売れなかったに違いない。それでも俺は自分の漫画が印刷され、製本されて手元に届いたことに満足しきっていた。そしてたった一冊だけでも売れたことが、励みになった。
 次のコミケでは薄手の新刊を出し、こちらは二十部ほど売れた。王道のハイ・ファンタジーは外さない。ずっとこれで描いていくつもりだ。
 二冊目を出す頃には俺の熱気もほどよく冷めてきて、貯金が尽きる前に就職活動を始められた。最高の条件とは言えないが、地味な食品会社に勤めることになった。親とはぽつぽつと連絡を取り、就職の保証人にもなってもらった。親父もお袋も怒っていなかった。俺があれほど非常識なふるまいをして、半年以上も何の連絡もしなかったというのに。
 家を飛び出してから四年近くになる。今年三十五歳になる俺は、アパートを引き上げて実家に戻ることにした。同人誌とはいえ漫画を描くという目標があることで、俺は高校受験という昔のプライドを引きずらなくてすむようになった。そのせいか、親とも一定の距離を置いて接することができたし、あの時のことを心からすまないと思うようにもなっていた。どうやら親もだいぶ心配したらしく、俺の住所やら行動はある程度調べて知っていたらしい。友達には俺も新しい住所を教えていたし、そこからやがては知られるだろうと思っていたから意外じゃなかった。漫画のことは言おうかどうか迷ったが、やはり知られているようだった。そこで、こんな事実に遭遇することになった。
 その日、深夜に妙に目がさえて、親父のブランデーを失敬しようとした。書斎に忍び込んでコレクションを黙っていただく。思えば子どもの頃からこういう盗み食いだの盗み飲みだのはしたことがなかった。そういうところが俺のダメなところだったかな。そんなことを思いながら、軽い気持ちで親父の書斎の卓上ランプをつけ、薄明かりの中、書棚に近づいた。
 実家に戻って俺は少し以前と変わった。昔は親に対して身構える気持ちが知らず知らずにあったらしい。どこか、顔色をうかがうような、逆らえない対象として上目遣いに見るような、そんな態度があったのだとわかる。そんな俺だから、親父たちは過保護になってしまったのかもしれない。いや、そうでもないか。あっちが過保護だから俺が甘えたってことなんだろう。どちらでもいい。俺はともかく親父たちに対して遠慮がなくなってきた。まるで友達みたいに後ろから肩を叩いて「よっ、仕事から帰ったの? おつかれ」なんて言うようになっている。
 “それ”を見つけたのは偶然だった。なんでか知らないが、ブランデーを失敬するいたずらついでに親父の蔵書を見てやろうと思ったのだ。
 そこにあったのは、俺のいつかのオフセット本。
 四十九部の売れ残りはまだ段ボール箱に収まっている。だから、これはあの一冊に違いなかった。たった一冊だけ売れた俺の最初の本。間違いなかった。
 俺が固まっていると、部屋の明かりがついた。ガウン姿の親父が立っていた。
「おう、いたずら小僧。暗がりで本を読むと目が悪くなるぞ」
 親父も少し変わったかもしれない。以前ならこんな台詞は出てこなかった。早く寝ろ、とか、何をしている、とか言ったんじゃないだろうか。親父のことはデスノートに出てくる夜神総一郎似で、性格もだいぶ近いと思っていた。厳格な親父だと思っていたのだ。が、性格も容姿のほうも、子どもの贔屓目だったか。漫画の中のやり手刑事局局長と比べると、だいぶ年もいっていて、肉もたるんでいる。ヒゲと眼鏡が一緒くらいなもんだ。
「たまたま、通りがかってな。コミケというのはカタログを買わないと入れないと知らなかった。あれだな、お祭りだな、あれは。現代のお祭り文化だ」
 そんなことを言いながら、俺から本を取り上げた。
「漫画は慣れていない、開いても読み方がわからない。すまないが、読んでいないんだ」
 いいよ、読まなくて。そうつぶやくくらいで俺はほかに反応らしい反応ができなかった。
 親父は何を思ったか、カーペットの上をスリッパでぺたぺた歩いて俺の横を通り、自分の机に行った。ごそごそしていたかと思うと、万年筆を取り出して渡してくる。
「作家にサインをもらうのが夢だったんだ。伸義、これにサインをくれないか」
 作家なんてものじゃない。ただのアマの同人作家だ。描いているのはどこかで見たようなゲームの世界の妄想だ。親父が思っているようなもんじゃないんだ、俺なんかは。まだまだ、ぜんぜん。
 俺は無言で本と万年筆をひったくった。親父に書いておくからしばらく机を貸してくれと告げた。目を合わせられなかった。親父はわざとらしいあくびをひとつして「おやすみ」と言って書斎を出て行った。
 本はきれいなままだった。百ページの厚みがあるが、折れも擦れもない。手垢もない。親父の言うとおり、たぶん読んでないだろう。へたくそな最初の漫画なんかを読まれたと思ったら俺がどんなに恥ずかしい気持ちになるか知っていたのかもしれない。
「馬鹿野郎……」
 たった一冊しか売れなかったなんて、きっと親父もおふくろも知らないだろう。世の中の誰一人、あなたたちを除いては俺の漫画なんか必要としなかったという事実を、知らないんだろう。俺をただ喜ばせたくてこの一冊を買って、数多く売れるうちの一冊にすぎないと思ってここにさりげなく置いておいたんだろう。たくさん売れたうちの一冊が親父の書斎にあってもたいしたことはない。そう思って。
 だから、あなたたちの支えがあって初めて独り立ちできたことを俺が気づいてしまったなんてことも、まだきっとあなたたちは知らない。
 
 
-了-
 
 
(※あんまり出来に満足できない上に、また三千文字を超えましたので、投稿せず~(^^; じつはこれは三度目の書き直しです。最初のだと倍以上の分量でした。読みたいとの声をくださった方がいらしたので、こっそりとここに置いておきます。なんか三十代っぽくない主人公……いろいろダメだと思うけれど、眠いのでここまで(^^;)
(※三語即興文のお題で書きました。「クライマックス」「舞台裏」「オフセット」:主人公は35歳)

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2009.01.04

『夜の雨の、椿と椿と(十八枚)』

 
 ――お花見の場所取りをしてきなさい。わが社の伝統で、花見は新年会を兼ねます。
 ――一晩、寝ずの番をするんですよ。女子でも例外はありません。内定者の仕事です。
 というのが、人事部長が私に命じた最初の業務だった。
 『偉そうな態度。気に入らねェ』
 と私は内心毒づいた。けど、世の中は百年に一度という不景気で、内定者の立場はすこぶる弱い。私は我慢して「はいッ」という返事をして背筋を伸ばして見せた。これくらいなんでもないよ。たかが、花見の場所取りだろ? 
 父にも母にも短気を起こすなとくどく言われている。
 ――椿、あんたは真面目なのはいいけれど、気が短いのがよくないよ。
 うん、わかってる。わかってるから、どんと任せていらっしゃい。たかだか二十人の会社の部長に威張られたって、こちとら“椿に風”ですよ。親には言いたくない話だけど、セクハラだって、大学の某教授で鍛えられて、避ける術をマスターしていますよ。
 場所は“花の散歩道”だ。おととしうちの市と合併した山間の村が、村おこしで作ったらしい。椿と蝋梅(ロウバイ)と桜の名所、ということになっている。私も家族で一度行ったことがある。たしかに春まだほかの樹木が固い花芽の頃に咲く椿と蝋梅は見ごたえがある。

 夕方、まだ日が沈まないうちに現地に向かうことにした。昼間はどうだかわからないけど、山の端が夕日で近くなる時刻には、人影は少しもなかった。
 デイパック姿の私がブルーシート四枚を抱えて夕闇迫る“花の散歩道”をえっちらおっちら歩いているところを誰にも見られなくてよかった。安心した。
 と思っていると、後ろから足音が聞こえた。走ってくる。足音はたったか迫ってきて、私の横をひょいっとすりぬけて追い越していった。
 スーツ姿の、私と同じくらいの年齢の男だった。デイパックを背負っている。
 しかも、小脇に抱えているのはブルーシート。まさか、ライバル? けれど追い越し返すことはたぶんできない。私のほうが重装備だ。そしてゴールはもう近い。私は昼寝から目覚めたウサギなのか!?
 悪い予感は的中した。
 私が狙っていた高台の、椿と蝋梅が一望できる、一番前の場所は、すでにヤツに占拠されてしまっていたのだ。
 思わず叫んだ。
「ずっるーい! 私が先に来ていたのに!」
 男はシートに座って携帯電話をピコピコやっていたが、顔を上げてこっちを見た。
「先に? 俺の方が先だったよ?」
「私のほうが先に着いていたの。トイレの順番待ちと一緒よ。追い越し禁止なんだから」
「トイレと一緒、か。思想の違いってやつだね」
 薄く微笑まれた。むかっときた。そして、私はトイレと一緒とは言っていない。略すと変な意味に聞こえるだろ。だが、そこはこいつの作戦なのだと私は見抜いていた。論点をずらせば、論争に勝っても負けても場所取りは既成事実になっていってしまうのだ。
「どいてよ」
「どいたら場所取りにならないだろ」
 手ごわい相手かもしんない。私は絡め手から勝負することにした。世の中、強い者が勝つとは限らない。弱い者にも“弱み”という武器がある。
「内定取り消されたら責任取ってくれるわけ?」
 と言ったら、初めて男の顔が変化した。意外、というか、やっぱり、というか、そんな顔だった。
「俺だって。茶色い地毛を黒く染めて取った内定を失いたくねえよ」
 まぶたの上のひと房の前髪を指先でちりちりねじりながら、ぼやくように言った。
 なんだ、こいつも同じか。私はため息をひとつつくと、そいつのブルーシートの周りに三枚のシートを敷設開始した。とりあえず、私の使える有効な手は使ってしまった。しばらく様子を見て作戦を考える。シート一枚を残したのは、まだあきらめたわけじゃない、という意思表示だ。
「会社、どこよ」
 さぐりを入れる私に、あっさり答えが返ってきた。
「ん? テレビで有名な、ゾウが乗っても大丈夫! の物置の、営業の下請け。小さい会社だよ」
「うげ、同業者じゃん。うちはそのライバル会社の、あなたの家のゆとりの空間♪ の物置の営業やってるよ」
 男の表情は変化しなかったけど、会話は続けるつもりがあるみたいだった。こう、付け加えた。
「うちの会社つっても、まだ内定もらっただけだけどな」
「私も、取り消されるかも、だけどね。……花見の場所取りミッション失敗して」
「おおう。痛いところに返ってきたな」
「じゃ、返して。うちの会社の場所」
「そうはいかの十本足」
「十本足? キン○マじゃないのか」
「こらこら、女の子がそれを言わない」
「言ったら嫌なわけ?」
「嫌だねえ」
「じゃあもっと言ったらいなくなるかな? キン○マ、キン○マ、キン……」
「いなくならないけど、言うのはやめろぉー!」
「あっははははは」
 私はこのお馬鹿な会話の流れで勢いをそがれてしまった。まあ、半分以上自分のせいだけどね。作戦は持久力との勝負になりそうだ。それにしても婦女子として使ってはならない言葉まで使ってしまった気がしなくもない。いいのか。こんなんで嫁に行けるのか。またひとつ、両親には内緒にしておく出来事リストが増えた気がする。
 それから会話はぷっつりと切れて、お互いに携帯電話をいじったり、デイパックに詰め込んできた毛布を出したり、ダウンパーカのフードをかぶったりと準備した。途中、
「俺ちょっと、トイレタイム。場所盗むつもりある?」
と男が聞いてきた。
「ないよ。そんなのいたちごっこになるだけだしね」
「サンキュ」
 だいぶ我慢していたのか、男は走ってトイレに向かった。
 それからすぐに日が暮れて、あたりは闇に包まれた。街路灯が二十メートルおきくらいに設置されているほか、光源はない。山間の谷筋に沿っているから、集落の明かりはかなり遠くに小さく見えるだけだ。私と男は何度かトイレに立ったり暇つぶしのMP3プレイヤーを聞いていたりと、退屈な時間を共有した。お互いに余計な詮索はしない。
 私たちは九割の無言と、一割のコミュニケーションで時間を過ごした。寒さが上着の縫い目から染み込んできて肌を突き刺す。
 村の生活道路からも遠いから、車の通る音さえしない。ときおり風が木々を震わせるざわっという音やごうっという音がかえって静寂を強調する。
「こんなときに、なんだけどさ」
 と、男が言った。
「俺、もしもここに今日一人だけだったら、相当参っていたかもしんない」
 こいつ……私が思っていたことを先に言ったな。と私は思う。まさか、私の心も読みすかした上で言ったわけではないと思うけれど。
 私は返事の代わりに、
「携帯で見た。今夜雨の確率が五十パーセントだってさ」
 と教えてやった。同調したら駄目なのだ。場所取りが既成事実になったことを認めたのと同じだから。と思う自分のほかに、もうさすがに取り返すのは無理かなと達観している自分もいたのだけれど。だとしても、お天気情報は別に悪いものじゃない。
「なにぃ。昼間の時点じゃ二十パーセントだったぜ」
 男も驚いたようだ。
「雨が降ったらどうする?」
「傘は持ってきた」
「私は忘れたよ。こんちくしょうめ」
 悪態の部分は、口の中で。
「傘、貸してやるよ」
「敵に塩を送るってわけ?」
「正式には敵というのは会社に入ったら、だろ? 今はまだ、ただの知り合い。そうじゃない?」
「ま、まあ、そうだけど」
 私は抱えた膝をいっそう丸めた。お互いに名前も知らないのに知り合いっていうのも変だ、なんて思っていたけど、でも嫌な気分じゃなかった。胴回りとお尻に貼り付けたインスタントカイロがやけに熱かった。
 またしばらく沈黙が訪れた。
 息が真っ白になって高台から流れていく。私とあいつの吐息は、照明で浮き上がった花の道を覆い隠す春霞になって、それから夜に溶けた。いつの間にかブルーシートの端っこ同士に座って、肩がくっつくくらいに近づいている。二人分の吐息はすぐに混じっては消えていく。
 空を見上げながら、
「まだ星だっていっぱい出ているのにね」
 と言うと、
「うん」
 という声が返ってきた。それからふいに、
「椿、きれいだ」
 と名前を呼ばれて、私は心臓が一瞬三倍の体積に膨れ上がった。
「なに、な、なに?」
 さすがに狼狽が声に出てしまった。急になんなの、この人は。
 と、思ったのは私の勘違いもいいところだった。
「ほら、ライトの下の赤いの。夜に見ると黒に映えて、さ。こんな椿もすげえいいなと思って。あははー。ちょっとポエム」
 あいつがそう言ったときだった。
 夜の雨の、最初の一滴が手の甲に落ちてきた。大粒の雨だった。
 つぎつぎに雨粒は仲間を呼んで、寒さを引き裂いて振ってきた。ぱ、ぱ、ぱぱ、ぱぱぱというパーカッションが、すぐにさーっという小川のストリームの音に変わっていく。
 男は慌てて、こりゃ傘じゃ間に合わない。車に戻るよ。と言って立ち上がった。
 自分の荷物をささっとまとめて、彼はまだ何もしていない私の背中を軽く叩いた。ねえ、あんた、どうしたんだ。座っていちゃ風邪引くぜ。俺が先に場所をどくんだから安心して場所を離れていいんだぜ。なんて言っている。
 わかってる。わかっているけど、私は動けなかったんだ。
 明日の花見もこれでたぶん中止になるんだろう、なんてこと、考えたくもないのに考えてしまう。
 違う違う。違うだろう、私。
 それよりも、私には考えるべきことがあるだろう。
 雨が私をぼつぼつ叩く。
 彼が自分の傘を私に無理やり持たせて、自分は畳まれたままの私のブルーシートを頭に乗せた。ぐい、っと私の腕を引っ張ってくる。
 私は立ち上がって、言った。やっとの思いで、言った。
「私の名前も、椿っていうの」
 星あかりも消えて、高台の街路灯ひとつに照らされていた。だから、私たちの立つ場所は闇から切り取られた場所だった。雨音のカーテンに遮断されて、声さえもこの光の外側には逃げ出さない。
 彼はほんの一秒だけ、ぽかんとした無防備な顔になった。ちりちりとねじっていた前髪に雨粒がつるつると滑って降りて、ひとつ落ちた。
 それから彼は笑った。
「お互い、首になったら、一緒に就職活動やりなおそうな」
 ようやく、私の世界が広がった。雨はどこまでも遠のいていって、闇は薄まっていった。
「うん。やろう」
 ぽつぽつと置かれた街路灯が私たちの帰り道を教えている。
 私の足が動き始めた。私は彼からブルーシートを受け取って、デイパックを背負って、彼の傘の右半分で帰り道を歩き出した。雨は最初の強さを失ってやわらかな感じになってきていた。
 お互いの携帯電話がほとんど同時に鳴って、明日の花見の中止を告げた。部長はやっぱりご苦労様も言わない。ふん、無礼なヤツめ。
「あ、そうだ。敷いてきたブルーシート、片付けないとだ」
 と私が言うと、
「じゃ、二人で協力しあおうか。端っこ持って二人で畳めばすぐだぜ」
 傘を私の手に押し付けて、小走りに元の道を引き返し始めた。まるで来た時に私を追い越していったみたいに。
 数メートルも行かないうちに振り返って、
「な、椿」
 と付け加えた。
 私はこくっとうなずく。
 そのとき、今だ、今しかない、と思った。
 私の口が、彼の名前を聞く言葉をつむぎだす――。
 
 
 
 -了-
 
 
 
 
 (『作家でごはん!』鍛錬場投稿作品)

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2008.12.14

『アルカイック・ラヴァーの隣で』(七枚)

 となりの席のスガノ君は、卒業文集に「好きなもの=仏像」と書いたくらい、ちょっと変わった子なのだった。
 好きこそ物の上手なれ、なんていうけれど、ときおり登校口の鏡の前で仏像のポーズの研究をしているのは、はっきり言ってやりすぎだと思う。
 仏像が好きなのも、ポーズを取るのも個人の自由ですけどね。
 でも、中学に入って最初のわくわくイベント、榛名湖の林間学校に来てまでやることか!?
 二日目の朝、私が通りかかったトイレ前でも、スガノ君は練習をしていた。「運慶作、大日如来像」とか、「作者不詳、法隆寺弥勒菩薩半跏思惟像」なんて言いながら。毎日練習に余念がないのだ。でも今日は林間学校だ。榛名湖畔の、共同生活だ。その横を通り抜けて女子トイレに入る人間の身にもなってほしい。なぜだかこっちが恥ずかしい。
 無言で通るのもシャクに触った。そこで、つい、
「スガノ、できるもんならやってごらん。千手観音」
 と余計なことを言ってしまったのだ。
 スガノ君はからかわれたとは思わない。リクエストだと受け取った。……のだと思う、たぶん。
 余計なことを言った私も悪いけど、クラス中の男子を廊下に縦に整列させてほんとうに千手観音のポーズをするスガノ君には「冗談を本気にするな」と声を大にして言いたい。
「見ていろよ、シモムラさん。十六人で三十二手だけど、名づけて“正面から見ればほとんど千手観音”ー!」
 ムカデ競走みたいにずらりと男子が並び、ごていねいに名簿の五十音順になって、手をいろんな形にしている。なんでお前ら全員スガノ君の言いなりなんだ。
 なんだなんだと女子連中や、他のクラスの生徒まで出てきて、爆笑の渦になった。
 ちなみにスガノ君の顔立ちは、整っている。たぶんテレビで子タレくらいには楽勝でなれる。そして、やっぱり本人が好きなだけあって、仏像にも似ている。教科書に載っていた如来像あたりを思い出してごらん。妙に中性的で、なまめかしい感じがするから。
 その顔でじいーっと見つめられて、私は思わず言ってしまった。
「人数に頼るのは安易だね。今日の午後のカヌーで同じことがやれたらほめてもいいけど!」と、憎まれ口を。
 一刻も早くトイレに駆け込みたいだけで、深く考えなかった。私が悪い。
 あのあとスガノ君がカヌーから落ちてずぶぬれになったのも、たぶん私が悪いのだ。ムリヤリ縦列になった揺れるカヌーの上で立ち上がったのは、千手観音するために違いない。私が挑発なんかしなければ、スガノ君は立ち上がらなかったし、ずぶ濡れにもならなかったんだ。
「銀行員になる」
「は?」
 成り行き上、クラスの男子どもから「シモムラがスガノを挑発した」「シモムラがスガノを介抱するべき」「シモムラによってスガノは慰撫されるべき」などと言われ、(なんで常に無条件にスガノ君の味方なのだ、あんたたちは! いろいろ変だよ、わがクラスの男子)しょうがなく、毛布でくるまれたスガノ君を私は介抱した。といっても、毛布をかぶって体育座りをしているスガノ君の隣に座っているだけなんだけどね。
 そこで、突然、スガノ君から将来の抱負を聞いてしまったのだった。
 銀行? まあ、無難に受け流すか。
「もしかして、稼ぎがいいから、銀行員?」
「うん。あと出世して大手企業から融資の相談を受けたりすれば、個人所有の仏像を見せてもらうコネができるかもしれないし」
「うわ、子どもらしくなー!」
 しまった、と思ったけれど、口が止まらなかった。たぶん、私は嫌だったのだ。スガノ君がではなく、目の前の中学生が将来のことを言ったりするのが。ずっと子どものまま、仕事のこととか進路のこととか考えないままいるのがよかった。だから、「将来のため」とか「自分のため」なんて大人から言われると頭に血が上る。そのとばっちりを、スガノ君に向けてしまったのだ。
 私は、スガノ君をあざけ笑った。
「さっき湖に落ちたのも、ほんとうは運動不足じゃないの? きっと銀行員になるために猛勉強しているんでしょ。あはは、スガノは偉いでちゅねー」
 私は馬鹿なんだ。スガノ君は私の言葉を冗談だと受け取らないって、今朝から二度も教えられていたはずなのに。冗談を言ったつもりで、スガノ君を傷つけていた。
 たぶん、私のことを好きでいてくれて、正直だからそのことをクラスの男子にもバレバレのまま、私にわざとらしく関わってくる。そんなスガノ君を、私は傷つけていた。
 スガノ君、私もほんとうは気づいていたよ。けれど、ちょっと顔もよくて、性格も変だけど素直で、男子からも女子からも好かれている君を、私が取ってしまうのが怖かったよ。みんなにねたまれるのが嫌で、ついスガノ君によくない態度ばかり取ってしまったよ。
 ほんとうは、君に好かれて嬉しかったのに。
 将来、きっと銀行員になってね。
 たぶん、そのときにはもう意地悪な私のことなんて、好きじゃなくなっていると思うけれど。
 そう心の中で思って、何度も「ごめん」を口の中で繰り返した。でも、言葉にはできなかった。
 スガノ君は、湖のさざなみを見つめて動かない。何分も、何十分も、動かない。林間学校の建物の中が騒がしくなったり、しーんとしたり、またガヤガヤしはじめたりして、授業と休み時間とが繰り返されて、そして、スガノ君は動かなかった。
 そっと横からのぞくと、いつもの変わらない顔だった。でも毛布の下の目のふちを、ほんの少しだけ、赤くしていた。
 私は私の唇を噛む。
 きつく、力いっぱい噛みしめて、鉄の味ごと唾を飲み込む。
 何度も、何度も。
 私が私を許そうと思えないから、ずっと。
 
 
-了-
 
 
 
(※『作家でごはん!』 三語即興文投稿作品:【毛布】【運慶】【銀行】)

(※意外にも【銀行】がきつかった~(^^; 唐突感があるのはいいけれど、不自然になってしまっていたら……と危惧いたします)

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2008.12.01

『トレンチの魔法使いと聖女の記憶』(七枚)

 トレンチ(塹壕)の中で老兵士と一緒になった。
「若造、助かりたいか?」
 ヘルメットに落ちてくる泥を左手でぱっぱっと払いながら、爺さんは声をかけてきた。命の瀬戸際だというのに、暢気なのか図太いのかわからない。
「当たり前だ。こちとら身重の嫁さんを国に待たせてある」
 無視しなかったのは老人への敬意というものを僕がわずかに残していたのと、そして、なによりも気を紛らわせなければ攻撃をしのぐ間を僕自身が耐えられなかったからだ。この日、枢軸側の猛攻は極みに達していた。前方ばかりでなく、左右からも、背後からも敵の着弾による爆裂音が響く。完全に射程に侵入を許している。
「元気な返事だ。そうか、それならいいものを見せてやる。私はほんものの魔法使いなんだ」
 爺さんは襟元からロケットを取り出した。僕は真に受けたりはしなかった。誰でも方便で、自分は魔法使いだとかサンタクロースだとか言うものだ。が、方便に乗ってやってもいい気持ちになっていたのも事実だった。
 爺さんはロケットを開いて中を見ろという。
 銀色の扉はかすかな金属の音とともに開いた。中から淡い水と森の色があふれてきたように感じた。
 絵画にたいして興味のない僕も、目を引きつけられた。やわらかなタッチで描かれた裸婦像だった。マネの描くような飾り気のない裸の女性が、木の蔭から上半身だけ出してこちらを伺っている。豊かなブルネットが裸身にイバラのように絡みついて、むしろその肢体ののびやかさを映えさせていた。印象だけを抜き出せば、マネのような印象派というよりは、ルネサンス期のジョットの描くような聖女が僕には連想された。
「何がほしいの?」
 と、裸婦の声が聞こえた気がした。
 たぶん、戦場での極度の緊張が、幻聴のようなものを生んだのかもしれない。僕はそれを不思議にさえ思わなかった。考えるより先に、ためらう間さえなく僕はその女性に言っていた。

 ――僕は、

 そこから意識の空白が訪れたらしい。ぼくは、彼女に何かを願ったのかどうかさえ自覚がないまま、現実に戻された。
「おい、引き上げの合図が出たぞ」
 気づくと、爺さんが脇腹を小突いていた。
「ところで、何を願ったんだ」
 僕はようやく、自分が絵を見たこと、その中の裸婦に何か聞かれた気がしたのを思い出した。どうやら僕は問いに答えたらしいこともわかる。願い事だったのか? 何を願っただろう。それだけは、思い出せなかった。
「思い出せないよ。でも、そうだ。覚えてる」
「なにをだ?」
「最後に、その女性は俺にウィンクしてほほえんでくれた気がするんだ……」
 爺さんは最初、じつにつまらなそうにまぶたの垂れたままの目で僕を見下ろしていた。『私の知りたいのはそこじゃあない……』と、唇を動かさずに言ったように思えたが、気のせいだったかもしれない。
 突然、彼は口の両端をぎゅうっとつり上げた。それから大声で言った。笑いながら、
「ばはははは、そうか、そうか。それじゃお前さんは生きて帰れるのだろう。じつはお前さんは本来なら生きて還る望みはほとんどなかったんだ。一人で子を産んだかみさんも長患いをしてな。私はひょんな偶然から、お前さんの娘に頼まれたよ。それも、十五の若さでありながら昼も夜も熱で床から起きあがれない病身で、瞳のスミレ色ばかりが輝いていてな。それで興味を持った。運命が変えられるのなら、私の運命もまた、変えられるかもしれないと。お前さんは私の実験につきあってくれたな。なに、お前さんにとってはもっぱら転がり込んだ僥倖というものさ。お前さんは願いをうまくやりおおせた。子どもは身寄りのない寂しさを与えることも、お前さんには起こらない未来になっただろう。よかったな!」
 爺さんのつばが顔中に飛んでくるのも僕は上の空だった。ウィンクした裸婦の黄色みがかったハシバミ色の瞳を思い出していた。
「ああ、それにしてもなんと願ったのか知りたかった。若かった私が彼女をロケットの中から失い、二度と見つけられなくなったあのとき、どう願えばよかったのか。それだけが知りたかったというのに。願いが叶っても彼女は戻らない。ああ」
 周りの兵士が次々にトレンチを脱出していく。僕もようやく正気に返って、泥の底から這い出した。ふと見やると、爺さんの姿はもうなかった。
『忌まわしい、あのときの戦場くんだりまで来て、私はいったい何をしているやら……』と、声が聞こえた気がした。

 まもなく戦争が終わり、捕虜の交換も済むと、僕は家に帰ることを許された。爺さんの姿はやはりどこにも見つからなかった。ただ、僕と同じくらいの若い捕虜がたったひとつの私物として大事に手のひらに包んでいたロケットと、うつむき加減の瞳のハシバミ色とが、ほんの少しだけ気になった。

 帰郷して一ヶ月後には、僕は無事に父親になった。
 娘は母親に似てヒマワリのようなブロンドの髪をしていた。ただ瞳の色だけが、両親のスミレ色を受け継がなかった。その色は、黄色がかったハシバミ色をしていた。
 その色の瞳でぼくに笑いかける彼女を見るたび、僕は思い出す。
 あの人はたしかに願いをかなえてくれたのだと。
 瞳の色は、運命のちょっとしたすげかえを知らせる徴(しるし)なのだと。瞳のスミレ色と引き替えに、ひとつだけの願い事を叶えた彼女のささやかなサインなんだとわかるのだ。
 ぼくはあのとき、自分の命を願わなかった。
 もう、いつでもはっきりと思い出せる。

 ――生まれてくる子どもの無事を祈る……。

 たしかにそう願ったのを。
 もうじき娘が十四歳になる。もうじき彼は来るだろう。昔、捕虜だった男がきっと娘に会いに来るに違いない。
 そうしたら教えてやろう。
 自分自身ではない、自分がほんとうに大切に思う人のことを願うといいと。過去をやり直せるとしたら、ただ一人の他人のことをだけ心に浮かべるといい。そう、言ってやろう。


 -了-


(※『作家でごはん!』鍛錬場・三語即興文投稿作品:【トレンチ】【身寄り】【絵画】)
(※少し手を入れてみました。人物関係が整理されているといいのですけれど(^^; どうでしょうか……?)
 

 
 

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『りえぞーとぼくのアンシェヌマン』(六枚)

 ぼくの祖先は“ラフランス”だった。
 りえぞーが発見した。
 亡くなったじいとばあの部屋には江戸時代の祖先の写真が飾ってある。長押(なげし)の上に七つ並んだモノクロームの肖像は、名前も知らないぼくのルーツだ。そのいちばん古くてうすぼんやりしたのが、江戸時代に藩の家老だったというご先祖だ。
「ラフランスだ!」
 八百屋をやっている畦沼理恵(あぜぬまりえ・通称りえぞー)が指さして言った。
「あ? 何?」
「いい形だねー。あの輪郭(りんかく)。知ってる? ラフランス。洋梨だよ」
「オレの悪口?」
「まさかぁ。いい形だよ。あたしもばあちゃんも大好きな果物だよ」
 と言ってから、りえぞーがきょとんとした顔つきになった。「えっと、何しにこの部屋に来たんだっけ?」なんて言っている。
 ときどき、こいつの回転の速さにとまどう。年末の大掃除なみにあわただしいやつ。
「明日の授業で使う葉っぱを探しにきたんだよ、中庭に」
「あ、それならあたしももらっていい?」
「そう思って連れてきたんだよ」
 あ、それでこの部屋なんだ、そうかそうか、こっちが中庭ね、なんてりえぞーは六年生にもなって友達の家をどかどか足音たてて歩き回る。お互い、しょっちゅう一年生のころから家まで遊びにいっているから、これでいいんだけど。
 仏壇と額縁しかないその部屋は、小さな中庭に面している。そこには秋の終わりに落葉が吹きだまる。人の通り道は毎日ほうきでかあちゃんが掃き清めているけれど、植え込みの下や、大きな木の根本のはずっと残っている。持ってきた靴で中庭に下りて、葉っぱ探しをした。
「コントラストを考えなくちゃね」とりえぞーが言う。
「なにそれ?」
「色の対比。ばかねぇ、今日の授業で先生が言っていたじゃない」
「わかったよ。でもばかはよけいだろ」
「ねえねえ、この黄色いの、もらっていい?」
「いいけど、オレはばかじゃないぞ」
「赤いのもみっけ! 赤いから縮めてアキっていうのかなあ? ねえ?」
「……オレはばかだからわかんねえ」
「ん? 選次郎(えりじろう)はばかじゃないよ?」
「……むぐぐ(こ、この女)」
 かみ合わないのは、ぼくが悪いんだろうか? けどりえぞーに悪気がないのなら、それでいいのだ。りえぞーのうつむいた顔に髪がかかるのをクラスの目を気にしないで見ていられたのはうれしかった。大好きって言っていたのもよかったな。ラフランスのことであるとしても。

 次の日。
 図工の授業で、葉っぱの栞(しおり)を作った。
 クレヨンを使って模様や文字をつけてもいい、コラージュ風にちぎってもいい、と先生は言った。ぼくは洗面所の鏡に映った自分の顔を葉っぱでデッサンしようと思った。自分の顔がマネキンに見えるまでじっと見つめて、でもどうしてもピーマンやワッフルに見えてしまったり。
 覚えた自分の顔の形にハサミでちょきちょきする。先生の机に持っていく。プラの板ではさんで機械でラミネート。ぷしゅう。穴を開けて、かざりのひもをつけて完成。
 帰りに、りえぞーに誘われた。
「ラフランス見せるから」
 だって。

 りえぞーの家は八百屋だから、子ども部屋や寝室は二階にある。一階はお店と、奥の間とトイレと風呂しかない。
「ラフランス、じいとばあにあげてよね」
 と袋を持たされた。紙のぱりっとした袋にたぶん四つ入っている。
 ぼくが手に持って横や下から眺めているのを見て、りえぞーがヘンな声で言った。
「何? 傷んでいるのなんか、入れていません」
「ばっ、違う。ラフランスってどんな形かと思って」
 ああ、とりえぞーが納得した顔になった。だいたいラフランスを見せるからと言って呼んだ本人がシルエットクイズにしているのじゃ世話がない。
「んー、家に帰ってのおたのしみ、でもいいけどねー。ちょっと待って。まだあるかもしれないから」
 と言ってりえぞーは部屋を出て行った。
 と、それからぼくはずいぶん待ったと思う。何度も一緒に遊んだ部屋なのに、なにかがちょっと違ってきている気がする。来年の四月には中学生になる女の子なんだから、当たり前。このごろぼくたちは、いろんなことが違ってきている。違ってきていて、アタリマエ。
 窓から顔を出してお店の様子をうかがう。おじさんとおばさん、お客の声はする。りえぞーの声はない。
 階段下だろうか。ぼくの行ったことのない奥の間なのかもしれない。そっと降りてみた。
 襖(ふすま)を開ける。音ひとつ立てずに襖はすべって、部屋と廊下を一続きにする。
 しなびたばあちゃんが寝ていた。
「いつか言っていた、寝たきりのおばあちゃん……」
 すぐにわかった。
 そして、枕元にはラフランス。
 きっとばあちゃんの好物なんだ。籠に七つほど盛られている。
 ばあちゃんはまるで生きていないみたいに、動かなかった。線香みたいな匂いのする部屋で、目をつぶっていた。しわくちゃの口元が少し開いていた。
 十数える間に、布団がゆっくり三回だけ上下した。
 りえぞーの家は、今はとうちゃんとかあちゃんが八百屋をやっているけど、ぼくやりえぞーが生まれた頃まではばあちゃんも店に出ていたと言っていた。
 気づくと、
「選次郎(えりじろう)」
 と声がする。りえぞーが呼んでいる。
 あれ、いつの間に部屋に戻ったんだよ。だいたいどこに行っていたんだ。ぼくを放っておいてさ。
 葉っぱの栞は、ばあちゃんの部屋に置いておくことにした。。
 なぜなら、ばあちゃんにあげるのがいちばんいいと思ったから。
 ぼくが作ったのは、うすみどり色の葉っぱの栞で、ぼくの顔の形にしたのが真ん中にぽちっと貼られた栞だ。つまり、その形ラフランス。鏡の中で、ぼくの顔はやっぱりラフランスに落ち着いたのだった。
「りえぞーのばあちゃん、ラフランスの栞、プレゼントです」
 ばあちゃんの胸の上で、布団がいつもより少しだけ大きく上下した気がした。
 部屋を出て、指先に力を込めて襖を閉じる。目の前でぴしっと部屋と廊下が区切られたのを見てから、ぼくは階段を駆け上がる。
 もう一度聞いてみよう。りえぞーに。
 ラフランス、好き?って。
 きっと答えてくれるだろう。
 大好きだよ。
 って。
 どんな意味が込められているかなんて、そんなのわからなくてアタリマエ。
 
 
 -了-
 
 
(※長いので未投稿です(^^; 三語即興文:【階段】【ラフランス】【落葉】冬のお話で)

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2008.11.06

『忘れられた鉄の道の上に』(五枚)

 披露宴の余興で、僕たち三人はコブクロを歌った。
 YOUという曲を選んだのは、新郎の伴多(ともだ)が新婦である悠乃(ゆの)をずっと支えていく、というメッセージを伝えたかったからだ。

「百点満点!」
 酔った新郎に言われるのは、悪い気分じゃない。三次会は五人だけになった。僕たちは高校時代から数えて十年一緒に居続けた、世間で言うところの“仲良しグループ”だ。伴多、柏原、留目(とめ)、僕、そして悠乃。男が四人で女が一人の変則グループだったけど、最初から伴多は悠乃のことが好きで、高校を出る頃には二人は恋人だったから、色恋のトラブルとは無縁だった。
 伴多が僕のコップにウーロン茶を注ぎに来た。
「ほんっと、ダイの歌は聞き惚れるよな。それで女を何人振ってきたんだっけ?」
 もう歌の話はいいって。
 柏原と留目が間に入る。
「ばあか、お前たちがちゃんとくっつくのを確認しなけりゃ、俺たちが先に身を固められるかってーの」
「そぉそ。ダイはお前らのちっとも進まない結婚話をいちばん近くで見てきたんだかなら。こいつのときはぐずぐずしないぜ。あっという間に煮え切るぜ」
「そうだぜ、ダイは煮え切る男だぜ」
 なんでかな、二人とも僕のレンアイのフォローをしているように聞こえるんだけど?
「大バカ三太郎が! 今日の酒の肴はオレじゃねーつの。バンとユノ、おら、ウーロン茶もっと飲め」
 と言うと、悠乃からつっこみが入った。
「ダイってば、ウーロン茶は酒じゃないし! あんた二次で飲み過ぎた?」
「大悟、ダイジョブ、グッジョブ。イエス、ウィー、キャン。オバマまだノメマース」
 やっぱこいつダメだー、と四人がバカウケした。
 でもあれ……っ。僕は急に体に痛みが走ってうずくまった。痛い。胴の上半分全体がぴりぴり痛い。
 四人にはやっぱりちょっと飲み過ぎたみたいだ、なんて言ってトイレに駆け込んだけど。どうもおかしい。痛みの中心を探ってみると、どうやら心臓のあたり。攣るように痛い。
 個室に入ってうずくまる。吐き気は……しない。心臓を両手で抑えて、じっと身をかがめて耐えた。
 うん、大丈夫。収まった。痛みはない。引きつりも、ほとんど消えて、気にならない。
 ふと、個室の小窓から外に視線を投げた。電灯はないけれど、幸いの月夜だった。
 トイレの裏に鉄条網があって、その向こうに古い線路が見える。
 いつか終着まで乗ろうと思っていた。
 うちの高校は市の外れにあって、不採算になったローカル線がそばを走っていた。今日の三次会は高校のそばを選んだのだった。
 あのとき乗ろうと誓った線路。
 隣県との境を、数十キロも伸びていて、山や川や谷に沿ってたった一両のディーゼル車が走るのだ。観光列車として赤字ながらも助成金を得て細々続いてきたと聞いているが、五年ほど前に完全に廃線になった。
 あの頃からは、もう十年経った。もう車両は走らない。
 せめてこの足で少し線路の上を歩けたらな。
 そう思いながら、手を洗ってトイレを出た。
 したら、扉の外でこっちに来る新婦と出くわした。
「電車はもう見えないんだな」
 と言うと、
「え、なにそれ? まだかなり酔ってんの?」
 と、話が通じていない。当たり前か。
 黙っていると、弱くなったのは年のせいかぁ? と上げ調子で言われて額を小突かれた。
 ふいに言葉が喉からせり上がってくるのを感じた。

 ――お前が嫁になんか行くからだよ。

 まったく意外で、僕自身とても驚いた。もちろん、実際にもそんなことは絶対に言えなくて、僕はなぜかわからないけど必死に錆びた鉄の道の先を思い出そうとしていた。なんだよ、僕というヤツは結婚式の、それも三次会でこんなにあわてていやがる。
 流れる時はとても速くて、たぶん僕が僕の気持ちに気づく前に、とっくに大事なところを通り越してしまっていたんだろう。
 想像の中で、淡い月明かりの中、レールが錆びて横たわっている。その周りに草が茫々と風になびく頃になってやっと、僕は僕の気持ちを置いてきたことに気づく。
 だから、最後まで笑っていよう。
 悠乃の背中をどんと押して、さあさあ戻った戻ったと新郎の待つテーブルへを追いやった。
 ゆっくり呼吸を整える。そのあと、みんなのところへ顔を出して「涼んでくる」と告げ、僕は裏手に回る。鉄条網はところどころぐったりと垂れ下がり、乗り越えるのはたやすかった。

 月の青みに染まる草を泳ぐようにかいて、線路にたどり着く。
 錆びたレールを隔靴に感じて、強く踏む。
 ガン、ガンと、年月が過ぎても鉄は鳴る。
 錆びたことを忘れて、鳴る。
 僕の月日の数だけ、靴が鉄を鳴らし続ける。
 
 
-了-
 
 
(※作家でごはん!鍛錬場 三語即興文投稿作品:お題【廃線】【満点】【披露宴】)

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2008.09.20

『黒船の父』(四枚)

「ヨーコ、誕生日にはハワイに連れて行ってやるからな」
 父は約束してくれた。父娘二人暮らしは決して楽じゃない。私の就職が決まったお祝いもかねてということだけれど、ハワイだなんて、あまりに破格のことだった。
「どうしたの、いきなりすぎない? 去年はケーキだけだったじゃない」
 そう言う私に、一緒に旅行なんてお前が就職したらなかなか行けない、あっというまに十年二十年経ってしまうんだから、という理屈で父は主張を押し通した。家計を預かる身として私はしぶしぶ同意した。しぶしぶ顔の裏側で、胸はどきどき高鳴った。誕生日のお祝いなんて父が離婚してから初めてかもしれない。ハワイなんて自分には一生縁がない場所だと思いこんでいた。
 けれどまもなくハワイは三浦半島になった。
 父の持病の胆石が三年ぶりにまた出たからだ。手術費がかかるし、体に無理もさせられない。個人タクシーは日銭を稼ぐ商売だ。父は休みを半分に削って、私と旅行の計画を立て直した。一泊二日の下田だって、ぜんぜん悪くない。私はうきうき気分に水をかけないように、胸の中の灯りをそっとそっと守った。
 父と一緒だったら、きっと楽しいはずだった。だからこんな会話をしたのをはっきり覚えている。
「五月の連休はお客をいっぱい取って稼ぐ。それが明けたら三浦半島だ。知ってるか、黒船祭。ペリーの似顔絵が怖くてな。ヨーコはきっと泣くぞ、なんせ当時は生き血をすする赤鬼だと騒がれたくらいだ」
「もう、私が水木しげる大全集を持っているの知らないの? 赤鬼、青鬼、大歓迎よ。お父さんこそペリーの似顔絵を見て大騒ぎしないでよね。お祭りというとはしゃぎすぎるんだから」
 けれど、予定は実行されなかった。
 ハワイだった三浦半島は、病院の裏庭の四つ葉のクローバーに変わった。
 胆石と診断されたはずが、悪性腫瘍だと判明したからだ。
 旅行が延期になってすまなかったな、と言いつつ照れながらクローバーの押し葉を手渡してくれた。「ヨーコがいいお嫁さんになれますように」なんて言って。子どもの頃から私はずっとどこにもお嫁に行かないって言っていたのをまさか忘れたわけじゃないでしょうに。ヨーコはお父さんのお嫁さんになるんだよな、と酒が入るといつも言うくせに。どうしたの?
 それからの時間の流れは残酷だった。
 別れらしい別れを告げる機会もなく、父は他界した。
 一年経った。すべてが怒濤のように過ぎ去ったあと、私は父の遺影と下田を訪れた。
「お父さんが脅かしたペリーの似顔絵って、あれね。あはは。怖いけど、怖くない」
 ヨーコはきっと泣くと父は言っていた。それは本当だ。
 バカ、お父さんのバカ。
 こんな風に写真の中のお父さんとじゃなくて、ほんもののお父さんと来たかった。
 ペリーが赤鬼だ、見ろヨーコ、なんて言いながら大騒ぎして恥ずかしい思いをしてもよかった。お父さんの胸をぽかぽか叩いてやめてと笑いたかった。それでいいから、お父さんと一緒がよかった。
 まぶたに当てたハンカチから、私の指先に温かな湿り気が伝わった。
 涙は拭いても拭いても止まらなかった。
 父の遺影を私はぐっと抱きしめた。
 
 -了-
 
 
(※作家でごはん!三語即興文投稿作品 【四つ葉】【三浦半島】【ハワイ】 課題「予言を扱ってください」)
(※今回は、自分で出したお題を自己消化いたしました。お題の由来はあすまきよひこさんの漫画『よつばと!』です。早坂みうらさんはハワイも知っています(^^;)
(※作者個人としては、あまりおもしろみのない作品……と思っているのですけれど、好意的な感想をいただきました。なんでかなあ(^^;?)
 
 

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2008.09.13

『私は河童に似ていない』(五枚)

 ニット帽を脱ぐわけにはゆかない。だって頭が河童だから。家に帰っていつも思う、私の髪は帽子に弱い。必ずペチャンコになって見事に河童になる。
 まだ初秋だけれど朝晩は寒さを感じるようになってきた。私の場合、秋には頭痛が多くなるのよね、冷え性だから。と言ったら彼が買ってくれたのだ。ニット帽を。
 買ってもらった以上、かぶっていくべきだと思うでしょう、デートには。
 喫茶店も、マルイも、映画館も、暖房が効いていた。効き過ぎていた。効き過ぎた暖房で人間は汗をかく。頭にもじっとりと汗をかく。帽子をかぶった頭は蒸れる。蒸れると頭髪がヘニャる。ヘニャるは河童。河童はまずい。河童必至だ。大ピンチ。
 髪の毛がちゃんとしている日には外から見てぜんぜんわからないけれど、私の頭は平らだ。家族の間でデカン高原と呼ばれるくらいの広大な台地だ。デートの相手にそんなぺっとりペトリ皿になった頭を見られるわけにはいかない。可憐な乙女のポリシー。
 ついていない日は、とことんついていない。喫茶店で飲んだクリームソーダに不審な物体を見つけてしまった。ブルーの海原で小さな小さな黒い羽虫が泳いでいた。力弱く、今にも絶命しそうな様態で。
 もう飲み終わりかけの、私のクリームソーダの中にいた。つまり、羽虫が入ったまま、私は飲んだ。ちゅるちゅる飲んだ。これを。
「どうしたの、怖い顔をしちゃって」
「さ、さら……」
「皿がどうした?」
「皿じゃなくて、ソーダ、ソーダに虫が」
「うあはは。間抜けな虫だな。アブラムシか? そりゃっ」
 クリームソーダに指を突っ込んで虫を指先に吸着したと思うと、紙ナプキンを拡げてそこにはじき飛ばした。羽虫はやっぱり絶命していて動かない。彼はコンマ5秒で虫のことなんかわすれたようだった。
 悪いことは続く。そのあと彼の部屋でネット通信でセブンブリッジをしていたとき。賭けようぜ、なんて言われて煙草代でトトカルチョを楽しんでいたら、彼のマルボロの容器の中にカサカサにひからびた虫の死骸を見つけてしまった。さっきのとよく似ているけど、羽が長い。色は緑。
「こぉらーっ」
 箱もろとも足で踏みつけてゴミ箱に直行させた。
「わ、なにすんだ。煙草が」
 と彼は慌てたけど、煙草より虫の恐怖を味わった私の心配をしてほしい。けど、私も冷静さを完全に失ったわけではなく、残っていた二本はちゃんと左手の中に救出していた。一応、虫がくっついていないかたしかめて、彼に返す。
 楽しいデートの締めくくりは、コンビニで買っておいたクリームあんみつ。
 四百円もした。しまった本日二度目のクリームだと思ったけど、こんなときのために日頃からカロリー制限をしているんだと自分にエクスキューズして、おいしくいただくことにした。
 クリームとあんことみつ豆が三つ巴。
 開けた窓からは秋の夕焼け、たなびく雲。そばの電線でカラスが鳴いているのも普段はうるさいだけなのに、秋だというだけで風流だなって思える。
 と思ったら。私のあんみつはすでに悲劇で汚染されていた。
 もう、次の羽虫が入り込んでいた。白いゲレンデに身をうずめてぷるぷるしていた。
 
 生きているところをよくよく見たら、私の部屋のベランダで栽培しているキュウリによくついていた虫だった。アブラムシだったっけ。私のキュウリの栄養をよくも吸って吸って吸いまくってくれたな。キュウリの恨み、思い知れ、と小さくつぶやいてティッシュでくるんで捨てた。
 あんみつは、食べた。
 そのまま帰るのも後味が悪すぎる。だから口直しに彼を誘って飲みに出た。
 あそこんちになら、たしか黄桜があったはず。
 日も暮れて、とっぷりと暗くなった夜道で、私はニット帽を念のためさらに深くかぶり直す。
 私は、河童に似ていない。
  
  
-了-
 
 
 (※作家でごはん!鍛練場『三語即興文』投稿作品:【河童】【セブンブリッジ】【三つ巴】課題:主人公は神経質)

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2008.09.12

 『刺青の魚』(六枚)

 
 刺青(いれずみ)の魚が怖くてたまらなかった。
 場所は草津温泉。
 立ちこめる硫黄分の臭気がひときわ濃い、草津の中心である湯畑。今なお活動を続ける草津白根山のマグマによって大量の湧出がある。古くは源頼朝、豊臣秀吉、その妹で徳川家康に嫁いだ旭姫らも訪れたと記録に残る。日本を代表する温泉のひとつである。
 初秋の夕暮れ時は人手が少ないとはいえ、それでも観光地独特の、くだけた気分の人の群れがゆったりと動いている。湯畑のわきにある露天風呂へも人は流れ込み、三々五々、体を芯からあたためるためのひとときを過ごす。ほとんどは恋人同士か、家族かだ。
 寿哉(としや)も家族で草津を訪れた一人だった。中学の部活動の試合がなかったので、二泊三日の家族旅行に参加した。試合があったら一年生は応援が義務でとても来られなかっただろう。どちらかと言えば風呂は好きではないのだが、温泉は嫌いではない。湯から一度出て頭を洗っているところだった。
 寿哉の隣りに初老の男が座った。
 目に真っ赤な魚が飛び込んできた。目が離せなかった。青い海に立ち上がった真っ白な水しぶき、その上に体を翻している丸い目の魚。はじめに見えたのは膝から腿のあたりであったが、やがて背中にも大きなその魚が彫られているのがわかった。
 刺青はたぶん鯛だろう。大漁旗も一緒に彫られている。
 見事な――と、言う人もあるのだろう。
 しかし、中学生の寿哉にとっては漁師であろうその男の刺青は恐怖を感じさせるものだった。
 意識すまいと思えば思うほど意識から追い出せない。
 男が湯の方に歩いていったとき、寿哉は男のあとをついていった。
 もちろん体を洗い終えれば湯に入るのは当然なのでおかしいことではない。だが、寿哉は湯に向かったのではなかった。刺青の魚を追いかけていたのだ。
 刺青の男の向こうには、この九月の連休を利用して草津に連れてきてくれた父の姿がある。頭に手ぬぐいを乗せて目をつぶっている。父に一声かけてその隣りに座れば、寿哉はもう刺青のことを忘れるだろう。露天風呂から上がり、妹と母と合流して、一家四人でホテルに戻り、テレビを見て眠り、翌日は名所地獄巡りを歩く。それからふたたび父の運転する車で家に帰る。刺青の魚はもうすっかり意識から消え失せる。
 そのためには刺青の魚から目を離し、父の方へ視線をまっすぐに向けるだけでもよかったはずだ。しかし、このとき寿哉にはそれができなかった。
 飲み込まれた。
 露天風呂の湯を赤い鯛がごうごうと飲み始めた。たちまち湯も空気も渦を巻き、湯煙が衛星写真の雲の動きのようにぐるぐる回って魚の口に向かって落ちた。刺青の魚は横を向いたまま、ひょっとこのように唇を長く伸ばし、エラをぷっくりと膨らませて湯を飲んでいた。腕をぐるぐる回してみたが自らの目がそちらを向いている以上、寿哉には逃れることなどできはしなかった。
 丸くて黒光りする目が寿哉のほうをぐるん、と向いた。それが見えたと思ったらもう、気づいた時には魚の中だった。
 喉の奥には潮がうねっていて、いく筋もの海水の流れる道がまるで丘を連ねたみたいに重なっている。どうどうと音を立てながら奥へ奥へと落ち込んでいく。
 暗いトンネルを通りながら、寿哉はだんだん、記憶が甦るのがわかった。
 夢が醒めてゆく。現実の扉を意識がするりと抜けて出る。出た先も夢なのだが、その夢にも現実の扉が現れて、寿哉は次々に通り抜けていく。
 思い出してきた。
 ここには薬を取りに来たのだった。妹の沙耶(さや)の薬だった。
 たぶんそれは小さな黄色い花で、地上にはたまにしか咲かない。硫黄が蒸気に乗って噴出して、湧出する源泉のそばの岩陰に付着する。毎日、ほんの少しずつ。
 寿哉が落ちてきた岩戸の滝壺が、どどどと豪快な音を立てている。花もあるが、ここにはそうではないものがある。
 病気の人に巣くっている悪いものだ。黒くて細長いものがここにはたくさんたまっている。寿哉の背丈の三倍ほどあってエノキ茸のようにひょろひょろしているが、どれも足元がみんな繋がっている。話さなくても繋がった体を通してお互いの意識を通じることができるし、そうでなくても考えていることは悪意だけなので同じことである。
 悪くて黒いのは、どれも同じ顔をしている。宇宙の深みの色一色に塗りつぶされた輪郭に白い楕円が三つ。両目と口のつもりなのだろう。寿哉が目をぱちくりさせると、そいつらも真似して白い虚ろな目や口をでたらめにパタパタと閉じたり開いたりし始めた。
 花を見つけて、早く海に出なければならない。
 黄色い花をそいつらの車座の中心からもぎとると、寿哉は赤い流れを選んで身を投げた。それはとても浅くて冷たかったので、急いで隣りの流れに身を浸す。
 熱い流れだった。
 緑色と青色の濁流に呑まれて、溶けた。
 

-了-
 
 
 


(※作家でごはん!鍛練場『三語即興文』投稿作品:【病気】【薬】【刺青】課題「病院以外の舞台で」)

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2008.09.05

『屏風裏の神様』(五枚)

 玄関で生まれたばかりのかまきりを見つけたので、屏風裏の神様に見せに行った。
 神様は小さな生き物を好むということを、私は知っていたからだ。昨日はこおろぎを見せに行った。その前にはやもり。神様は蒟蒻でできたみたいにぐにょぐにょの体をふるわせて喜んでいた。
 ママやばぁばは神様のことが見えないらしい。でも、そこに神様がいるのはわかるって言っていた。トチコは七年前まで神様のところにいたから、きっと神様の姿が見えるのよね、と。そうかもしれない。私は生まれる前にきっと神様の国にいたんだと思う。
 神様は言葉をしゃべらない。それから、屏風の裏から動くこともめったにない。私たちの住む離れのほかでは、一度、渡り廊下の向こうの本家のお屋敷で見たことがあっただけだ。
 気に入った生き物があると、神様はそれを食べる。火をつけたお線香の先に白い灰が生まれるくらいの時間でにゅっと伸びるのがその合図だ。大ぶりのタケノコみたいだったのが、駐車場のチェーンポールくらいになる。真ん中より少し下のあたりにすうっと糸で引いたような切れ込みが生まれて、そこからしゅるっと吸い込むのだ。
 食べたあと、神様は体をこまかく、こまかく、そしてすばやく震わせる。私はお風呂から上がるときみたいに、じっと待つ。すると、神様はもう一度口を見せる。それからぬめぬめした赤い舌のようなものを付きだしてくる。赤くて、少し橙色のぼつぼつが浮き出ていて、それからとてもとても甘い味がする。私はその周りをおおったじゅくじゅくした汁を時間をかけて味わう。唇ですすってはいけない。舌先ですくいとるように、こそげるように、ちょっとずつ。
 神様は小さい生き物を好む。本家で見たときも、お屋敷の千鳥破風の下でにゅうーと伸びて、ツバメの巣をのぞきこんでいた。でも食べようとしていたのじゃないと思う。神様が食べるのは、少し命の力を失っていて、それからほんとうにほんとうに気に入ったものだけなのだもの。たぶん、神様の国に連れて行くためなんだと思う。
 神様は、天気によって大きさが変わる。いちばん大きくなるのは雨の日。洋式便座よりも大きくなって、本家の白磁の壷よりも大きくなって、伸びたときには学校の清掃ロッカーくらいになる。
 そしてそんな日には、神様は私たち人間のことが好きになるみたい。雨の降る日に神様に会いにゆくと、決まって私のそばでにゅるっと伸びた。いとこのケイツケちゃんが一歳になった日に神様に見せたら、やっぱり伸びた。ダメだよ、と私は神様に言った。もし食べようとしたら、はりせんぼん飲ますんだから。そう言って私はケイツケちゃんを神様から遠ざけて、おばちゃんのところに連れ帰った。
 そう言っておいたのに。あのあと何度も、絶対に人間を食べたりしないでね、神様の国には連れていかないでね、とお願いしておいたのに。神様は、たぶん我慢ができなくなったんだと思う。
 ばぁばを食べようとしたんだ。
 本家でばぁばがけがをした。年度末だからと拭き掃除を張り切りすぎたって言っていた。腰がどうしても上がらず、一週間、寝たきりになった。
 その日は学校にいるうちから私は嫌な予感がしていた。なぜなら朝から空が重く黒く垂れ下がってきていたし、思ったとおり、五時間目からはしとしと雨になったから。
 黄色の傘を玄関に放り出して、ばぁばの寝ている八畳間にいったら、神様がだいぶふくらんでいた。たぶん、ママのワゴンRくらいの大きさになっていたと思う。たてに伸びることができないぶん、横にだいぶ大きくなってぷるぷるしていた。
 神様、ごめんね。ばぁばを神様の国に連れ帰ってやろうとしたんだよね。でも、まだばぁばを連れて帰ったらだめなの。私はずっとばぁばといっしょにいたい。だから、神様の体に生まれた裂け目の中に、秋のうちに拾っておいたはりせんぼんを、いくつも押し込んだ。青かった栗のイガはすっかり茶色くなったけど、やっぱり私の指にいっぱいささった。とても痛くて涙が出た。
 それきり神様はいなくなった。
 神様はきっと出ていってしまったのだと思う。
 それから何ヶ月かして、ばぁばは亡くなった。それからさらに一年か二年という短い間に本家も経営していた会社が相次いで倒産、廃業になった。私が中学を卒業する頃には、同じ敷地に暮らしていた一族の四十人以上がちりぢりになり、そして私とママも別の町に移って小さな古いハイツを借りて済んだ。馴染んだ離れが人手に渡るのを眺めているしかなかったのは悔しい気がした。
 あの古い屏風はどこにいったか知らない。
 神様もどこにいったか、私は知らない。
 
 
 -了-
 
 
(※作家でごはん!鍛練場三語即興文投稿作品「栗」「かまきり」「屏風」課題は「一人称で」)
 
 

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2008.09.04

『気が利かないにご用心』(四枚)

 
 結婚して一年になるけど、私の彼(灘井轟・なだいごう)は気が利かない。
 先月の誕生日。皮下脂肪を測れる体重計がプレゼントだった。私の脂肪に反応してピコピコ光るランプ。泣いた。
 そりゃあ、私は標準よりは太っている。けど、結婚前はそのふくよかなところも魅力なんだよって言ってたじゃない。裏腹な言葉と態度にこんにゃろめだ、ちきしょうめ。

 その前の月には庭に除草剤を撒かれた。猫の額ほどの借家の庭に、雑草がぼーぼーになったからだ。翌日から夏中、皮膚がかゆかった。かぶれて腫れた肌を掻くにも掻けず(乙女の肌に傷は厳禁!)、泣いた。

 そしてさっき、懐中電灯の電池が切れた。雷雨の停電のときに限って、つけたら二秒ですうっと消えた。

 暗い場所と怖い話にめっぽう弱い私は、雷と雨音で覆われた部屋の中で動けなくなっていた。午後六時はまだ真っ暗ではないけれど、今にも夜がやってきそうで、そうしたら悪い物が液晶テレビからにゅるっと手を出しそうで、家の前を横切った赤い傘の女がくるっと振り返りそうで、一昨日もらった福岡の銘菓ひよ子がチチチと笑って舌を出しそうで、そうなるとどこもかしこも悪い気配ばかりの気がして、部屋の真ん中で何かを叫びたいような、叫んだらおかしなものを呼び寄せてしまうような思いに囚われていた。チャイムが鳴るのはそんなタイミングだったから、ピン・ポォォォォンと鳴った瞬間にえひゃっと叫んで私は四十センチメートルほど大地を離れた。
 ガチャリとドアノブを回して現れたのは、彼だった。彼が職場からタイムカードを押すやいなや走って帰ってきてくれた。
 徒歩三十分の小さな事務機械の小売りで薄給手取り十二万円ぽっちだけれど。体重は私の三分の二しかないけれど。三十歳前でちょっと頭頂部分に淋しさが迫り来る風体だけど。
 それでも、私が心細いときには全力疾走で駆けつけてきてくれる。それが私の彼なんだ。
 私は笑顔で身を寄せてきた彼の背中に腕を回した。泣いた。
 おいおい、いくらなんでもそこまで怖かったのかい、なんて彼が身を丸めた私の頭の上で言うのが聞こえた。そんなことを言いつつちょっと嬉しそうな声色なのを私は気づき損ねたりはしない。しまった借りを作ったわ。泣きながら私は計算高くなる。
「体脂肪四十パーセントで出る光を明かりにすればよかっただろ。お前が痩せるまで何度でも光るぞ」
 バカ、冗談の言い方も知らない。
 人を安心させようと思ったら皮下脂肪のことなんか言うんじゃないってば。ほんとに気が利かない。
 たっぷり三十分は泣いた。
 彼が困り果てて、私をそっと抱きしめたりしたから、泣きやむタイミングを見つけられなくなったのだ。
 彼の不器用なところが、ときどき、こんなふうに私を素直にさせる。

-了-
 
 
(※作家でごはん!鍛練場三語即興文投稿作品「皮下脂肪」「除草剤」「懐中電灯」で、課題「お寒い、あるいはクールな話を。」)

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2007.11.20

『マコのハンカチ』(四枚)

 マコには謝らず仕舞いになってしまった。
 小学校卒業とともにオーストラリアに帰ってしまい、俺は連絡先すら知らない。

 王子の投げる球は監督曰く“ホンモノ”で、中学は隣の学区の私立を本気で考えるべきだと幾度も勧めるほどだった。
「王子、明日も試合に出てくれよな」
 俺が胸の前に差し出すミットを、王子はこぶしを握ってぼす、と叩いてくる。
「あったりまえー!」
 明日も、明後日も、王子は俺たちの試合に出た。王子が女であることはあまり気にならなかった。
 ずっとそうやって野球をやっていけたらいいと思っていた。
 思っていたから、俺はマコのあだながタマゴであることをいいことに、王子なんてあだ名をつけたのかもしれない。王子と玉子は似ているだろ? ボク、タマゴオウジ。

 マコは一見、童顔の男の子に見えたのも事実だ。
 色素の薄い、細い質の髪が日に照らされると、金の冠をかぶったみたいに見える。マッシュルームの形にはちょっと及ばない、きれいに借りそろえた髪の下の、やけに子どもっぽい顔。
 俺がフライの捕球に失敗してぶっ倒れたときの思い出だ。
 鼻血を止めるために詰めたティッシュのわきにこびりついた黒い固まりを、王子は濡らしたハンカチで拭ってくれた。しゃがみこんで、ちょっとはにかみ顔で。
 なんだよ、王子はホントに王子だった――。
 そう思ったとき、ふとハンカチが視界に入った。薄手の布は水色のふちどりがあり、白鳩が二羽、小さな花の茎をくわえている。男の持ち物じゃなかった。急に心臓がどきどきした。
 血が顔に上るのを感じた。あ、やばい、鼻血……。
 鼻がぬるまったくなっていくのに慌てた。俺はマコを邪険に追い払った。マコは様子が変わった俺を心配そうに振り返って、
「じゃああとで……な?」
 とだけ言った。
 ハンカチは、そのまま俺の顔の上。
 その日も、翌日も、俺がもうマコを王子として見られなくなったことを伝えられなかった。自分がそう呼びはじめて、さんざん頼りにしてきたくせに、勝手に終わりになってしまったのに。そんな身勝手なくせに、謝ることもできなかった。
 マコはそれから野球をしなくなり、監督も中学ソフトボールを勧めなくなり。なんとなく、マコが遠くに行くことがわかった。きっとたぶん、小さい頃に住んでいたという外国に帰ってしまうのだろうと思った。

 俺が先に、裏切った。

 顔を合わせるのも気まずくなって、クラスはあいつが一組、俺が三組だったからそれが都合がよかったのか悪かったのか、たまに廊下ですれ違うくらい。一人でいるとマコに声をかけられると思った。だから、別の友達といつも一緒にいるようにした。野球をしない友達が増えて、俺も野球をやめた。
 もう中学最後の夏がやって来ようとしている。
 ひどく日差しの強い日には、今でもあのときのことを考える。
 楽しかった思い出を後悔で塗りつぶしたのは自分。
 俺はどうしたって、あの日をやりなおすことができない。
 返さなかったハンカチが、今でも俺の裏切りの証拠として、ユニフォームと一緒にクローゼットに眠っている。
 
 
-了-
 
 
(※三語即興文投稿作品:【ハンカチ】【はにかみ】【王子】「“野球ネタ”か“ゴルフネタ”で、但しバッドエンドな話」)

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2007.11.14

『私たちの舟』(六枚)

 透過性カーボナイトというもので固めてあるらしい。
 全長が3メートルもある透明なガラスの文鎮に見えるが、それはイルカの標本なのだった。よくデパートや屋台で見かける、小さなプラスチックの人形の模型の入ったガラス細工にそれはよく似ていた。大きすぎるサイズをのぞけば。
 そのイルカ標本が、学生や教授たちに今日、お披露目された。
 場所は大学の学生食堂だ。味も素っ気もないあったものではないだけれど、こんなに大きな標本を置ける場所がほかになかったのだ。
 制作者は田之口教授。三年前のノーベル化学賞受賞者だ。このほど北極圏でこのような標本を大小合わせて千近くも作ったらしい。
「新しい博物館を創ろう」
 田之口教授がここ数年、唱え続けている標語だ。学生集めに余念がない大学側も大々的にこのフレーズをパンフレットに使っている。おかげで私が入学した二年前には、倍率も偏差値も跳ね上がった。
 まったくあきれる。
 誰も彼もが、ずっと前から田之口教授のことが大好きだったと言わんばかり。

――田之口稔は十年以上前から、この三途沢舳那(さんずさわゆうな)の恋人に決まっているのだ。

 叔父に対する子どもじみた独占欲に過ぎないとわかっている。来月のクリスマスに二十歳になるというのに私はそれを捨てられない。むしろ居心地よくさえ思っている。
 友だちに言うと「倍以上も年が離れているのに、正気?」とか「初恋はえてして身近な大人にするものよね。ありがち」とか言われる。年齢が倍になったのは、この前まで3倍だったのよりはずっとマシだし、ありがちな恋だったら理解が得られやすくて説明も手っ取り早いではないか。いいことだらけだ。
 稔オジサンが、院生たちだけ連れて世界の各地に出かけてしまうのだけは、我慢するのがたいへんだけれど。それに比べたら、ちやほやされている稔叔父貴を目の前で見るのなんて、何でもない。だいたい、手を伸ばせば触れられる。声を出せば届く距離なのだ。私に何の不満があるだろう。
 見事なイルカの標本だと、学生たちは口々に褒めそやした。
 北極圏から帰ったばかりの教授の無事を祝う、学内の小さなパーティは、奇妙なバランスで笑顔の均衡が成り立っていた。イルカが存在感を主張しすぎるサイズだからだ。
「けれど、悪趣味だね」
 私の口が毒づく。
「教授に聞こえるわよ」
 と周りが小声で咎めたけれど、私は言うのだ。この日のために用意した言葉なのだから。
「死んでいないから、悪趣味だわ」
 さすがに気づいて、田之口教授は私の方に歩み寄ってきた。学部長と私の担当教官も引き連れていたのは、少し気圧された。けれど、もう言葉は喉にひっこまない。ひっこめる気もない。
「三途沢くん」
 と、いつもと調子の変わらない授業の時の声で稔オジサンが言った。
「どうして死んでいないと気づいた?」
 その言葉に、あたりの雑音が波紋を描くように無音に駆逐されていった。
「見る者の問題です。私はどうしたって、このフォルム、鰭(ヒレ)の形から、この生き物が水の中を自由に泳ぎ回ったことを考えます。それが今は一滴の水も与えられていないことを知りながら。殺されたと認識できないほど生々しいなら、見る者にとっては生きているイルカを飾っているのに等しい行為です」
 しかし、私は自分でも認識していない事実を指摘していた。
 彼は私の言葉を継いだ。
「そのとおりだ。私は生を保存するためにイルカをこの中に封じた。それどころか、文字通り、このイルカは生きている。正確には、いつでも特別な装置なしに、生きた状態に戻すことができる。元通りに呼吸し、心臓が動く状態になる。生きた状態に限りなく近いまま、保存できるんだ。半永久にね。正式には明日公表するのだが――」
 と一度言葉を切り、彼は言った。
「いずれ、私が集めた生物入りのカーボナイトは、宇宙船になる」
 宇宙船に積み込むのではなく、宇宙船の構造体として使われるのだと彼は説明した。ノアの箱舟は、生物を乗せるのではなく、生物によって造られるのだと。数秒の間のあと、学生食堂にどよめきが広がった。

「それなら、むしろあのイルカは死んでいるのだわ」
 パーティがお開きになった夜、キャンパスの芝生に座って二人で星空を見上げながら、私は稔にそう言ったのだ。
――もうイルカの生きた海に戻ることはないのだもの。いつか標本から解き放たれたとき、海と切り離された死という生を生きるほかはないのだもの。
「そうだね」
 夜空に白い息を吐き、私の想い人は落ち着いた口調で答える。もうきっと何万べんも、私が言ったようなことは考えたのに違いない。私はこっそり吐息を彼のそれに重ねてみる。
「私は進んで、この中に入りたいと思います。――時が来たら」
 ヒトだけが例外であっていいはずがない。それに、もう稔は私を選んでいるのだと知っていた。
 稔も、私が彼に選ばれたことを知っていると知っていたに違いない。
 だから異議は挙がらなかった。
 私が得たのは、頬に大きな彼の手。覚えていたはずなのに、それでも手首が少し寒そうにのぞく、私の編んだ手袋越しのあったかい両手。
「俺も宇宙船に乗るから。必ず」

 私の体は宇宙船に積み込まれるだろう。まるでコハクに封じ込められた古代のハチのように。ずっと長く生きるだろう。
 寂しくはない。
 同朋のヒトたちが全員死に絶えたとしても、私は生きつづけるのだから。
 何万年か、何億年かして、私の姿を見つけた生命体の脳裏にはっきりと、私の生きる姿が映るのだから。
 そうしていつか、死ぬべき時が来たら。
 棺の中から出た私は死ぬだろう。
 微笑みながら、この魂を抱えたまま死ぬだろう。

 叔父の吐息よりいくぶんか高く上がって、私の白い命の証は溶け消えた。


 -了-


(※三語即興文投稿作品 【北極圏】【異議】【魂】 課題:ハッピーエンドで)

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2007.09.26

『ススキの子』(五枚)

 ススキを挿す花瓶もないことに、玄関のドアを閉めてから気づいた。
「オレの柄にもないことをするからなあ……」
 一人暮らしのアパートでつぶやく。足だけで靴を引っかけて脱ぐ。物の少ない部屋に折りたたみ卓がある。昔ならちゃぶ台と呼んだだろう。灰皿以外は何も乗っていないその上にススキを置く。三つの房が、卓の上でふわりと広がった。
 その隣りにコンビニの袋に入ったままの缶ビールをゴトリと置いて、
「団子も買ってくりゃよかった」
 どうにも、情緒というものに縁がない。
 窓の重いサッシをガラゴロ開けて夜の空気を取り込む。きれいな満月が町並みの上に出ていた。
 敷きっぱなしの薄布団にごろり。
 ススキも、少しも華やかさのない我が家に彩りを添えられればと思って、散歩がてら川原で折り取ってきたのだったが。

 来月、私には息子ができる。

 なにやら実感に乏しい。予定では、親になる予定のあくる日が、私の四十歳の誕生日である。家族のない生活は長かった。四十年の歳月のうち三十年。家族を持たないのが私には当たり前になっていた。
 母の記憶はまだ残っている。母は私生児として私を産み、私の父親以外と二度結婚して二度とも一年以内に離婚した。二人きりになってからパートと内職を掛け持ちした歳月を過ごすうち、原付バイクであっけなく事故死した。死ぬまで幸薄い人だった。
 母の人生の幕切れを見ていたからだろうか。私は恋に身を任せることが怖かった。興味も持たないようにしてきた。
 だが、一年前の出会いで、私の人生は変わった。
 久美は小学校の同級生だった。奇しくも、私が母を亡くしたときを彼女は知っていたことになる。飲み屋で出会って、しばらくは古い知り合いだとも気づかず、下らない世間話をして意気投合した。
 飲み屋で何度か顔を合わせ、その後やっと日中に会うようになった二度目に、気づいた。
 そのきっかけは、ささいな思い出話だった。
 小学校の頃、ウサギの脱走という事件があった。そのことをクラスで国語の作文に書いたのだ。私は「月に帰ったピョコンタ」という物語を書き、原稿用紙二十枚という大作に仕上げた。書いていくうちにそんなに長くなってしまった。担任にも誉められた。クラスで朗読したらみんなに喜ばれた。
 それを久美が覚えていた。最初から二十枚分の物語を全部すっかり語って聞かせてくれた。私は途中で気づいたのだが、それでも久美の話を中断するのが惜しくて、最後まで聞いてから、告白した。それは自分だと。
「佐藤さんと佐藤くん、そっか苗字が同じだったから思い出したのかもね」
 そこまで思い出していながら、当の本人だとは疑いもしないのだから、笑い話だ、と私は内心思った。
「でも、佐藤くん、飲み屋で会ったとき、同い年だとは思わなかった! 十コくらい上だと思ってた」
 もっと上手に言い訳すればいいものを、たしかにオレは老けてるよ、と私が笑うと、久美も笑った。
「佐藤くんだって気づかなかったくせに」
「オレが老けてるとするなら、君は年を取らなさすぎるよ」
 と答えると、お世辞なんか似合わないわよと言いつつ、笑顔は隠さなかった。

 来月、その久美と籍を入れる。
 酔った目で見る月は揺れて見える。ぴょこ、ぴょこと、月のウサギも跳ねる。跳ねたと思えば餅もつく。逃げたピョコンタは学校を脱走して月にはゆかなかったかもしれないが、ススキの野原くらいまではたどり着けただろうか。
 ビールの空き缶に、短くしたススキを挿した。穂がきれいに立った。なかなか悪くない。
 そのとき、ドアがノックされた。
 おかしいな、ドアチャイムがあるのに。
 そう思ったが、すぐに理由がわかった。

――リリ、リリリーン

 スズムシだ。誰かがスズムシを持ってドアの外にいる。
 たしかに、呼び鈴を鳴らしてはスズムシを聞くのに無粋だろう。秋のスズムシ、これが情緒というものかな。などと思って、のんびり聞き惚れている場合ではないと気づいて慌ててドアに向かった。
「こんばんは、孝義くん」
「こんばんは、佐藤さん」
 久美と、息子の拓朗だった。久美は、何かを入れたお重を抱え、琢郎は、スズムシを数匹入れた虫籠を提げていた。
 笑顔で招き入れると、部屋のススキを素早く目に留めた久美が、
「まあ、ちょうどいい。お月見にススキなんて、孝義さん、グッドタイミング」と言う。
 私は拓朗が差し出すスズムシの籠を受け取りながら、
「う、うん。偶然だけど、さ」
 としどろもどろになるばかりだった。
 久美がお重の包みをほどき、三色の団子がお目見えした。

 拓朗がきちんと靴を揃えて部屋に上がり、窓辺に体育座りする。いつのまにか私が挿したススキを取ったらしい。金の粉のような房が生えたビール缶を両手で膝に乗せている。
 その背中を見て、久美と私は目配せして微笑みあう。
 来月に私の息子になる拓朗。
 彼にもまた、生まれたときから父親がいない。
 家族として暮らすはじめての父親ができる。
 もちろん、私にとっても。
 私たちはいい家族になる。
 
 満月は、これからまだ高くなりそうだった。


-了-

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2007.09.24

『初夏の日のシッポと(十三枚)』

「あっはははは! 一匹も捕まえられないのかよ」
 日に焼けて小麦の穂先みたいにちりちりになった、少し長めの髪をゆらしてショウキチは笑った。
「うっさいな。東京の人間はトカゲなんか捕らないんだよ。
 みんな野球するんだ」
 僕はふてくされた風を装って言う。
 ショウキチは連休明けに福島から転入してきたのだった。その二日目、同じ班になった僕たち四人を連れて学校の裏山にある墓地にやってきた。トカゲ捕りに連れてってやる、と言って。
 ショウキチはたしかにうまかった。裏山に着いて十分もしないうちに、トカゲが三匹も虫かごに入った。僕のほうは残りの三人がいなくなった入り口のあたりでうろうろしていた。そこを戻ってきたショウキチに見つかったのだ。
 トカゲを捕まえられないのを笑われて、思わず言い返した。それからすぐ後悔した。
 僕はほんとうは、捕まえ方をやさしく教えてほしかった。簡単にトカゲを捕まえて、それから野球に夢中になっているクラスの男子に自慢してみたかった。野球の話をされたら、こっちのほうがすげえだろ、野球よりおもしろいこと、いっぱいあるんだぜ、って言ったりしてみたかった。
 それなのに僕は東京の人間は野球するんだなんて言った。
 ほんとうは、野球なんて大嫌いだった。
「東京の人間は……? ばぁーか。オレ、転校ばっかしてるけど、いちばん長く住んでるのは東京なんだぜ」
 プラスチックの虫かごにトカゲをぽいっと放り込んでショウキチが言った。
「……」
 何も言えなくなった。あ、やばい。まぶたの裏が熱くなりそうだ。
「なあなあ、見ろよ。レンズを通すとでかく見えるぜ。トカゲの顔もかわいいもんだろー」
 ぜんぜん僕の様子になんか気づかないショウキチが、僕の頭をぐいっと手で掴んで虫かごに押しつけた。プラスチックのひごでできた虫かごは、取り出し口のところだけ直径十センチくらいのレンズになっている。そこから覗くと中の生き物が拡大されてよく見えるという仕組みだ。
 僕は動揺を悟られるのが嫌で、一心に覗き込む振りをした。
 ん、でもよく見るとたしかにトカゲの顔も、黒い目がくりくりしてかわいいもんだな……。
 茶色の背中に、黄色みのある白い腹。こいつらはカナヘビという種類のトカゲだ。足をふんばって、顔を斜め上に向けている。口は切れ上がってちょっと笑っているみたいにも見える。喉が小刻みにひくひくと動いている。呼吸しているのだった。目の前でトカゲは生きていて、曲尺みたいな四肢にも、でこぼこの丘陵になった背中にも、見えないけど腹にある小さな心臓にも、トカゲの神経が通じていて、ひとつの命の形を成している。
「おっ、なあ、おい、フミキ」
 耳を引っ張られた。こいつってほんとうに東京が長いの? この乱暴者が?
「フミキじゃない、フミノリ!」
「ばか、でかい声出すなよ。トカゲ、そっちにいるよ」
「え」
 指さす先には一見、何もいないように見えた。けれど、卒塔婆の影のすぐ脇のところ、枯れ草とほとんど違わない色のトカゲが、一瞬身じろぎをしたおかげで僕にも見つかった。
「いた……」
「今度はお前に捕まえさせてやる。いいか、音立てるなよ。ここはコンクリの上の玉石を踏むと音が出やすいんだ。学校のほうから郵便屋のバイクが近づいてきてるだろ。あれが通ったらそのとき素早くいけ。トカゲも気づきにくい」
 僕に頬をくっつけてアドバイスするショウキチは、草いきれが染みついていた。初夏の匂い。これ、福島の匂いじゃなくて、東京の匂いなんだな。
 汗の生臭さが草いきれに混じる。
 一瞬、なんだかショウキチがずっと前から知っている友だちのような気がした。
「うん」
 僕が短く答える。くっつけた頬を伝わってショウキチの唇が笑いの形になったのがわかった。
 バリバリバリバリ……近づくバイクの音。赤いバイクに黒い箱。ヘルメットが光る。
 僕の手がトカゲの背中を狙う。ここだ。捕まえろ。
 ……。
 何の感触もないと思った。
 だって、トカゲが、僕やさっきくっついていたショウキチの体と同じようにあったかいなんて、思わなかったから。もっと冷たくて、もしかしたらぬるっとか、ガサっとかしていると思っていた。だから、何も掴めなかったと思ったんだ。
「おい、やったぞ。ノリ!」
 他人の名前を勝手に短縮して、でも間違えたところは一応修正したということだけは主張した形にして(その後ずっと僕の名前を彼はノリと呼んだ。フミノリだっての)、ショウキチが言った。「入れろ入れろ」と虫かごを出す。
 僕は自分がトカゲを捕まえたとはまだ信じられなかった。だから両手を固めてグーにしても、隙間を完全になくしてはいなかったのかもしれない。
 削った鉛筆の先みたいなトカゲの茶色い頭が、左手の親指と人差し指のつけ根からにゅっとのぞいた。「あっ」と慌てて力を入れたけど、遅かった。
 つるつるっと、僕の獲物は体をくねらせて地面に落ち、草むらに走って消えた。
 しゃがんだ僕の手の中に、シッポが残った。
 身を大きくくねらせてシッポは跳ねた。両手で救うような形を作った。それでも跳ねて飛び出そうとした。それから、動きは弱くなり、止まった。
「ノリ、惜しかったな」
 ショウキチが僕の肩を叩いた。
 ポンポンと肩胛骨に触れるのは、あったかい手のひらだった。
 さっきより熱いものがやってくるのが早かった。抑えるのに失敗しそうだ、と思ったらもうその時には間に合わなかった。ちくしょう。
 黙って涙をこぼし始めた僕の肩に、ショウキチの手は乗ったままだった。
 僕の嗚咽は一分くらいで終わったと思うけど、それからさらに少し待って、ショウキチが声をかけてきた。僕はかぶりを振る。自分でも何が悲しかったのかわからないから、そうするしかなかった。
「ノリは、筋がいいよ。オレが教えたら、イッパツでトカゲを抑えただろ。あとは虫かごに入れるだけだったんだ。次はうまくいくよ。またオレが教えてやる」
 僕は首を強く振った。
「ごめん……そうじゃないんだ。ありがと、ショウキチくん」
「呼び捨てでいいよ。くん付けじゃ気持ち悪い。で、何だ。あー……。じゃあ、何がそんなに悲しいわけ? 言ってみ? オレじゃ力にならないかもしれないけど……ノリが思うこと、言っていいよ」
 僕はそのときやっと、自分の両手に気がついた。涙でぼやけた視界の中から、次第にピントが合う世界で最初にそれが見えたのだった。
「シッポ……」
「うん、シッポか。トカゲは自分が死ぬのを避けるために、シッポを切り離して逃げるんだ」
 ショウキチの返事に、僕はまた首を横に振った。違う。
 トカゲを生かすために、シッポは死んでしまった。トカゲとシッポは一緒に生きてきたのに、僕が殺した。うまく捕まえるか、逃がすかしていたら、死ななくてすんだ。
 それをうまく回らない舌で伝えた。
「先生が、生き物はみんな細胞からできてるって……ひっく、細胞一個一個がみんな生きてるって……」
 そのとき、班のほかの子がショウキチを呼ぶ声がした。ショウキチは自分の虫かごを置いてそちらに行ったらしい。いつのまにか戻ってきて、なんでもない風に言う。
「ほかの子たち、帰ったよ。ノリはオレんちに寄ってから帰るって言っておいた」
 きっと僕はすぐに泣く男だと思われているに違いない。
「なあ、ノリ。気にするなよ……」
 ショウキチが僕の正面にしゃがみこむ。ちょっとがに股に開いた膝に自分の肘を乗せて、口をヘの字にしたり、急にMの字に変形させたり。僕を笑わせようとしているのか?
「無理だよ」
 また、僕は意地を張っている。もう自分でも何が悲しいのかわからなかった。
 僕はたどたどしく、授業で習った言葉を繰り返した。でもほんとうはどうしてシッポの死がそんなにショックだったのか、自分でも説明することはできないのだった。言葉は堂々巡りになるばかりで、僕は目の前にいる友だちに対するすまないという気持ちの行き場にだって困って、困り果ててますます体が硬直した。
「シッポは、死んでなんかいない」
 急にかわった口調に驚いた。ショウキチの顔を見ると、褐色の眉毛がぐっ、とせり寄って、目の中には何か熱がこもっているように見えた。込められたのはたぶん、僕にこれから浴びせようとする、強い意志。
「こうすれば、生きる。オレが今からお前の殺したシッポだ」
 ショウキチは、がばっと僕の両手をすくい上げ、一気に自分の口に持っていった。固い歯が僕の手のひらから命の残骸をこそげとった。僕はあっけにとられて何もできなかった。何も言葉が出なかった。息もするのを忘れて彼の行動を見ていた。
 ショウキチは、顔を太陽にさらして目を細める。動かない。裏山を渡ってきた風にゆれた草が、ざっと色めき立つ。日の光に彼の鼻の先と唇が白く光った。
 洗いざらした木綿のシャツの下で、ショウキチの肩と胸の筋肉がおもむろに張りつめてくる。
 僕の止まった涙の名残の鼻水をすする音が、彼との間を埋めた時。
 一瞬、彼の手がぱっと勢いよく開き、すぼんで固くなった。
 顎と喉が同時に動いた。
――飲み込んだ。
 トカゲのシッポは、ショウキチになった。
 彼は照れたような顔をしていた。細い鼻梁を浅黒い指がぽりぽり掻く。
 僕は自分が笑顔になっているのに気づいた。
 ショウキチはひとつうなずいて、向こうへ駆け出す。
 白いコンクリの隙間から生い茂った草の葉ごしに、小さくなった彼がおいでおいでをしている。 
 初夏の日差しが、その光景を僕の目の奥に焼き付ける――


-了-


(※フミノリ、ショウキチらは小学六年生。時代は昭和四十年)

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2007.09.09

『わたしたちの終わらない熱血時代』(三枚)

 運動会の前日にわくわくして寝付けないなんて、小学生だけだと思われているだろうけど。そういうのはもっぱら男子専用の属性だと信じられているだろうけど。
 私のようにとっくに小学校を卒業した女子の中にだって、血が騒ぐヤツはいるのだ。
 どきどき、そわそわ。
 高校の体育祭は、小学校なんかとはワケが違う。
 クラス対抗の完全得点制。
 いうなれば、サバイバル。生き残らなければ、死あるのみ。
 前の晩? もち、眠れるもんですか。
 プログラムひとつひとつ(暗記してある!)を思い浮かべ、そこで配置されたクラスの人員が勝てるかどうか、脳内シミュレーションをする。最後の閉会式までひととおり終わったら、またもう一度おさらい。テストでも体育祭でも、見直しは大事だからね。

 翌朝、セーラー服を着たままの格好で布団から跳ね起き、
「ギャー寝坊したーっ!」

 という夢まで見た。
 眠気なんてまったく感じない、ビンビンに覚醒した目で私はクラスを仕切っていく。
「弁当屋からお昼が届いたよー」
「オラ男子、残さないで食え。スタミナもたないと負けるだろ!」
 あっという間に最後の競技だ。
「次もうリレー!?」
 そんなとき、トラブルというのはきまって起こる。
「みんなたいへんだ、ケイコが足首をひねった」
 かすれかけた声で男子が伝えにきた。
 ケイコはクラス一の俊足だ。今、我がクラスはぎりぎりトップ。しかしケイコなしでは女子リレーには負けるかもしれない。そうなると逆転の可能性がある。
 私の血はこのとき最大に燃えた。思わず叫んでいた。
「仕方がない。私みずからがリレーに出る!」
 観戦席から力強く立ち上がり、歩み始めた私を、クラスの者どもが引き留めた。
 なんで邪魔するのよ。
 このままじゃ、負けてしまうじゃない。
 それじゃ、みじめじゃない。
「先生。……先生は出場できませんから」
 クラス委員の古藤が私の目の前に手のひらを突きつけて言った。憎らしいほど冷静な彼の声。
 く、視界を塞がれると止まってしまうのは悔しいけどこれ、本能なのよね。
 私の両肩に手を置いて私を座らせた古藤は、冷静な声のまま、言った。
 心持ち視線を見上げる風にして。
 彼の後ろには青空に浮かぶひこうき雲。
「僕が女子リレーに出ます」
 言うが早いか、制服の上と下とを脱ぎ始めた。お前、体育10のくせに「僕が出るまでもないでしょう」とか言ってこの日も学ラン姿で来ていたと思ったら、下に運動着を用意してたのか。燃え燃えだったのか!
「やるじゃないか、古藤!」
「それほどでも」
 でも、あっという間にクラス全員に襲いかかられて実力で止められた。ああ、さっき私はそれなりに遠慮されていたんだなと、ボロボロになった古藤を見て思った。哀れ。合掌。

 ――体育祭は、魔物だ。
 
 無事に優勝したものの、それ以来、この学年には卒業するまでこんな言葉がささやかれ続けることになったのだった。


 -了-
 
 
(※三語即興文投稿作品【運動会・弁当屋・ひこうき雲】)
 

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2007.06.19

蟷螂の小斧とネコのあくびと

 梅雨入りしたのに、晴れた日が続きますね。
 せっかくなので、表通りから一本入った路地を散歩してきました。

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 民家の庭先の生け垣に、緑色の小さな存在を見つけました。
 じっと動かずに葉の上で陣取っている……カマキリの幼虫でした。
 小さな頭に、小さな斧。
 動かない姿勢の中にも、一瞬を狙う鋭さを感じます。
 生まれて脱皮をするともう、本能で狩りをするのですね。

 本能というのは、生まれたときにはすでに持っている記憶なのかもしれません。
 そして死ぬまで忘れない。
 自分の存在の拠り所のひとつとして、私たちを支えている気がします。

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 私が通った道は、ネコの散歩道になっているようでした。
 ごめんね。先に通ってしまったから、君がいつもの道を歩きづらいんだね。

 ぼくは少し道のわきの木陰に身を置いて、関心のないふりをする。

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 あれ、もう一匹いました。
 相談しています。
「あの人間、ちょっと邪魔だよね」
「そうだよね」
「でも興味あるよね」
「やめときなよ」
「うんニャ、偵察してみるのだ」

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 こちらが関心のない振りをして見ていると、向こうも関心がない振り。
 ぜんぜん気づかれてないよ!
 ネコのことなんか、人間は見てないよ!
 いつもの場所でくつろぐといいよ~。

 ネコは、ちゃっかり私の周りをくるっと回って足元にやってきます。
 たぶんそれでも、つけ回していない振り~(笑)。

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 接近してしまえば、度胸が据わる!?
 カメラをこんなに近づけても、もう大丈夫。
 でも視線は……たぶんカメラの脇にある、あれかな。
 ぶらーん、ぶらーん。
 ストラップ(笑)。
「気になるよぅ」

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 喉をごろごろ。
 どうやら気を許してくれたようです。
 私の特技は動物に警戒されないことです(笑)。
 警戒されないのをいいことに、触りたい放題しているというつっこみはどうか無しの方向で~(^^;

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 大あくび~。
 アスファルトの曲がり角、風の通り道だったね。
 お気に入りの場所で会えたね。

 眠りの邪魔にならないうちに、さようなら。
 たぶん、会えたことは嬉しいことだった。
 別れ際に思うことは、いつもそのこと。


 

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2007.06.14

『時の終わりには』(二枚)

 洪水により海は溢れた。
 私の大事な生き物のうち、最初の大きな被害者はあの知恵深い鯨であった。
 海と地の境目に乗り上げた哀れな鯨は、天変地異の前になすすべもない。巨体はほとんど何も抵抗できないまま、渦に飲まれた。その渦がしぶきをあげて海よりも深い裂け目へと落ち込んでゆく。
 私は無力だった。
 自らの築いた楽園の崩壊を目の当たりにしながら、文字通り、手をこまねいて見ているほかなかったのだ。私にさえもどうにもならぬ意志存在が、私の楽園を破壊している。次の創造の時まで、私は造物主であることを忘れるほかなかった。そのなぐさめだけが、この惨劇の直視から逃げることのできる場所だった。
 彩り豊かな南国の魚たち、頭足類、それから珊瑚、みな鯨に続いて裂け目に飲まれていった。楽園に注ぎ込まれる水の量は圧倒的で、依怙贔屓とは無縁だったのだ。
 洪水をさらに加速させる大津波が、最後に何もかもを洗い流してしまった。
 磁石つきの魚と小振りの釣り竿、半分破れた掬い網……それから、愛らしいアヒルのガーちゃんに、プラスチックの潜水艦も。
 ああ、破壊の主よ、我が三歳の幼子よ。彼女には入浴さえも安らぎとは対極の獰悪の発露であるらしい。
「隕石!」
 とどめは臀部よりの落下の一撃。
 大きなしぶきが壁になって目の前にそびえたち、一瞬ののち、私の顔面を湯が打つ。
 まったく、辟易だ。
 
 ――あと何年、父親と一緒に入ってくれるだろうか?
 
 散らばった生き物たちをひとつひとつ掬いあげながら、私はふと、世の凡人誰もが思ってきたであろう思いを脳裏によぎらせた。
 小さな痛みも苦い思いも、やがて去る。その時の終わりには、ただただ、何もかもが思い出にすり替わり消えゆくばかりだ。


-了-

(※三語即興文投稿作品「隕石、洪水、逃げる」)

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