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2006.06.06

『アンジールと無花果』(五枚)

 アンジールが運河竣工の祝いの席で踊ることになった。
 若者たちが集う酒場はごったがえしていた。祭典を明日に控え、みな前祝いの気分である。
「やったじゃない、アンジール。踊りの様子はちゃんと粘土板に記録しておくからね」
 ティーンはそう言うと、男のように刈り上げた頭を傾けて、右目をつぶった。笑うと十六歳らしい幼さが顔に出る。彼女も若い職工であるが、新しい碑を作る仕事に一役担っている。
「ダレイオス一世陛下の御前で踊るんだろ? しくじったら縛り首だぞ」
 浅黒い大きな手でアンジールの背中を叩いたのは同い年のフィーゴだった。
『しくじらなかった時こそ、縛り首さ……』
 アンジールは内心の思いを隠し、
「フィーゴの灯台が完成したときにだって、踊ってやるさ。心配すんな」
 と返した。
 できれば本当に、踊ってやりたいと思った。
 アンジールはこの時間がずっと続けばいいのに、と思う。仲間たち、それからたった一人の家族である父のヴァイハと、しんどいけれど道作りの仕事と敷設するため石の切り出しをこなす毎日、ときおり酒場でバカ騒ぎを繰り返す日常――もう何年も繰り返してきたこの生活が終わらなかったら、どんなにいいだろう。
 しかし、太陽はまた昇る。そして時代の終わりを告げる。
 まったくの偶然だが、アンジールは明日、十九歳になる。

 毒蛇使いの二人を手刀で叩き伏せる段になると、群衆から喝采がわいた。
 雲一つない乾ききった空気の海の下、アンジールは二時間も踊り続けている。腕や首筋からは汗が噴いたかと思うと塩の粒に変わる。筋肉が震えて訴えているが、終わりはまだまだ先だ。
 ムスタクバル叙事詩。
 二千五百年におよぶ未来の出来事をすべて記したとされる大叙事詩を、大学者マクタバの要約を元に演舞の形に直し、当代一の吟遊詩人マナールが歌を、そして王城下一の踊り手アンジールが主人公となって踊る。
 アレクサンドリア大図書館を変装で闊歩し、ファロスの大灯台を追っ手から逃れるために駆け上がる。マケドニア、ローマ、ササン朝、ウマイヤ朝、アッバース朝、セルジューク、マルムーク、チムール帝国、オスマン=トルコ――分断され、さまよう民、砂漠に立つ巨大な掘削機械、怪獣レヴィアタンを思わせる鉄の船が多数行き交い、やがて空飛ぶ機械、炸裂する槍が見えてくる。アンジールはつねに戦い、つねに駆け抜けた。
 踊りが終わるとき、ムスタクバル叙事詩はすべての民の記憶となる。
 ムスタクバル叙事詩は現実になる。
 「その時」が来た。
『ええい、汗が拭けない。眼鏡が邪魔なんだ』
 アンジールは何度も目をしばたいた。どんなに激しい踊りでも、日差しでも、疲れることはないが、今は両目にしきりに汗が入ってくる。視界がにじむ。
 居並んだ近衛兵は十二人。その六人目に脚払いをかける。演舞に見とれていたわけではないだろうが、アンジールの素早い動きは目に入っていなかっただろう。鎧が無粋な音を立てて崩れ落ちた。暗殺は成功する。
「大王、覚悟!」
 アンジールは短く叫び、そして見た。
 いつも一緒に飲んで騒いだ仲間、ティーンとフィーゴが両手を広げて立ちはだかっている。そしてその前に飛び出してきたのは……父親のヴァイハ。
「知られて……いたのか……」
 今のアンジールの目に映るのは、瞬間瞬間を切り取った、ひとつづきの静止画の世界。すべてが途切れながらつながって、幕を次々に上げてゆくように、舞台が次々に変わるように、時間は緩慢に進んでゆく。
 ヴァイハが短刀を取り出す。アンジールより三倍も太い毛むくじゃらの腕が暗殺者である息子の三日月刀を払おうとする。アンジールは手首を返す。ヴァイハを斬れば、まだ大王を殺せるとわかっていた。父親のがら空きの首筋を一瞬で薙ぎ、右足か左足でその体を引き倒しながら跳躍する。ティーンとフィーゴは大王もろとも毒の刃で突き殺す。これで終わるとわかっていた。しかし、アンジールは自らの心に負けた。
 毒の刃は、自分自身の腹を刺し貫いていた。
「アンジール!」
 父と友の声が、地面に頭蓋を叩きつける寸前に、耳に届いた……と思った。
 アンジールの意識は一瞬で天上に吸い上げられ、二度と生まれた大地には戻らなかった。

「もう一度生きよ、アンジール。今この出来事がすべて夢に思われるほどの遠きへ。お前の罪は封じられた。ムスタクバル叙事詩の中に、もう一度生きるのだ」
 耳に取り付けた立体小型スピーカーから聞こえるにしては、優しい声だ――
 白くまぶしい光の闇の世界に体を浮かべたまま、アンジールはぼんやりと考えていた。

 気がつくと、電源をコードごと引き抜いていた。
 接続されていた外部端末がオフラインの表示を点滅させている。ネットワークに接続されていた時間は……四時間十七分。たったの四時間で、十九年のアンジールの一生が過ぎ去った。
 右手がかすかに、何かの感触を伝えていた。
 そこには一枚の無花果の葉。
 あの時代に王城下に生い茂っていた、みずみずしい実をつける木の名残が残されていた。
 しかし、錯覚に過ぎなかったのだろう、映像はすぐに大気に溶けて消えていった。
 知恵の実の味を思い出そうとして、それも、もう彼は思い出せないでいた。
 
 
-了-


   
(※三語即興文:「無花果」「ダレイオス一世」「眼鏡」/「楽しく」)

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