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2005.03.22

『earthworm』(20050322)

「視神経はたったの百万本しかないんだってね、江西、知ってた?」
 唐突に言われてとまどう。創二は私の顔を見ずに、寝ころんだ病室のベッドから外を見上げていた。
「私の知識にはなかったよ。覚えとく。視神経は百万本」
「たったの百万本、だよ」
 何事にもあっさりした創二がこんな風に言うのは珍しい。私に何かを求めている、たぶん、理解を。私はときどきやってくるこの瞬間が嫌いじゃない。だが、私はいつもこの瞬間が怖い。私が彼を失望させるかもしれないことが怖い。決して表には出さないけど。
「不満なの」
「そう、不満」
 私はふう、と息を吐いた。
「二度見れば? はい、これで二百万本」
 創二が私の目を見た。相変わらず髪も瞳も色素が薄い。創二の生命力の薄さを表しているように思える時がある。まるで落葉したばかりの褐色。
「二人で見ても二百万本だね」
「そうだよ。お前は賢い」
 私よりも賢いお前が私に頼る必要なんてない。そういう意味。創二はわかっているのかいないのか、返事をしないけれど。
 私はわかっている。
 百万本が倍になっても、いや、百万の百万倍になっても、創二の不満は何も変わらないのだということを。
 私は創二を慰めることはできないけど。この部屋に創二を置いて去る前に、言葉を残していくことしかできないけど。
「不満なんだろ。見えないことの方が多い。できないことの方が多い。知らないままのことの方が多い。そういうこと何もかもが」
 沈黙しているのは肯定の意味でいいの?
「それが不満だとしたら、お前の感じる不満は人間全部、いや、生き物全部の不満だな。……私の代わりにお前が感じてくれているって、そんな気がした」
 私が創二のことを理解しているのかどうかも、私には自信がない。
 でもこいつは時々、重すぎる荷物をわざわざ見つけて背負い込んでいるような気がすることがある。
「生きていること自体が余分なことなのかもしれないね、江西。ほんとは、何も知らないっていう状態がいちばん自然なのかもしれない」
 一呼吸する間にも、創二はどんどん行ってしまう。置いていかれることが怖いのか、私は。それとも創二がこの世界の境界線を踏み越えてしまう気がしているのか。
「生きるっていうことは、少しだけ知ることだよ」
 病室にいられる時間はもうない。
 創二は上半身を起こして、今度は窓から地面を見つめた。
「蚯蚓を飼ってみようと思う」
 このとき、私は創二の中に私の言葉が作用したのを知った。
 創二は続けた。
「蚯蚓は俺たちよりも少しだけ知って生きる。自分が飼育されていることは知る必要のないことだから、知らずに生きる」
 ふいになぜか、私の中に創二の淋しさが流れ込んでくるような気がした。
 薄く開いた唇に口づけたいと思った。
 その口が、後ずさりして病室のドアから出る足に促されて言う。
「あんたに戻ってきてほしいと思っているヤツは多いよ」
「クラスの全員かな?」
「ああ、全員だ」
 きっと創二は引き留められてあきらめた旅人の顔をすると思った。
 だから、ドアを閉める時に見えた表情を私は意外に思い、そして長く忘れなかった。
 教室から逃げ出したいと思ったんじゃないかったの?
 創二は、やわらかな笑みを浮かべていた。
 まるで、待っていた言葉をやっと言ってもらえて安心したとでもいうような。
 その印象はきっと私の自意識の過剰が植え付けたものに過ぎないのだろうけれど。
 でも目の前二センチにある閉じたドアから体を引きはがすのにとても手間取ってしまった。


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