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2005.02.18

『指人形の夜』 (五十二枚)

 お気に入りの古い指人形だったが、野に放ってやることにした。
 森がいいと思った。
 春の終わりの今の時期、古い森は陰鬱さをほとんど隠してしまっているだろう。人形たちは好奇心を満たすに違いない。
 孫娘のチェシスカと森に入った。
 小さいチェシスカが迷わないように、不安にならないように、私は節くれ立った手でやわらかで血色のよい手を引いてやった。
 森の中は風の音もない。日もほとんど差さない。湿り気の多い地面を踏んで歩く。ときおりじゅぶじゅぶと落ち葉の隙間からあぶくが立つ。
 聞こえる音は足音のほかには、一族の女が装束につける飾りの金属片がちん、かちゃりと立てる音だけ。伝説では、私たちの先祖はその昔、ひとつがいの鳥だったのだという。。チェシスカと私とひとつずつ身につけたその飾りは冠のような羽毛を頂いたその鳥の形をしている。私たち二人は飾りの鳥たちのおしゃべりに耳を貸さずに歩みを進めた。
 肩から提げた布のかばんを手でなでると、ごつごつとした手触りがあった。指人形たちだ。
 私たち一族は放浪を続けてきた。人形をたくさん連れて。街に立ち寄るたびに細工物や金物修理、そして人形の寸劇で多少の銭を稼ぎ、生活に必要な最低限必要なものだけを買い込む。暖かくなると春を追って北へ、寒くなると秋の風に乗って南へ、旅から旅に暮らしてきた。物心つくと、男も女も木彫りを覚える。指人形も作る。木彫りの胴に、同じように木か、布または固く焼いた粘土で頭を作ってやり、上質の布と糸とで衣装を作ってやる。一年にひとつかふたつ作る。人形に命を分け与えるまじないをするのが習わしで、何年か身につけた衣類の切れ端などを頭に埋め込むか、衣類に縫い込んでおく。ずっと昔には人形だけではなく、さまざまな像を造った。一族総掛かりで人の背丈よりも大きい、神や精霊を象ったものを生み出した。今でもそれら大昔に造られたものたちが、秘密の場所に隠されて眠っている。
 かばんの中に入れてあるのは私がずっと昔に作った指人形たち。悪魔、キツネ、ネズミ、男、女、老夫婦、娘、少年、赤ん坊、骸骨……。ここにあるほかは、みんなもう先に野に放った。今日は私の最後の儀式となる。チェシスカに教えてやる一族の儀式もこれで最後だ。昔ながらの生活に別れを告げて街で暮らす彼女の両親に代わって、私が伝えなければならない。一族の後継者はもう私とこの子しかいないのだから。
 小さなチェシスカの手が、握る私の指先に規則正しい脈動を伝えてきていた。儀式に緊張しているのだろう、脈は少し速い。
 何時間か歩いて、途中でかなり遅い昼食を取った。またさらに歩き、奥まった場所に出る。
 私のほかにはもう誰も知らない、そしてこれからはチェシスカだけが知るようになる場所。
 一本の老いた巨木がたっぷりと空間を占めている。幹は年月の重さで曲がっている。枝葉はまばらになってその上に乗っている。節くれ立った無数の指のような枝の隙間からは薄明かりが差しており、その光が育てたのか、あたりは厚く苔の緑で、またところどころから老木の子孫の若芽が顔を覗かせている。
 じきに、世代は交代するのだろう。
 孫娘と並んで大人の胴より太い根に腰掛ける。森の古老のこぶのように盛り上がった根の蔭から羽虫がいくつか飛び立って、私の頬の横を通り過ぎていった。緑の苔の絨毯が地面を覆っていてあたりは水っぽい匂いに満ちている。
 もうすぐやってくる夜に備えて、チェシスカが手提げカンテラを灯す。ぽっと人工の光が生まれた。火が小さく落ちつくまで、光と熱とが森を驚かせないようにそっと掌で覆って。煤の匂いが一筋、森のそれに混じる。
 この子の母親に乳を含ませたのがまだ昨日のことのように思われる。だが、月日は潮のように遠ざかっていった。我が子の面影を強く残したチェシカに昔の匂いをわずかに感じ取る。
 この子はそういえば先日誕生日を迎えた。八つになったはずだ。肌は私に似ず浅黒い。でもこの年頃は野山を駆け回るからこれが普通だったのかもしれない。眉が濃い目の色でまっすぐに伸びたところは私にそっくりだ。
 時間を計りながら、私は孫娘に話しかける。言葉をつむぐと、世界が急に私たちの元に戻ってくる。
「よいか、チェシスカ。人形は我が魂の分かつ身である。つまり私の命そのものがここに入っている。野に放てば、人形は己だけで生きるだろう。自由に、行きたい場所に赴き、見たい物を眼に映し、やりたいことを為すだろう。時には人に害悪を及ぼすことも、悲しいけれど、ある」
 これから野に放つ指人形だって、もしかしたら悪いものに変わってしまうかもしれないのだ。
 言おうとしたその言葉を私は飲み込んでしまい、声にはならなかった。
「お前の人形も何十年か経ったら、こうして放ってやるとよい。だから、これからする儀式をよく見ておくのだよ」
 語りかけると、いつもの口数の多さはどこへやら、孫娘は黒い瞳をわずかに潤ませて無言で頷いた。
 私たちの祖先は何度も海を渡って今の土地へ来たという。以前は西の方に、さらにその前は南のほうにおり、定住の生活をしていたというが、その頃の記憶はすでに一族に伝わっていない。私の記憶も、チェシスカの子には伝わらないのだろうか。
「私たちの一族は、旅から旅への見世物で糧を得ていたのを知っているね。昔は指人形だけではなくて、たくさんの人形が私たちとともにいたのだよ。大蛾の繭糸を使った操り人形、ネジとゼンマイで動くカラクリ人形、恐ろしい呪いを吹き込まれた人形なんかもあったのさ。世の中が豊かになって、また少し平和にもなったから、それらの人形は隠されて眠っているがね。ともあれ、私たちは人形たちに命を与える力を持っているということ。たったのちっぽけな指人形ひとつでも、変わらない」
 満月が老木の幹に青白い光を投げかけてきた。そろそろ儀式の時だ。
「野に放たれた人形は、長く生きる。いつかは朽ちて死ぬ。それまでは自分の望む姿になって生きる。だから、この儀式は、人形にとっては喜びの儀式さ。私の作った人形たちは、これですべて自由になるのだが、お前にはまだ数多くの人形が残されている。祖先が作った人形たちがね。あれらもいつかは、自由になるのだろう」
 チェシスカが瞬きをした。睫毛がはぜると宵闇に拡大した瞳の奥が月の光を蓄えているのが見える。しっかり理解しているようだ、賢い子だ。
 チェシスカに持たせた赤の布を地面に敷き、そこにもう一枚、緑の布を重ねる。
 私の膝の前に指人形を並べる。
「チェシスカ、歌いなさい。魂の縛鎖を歌声で溶かすのだ」
 私に促されると、森に入って初めて、若い娘が声を発した。唇をわずかにすぼめて出した高い母音は、短く三回続いて途切れ、低い音になって長く続く。鼓動と呼吸のような。誕生と眠りのような、歌。私が母から教わり、今はこの子が受け継ぐ歌だった。
 続いて、私の喉が風の通り道になる。私の命が震えて、大気を満たす。チェシスカの細く延びつつも芯の通った音色と合わさって、ともに古老の枝葉をかすかに揺らしていく。こんな時、老いた木もわずかに生命を取り戻し、葉の縁がほんの少し、うす黄色く伸びるのだ。空に昇っていく音に月の光も震えて霞み、景色のすべてが溶け合って藍色と青と緑の渦になる。渦はゆっくりゆっくり混ぜ合わされてゆき、遠くにある朧な光芒に少しずつその色を同じくしていく。
 森に何百年も棲む黒犬と白梟がこそとも音を立てずに現れて、私たちの目の前で頭を垂れ双眸を伏せた。土の匂いがほんのかすかに立ちこめ、羽虫たちが無数に湧いた。苔の深い懐からも脚の多いの少ないのが這い出でては私の敷いた絨毯の周りに近づいて来、ろくろく物の見えもしない単眼で私たちを見つめた。何重にも物言わぬ虫たちが取り巻く外側の闇の中にも、形のない何かが音もなく蠢いていた。
 黒犬と白梟と虫たちの鼓動が私たちの音色に重なって、命の波動を生み続ける。
 調和をぎりぎり邪魔しない遠くで、何かの獣の不器用な鳴き声がしているようだったが、月が古老のてっぺんを回る頃、それも消えた。一片だけ漂っていた叢雲の名残も、月の波動を浴びてかき消えて、重力さえも私たちの周りからは失せ消えて、私たちの周りには何も残ってはいかなかった。それでいて、とても多くのものが満ちていると感じられた。すべてが溶け合った世界には、何もなかったが、何もかもがあった。
 薄く目を開けてみると、孫娘のほおは少しだけ紅潮し、そして薄く笑みを浮かべた表情をしているのがわかった。どうやらチェシスカはいつの間にか私よりずっと歌えるようになっていたらしい。小さかったはずの孫娘の背が伸びて、胸や腰が丸みを帯びているように見えた。私は安堵という代価を得て、少しずつ、私の中を通り抜ける風を弱めていく。
 歌が終わると、ひんやりした風が私の鼻先をかすめていった。
 森の生き物たちはまためいめいの巣に帰り、私と孫娘だけが古老の根元にいた。
 指人形たちが、起きあがって、私に背を向けていた。チェシスカが息を呑んで見つめているのがわかる。私は、最後の仕上げに言葉を与える。
「さあ、おゆき。好きなものの姿を得て生きてゆけ。これからは、人にも、獣にも、精霊にも、あるいは二目と見られぬ哀れな化け物にもなれる。人に交じることも望むなら、できよう。長きに渡りお前たちを縛った我に報復を望むとすれば、それもよい。だが、もうお前たちは解放された。翼得て大気の精霊と戯れることも、魚となりて深海に夜を求めて眠るも、望みのままぞ。生きよ、命の続くままに」
 人形たちがゆっくりと起きあがり始めていた。
「さあ、おゆき」
 私の最後の言葉で、人形たちは体を傾けて歩き出した。
 指人形として生まれてきたそれらは、自分で動くのは初めてのこと。歩くのはもちろん手足を思うように動かすのさえ不慣れのようだ。時々つまづいたり転んだりしながらも、それらは私の元を離れて行き、またお互いに少しずつ向かう方角を違えながら、青暗い森の奥を目指していく。
 姿が見えなくなる頃には要領を得たのか、跳ねるようにして駆けたのもある。あれは私が若い時分によく使っていた娘の人形だったか。
 案の定、よぼよぼと足取りがおぼつかないのは、年寄りの二つだった。急ぐことはないのだよと心の中で声をかける。それらふたつも、娘の人形にずいぶん遅れて、姿を消した。
 骸骨は長く動かなかったが、歩き出すよりもまず自分の血肉を望んだようだった。ランプの熱と月の明かりをたっぷりと吸って、白い肉を生み出した。元の姿とは想像もつかぬ年頃の娘になると、一度も振り向かずに消えた。その後ろ姿はどことなくチェシスカに似ているようにも思われた。
 キツネは何度か鳴き、自分の声に満足げに喉を鳴らして、走って消える。ネズミはちょろちょろと森の古老の周りを走り回ったあと、どこかの枝を上って枝の間に潜り込んでいった。
 悪魔はぶるぶると体を震わせるとあっという間に大人の胸くらいまでの大きさになり、蛇の尻尾でぴゅんぴゅん風を切って、土星の輪のような大きな目で不思議そうに眺めてから、コウモリの翼をはためかせて飛んだ。悪魔が遠くに去ったあと、静寂を破って小動物の喉を潰したような鳴き声が響いた。悪魔が最初の餌食を見つけ、牙を立てたのだろう。 もしかしたら、あの人形だけは、悪い物になってしまうかもしれない。先ほど人形たちに呼びかけたように、私を恨み、帰ってくるかもしれない。チェシスカにはいたずらに不安を与えたくなかったので言わなかったけれど。
 思うままの姿で去っていった指人形たちを見送る間、私も孫娘も、じっとその場を動かなかった。
「満足したの?」
 最後にチェシスカが私に尋ねた。

 森を二人で抜ける。帰り道の荒れ地はいくぶん風があるようだ。寒くはなく、むしろ暖かかったが、空気は渇いていて、砂の匂いが混じっていた。
 向かう先の遠くを見やると、満月はいっぱいにたまった光の重さに耐えきれず、天の頂きから垂れ下がり始めていた。
 儀式の時から、私には悪い予感があった。
 森を出てからはその感は強く、なんともいえない気配が私たちを窺っているような気がしていた。歩いても歩いてもぬぐえない違和感。
 月を追うように私たち二人は歩く。背中に長い影法師を背負って、砂利道を踏んで。
 しばらく歩いたときのこと。
 チェシスカの身長が私より高くなっていたのに私は気づいた。どうしたことだろう。
 とまどいを覚えた私は振り向いて影法師を見る。ゆっくり揺れる二つの滲みは、先を行くチェシスカのほうが私より頭一つ分ほど高かった。
 小さな子どもだったチェシスカの姿は、私の思い違いだったに違いない。もう孫娘は、立派な一族の女だ。
「疲れたかい」
 尋ねると、娘は首を横に振った。
「そうか、では最後に言っておこう。人形たちを野に放ったあとは注意しなくてはいけないよ」
 このことを言わなくてはいけない時が来たのだ。
 チェシスカが一度私の方を見て、また前を向いた。黙って聞いているので、私は先を続けた。長く歌ったせいで、彼女の喉がどこかを傷めたのでないといいけれど。確認しておきたかったが、今は話をするのが優先だ。三つの丘を越えて私たちの帰る場所に着くまでに、私の知っていることを伝えておきたかった。私たちの住む盆地のテントはたぶん日が昇ったあと見えてくることだろう。
 風は暖かかったが、少し強くなりつつあった。耳を風の子がかすめるとき、ぼおぼおと耳朶をつまんで叫んでゆく。叢雲の影が時折道を無造作に横切る。
 何かが聞き耳をしているような気がして、私は用心深く言葉を次いだ。
「野に放たれた人形たちは、主(あるじ)の元に帰ってくることがある」
 そのとき、ひときわ強い風が通り過ぎていった。冬の冷たさがまだ残っていた。
 唇に寒気を感じる。孫娘と同じ柄の衣装の襟をほおの脇で握りしめた。
「帰ってくるのは決まって、未練が募ってのこと」
 月がさきほどより低くなって、地平線にしなだれかかろうとしていた。風によって舞い上がった砂塵で月は赤かった。
 何か小さな黒い点が、赤い月の中に浮かんでいるように見えた。鳥かもしれない。だが夜明け前に荒れ地を飛ぶ鳥というのは、私の知識にはなかった。森から離れた梟だろうか。もし梟だとしたら、春の森には獲物はいくらでも見つけられるはずなのだが。
「未練とは」
 私は続けた。
「ふと我に返り、主の思うとおりに操られてきた自分の半生にどうしても疑いを持たずにはおられないものが、時にはある。その気持ちが未練となる。いわば、恨みだ。自分を縛り付けた主に対する深い恨みを抱えて、人形は帰ってくる」
 いつしか私たちは歩みを止めていた。私はチェシスカの背中にほとんど隠れるようだった。チェシスカが、私をかばうようにして立っている。たしかに、この子は立派な一族の女だった。私の孫が小さな娘だったのは、ずっと昔のことだったのか。
 混乱した頭を、私は軽く振った。森に入ったのが今日ではなく、ずっと昔だったことのようにも思われた。あるいは夢の中で小さな孫娘を思い描いていただけのようにも思われていた。おそらくは、時間の流れが乱れているのは、私の心の中のことなのだろう。
 孫娘は、束ねた黒髪を少し震わせているようだった。首がさきほどからずっと上向きに据えられている。まるでどこか一点を注視するように。
 鼓動が百を打つくらいの時間が過ぎた。
 チェシスカの背中が言った。
「人形が帰ってくると、どうなるの?」
 いよいよ月の中の黒い影ははっきりと見え始めていた。私たちにまっすぐ近づいてくる。
 チェシスカもとっくに気づいていたらしい。私の行く手をふさぐようにして両腕を広げた。私をかばう形だった。私はそれを押し下げて、彼女に並んだ。
 赤い月の中から、何かの生き物が近づいているのがわかった。蝙蝠の翼を持つ、大きな影だった。羽ばたきはとてもゆっくりとしているように見える。高地に棲まう大鷲のそれのようだ。その黒い影には、四本の脚があった。低く垂れた長い首と、その先にレイヨウの角の生えた獣の頭を持っていた。異形だった。まるでさきほど野に放った悪魔の人形のような。
「人形が帰ってくると、その主だった者は殺される」
 私たちが歩いてきたのは、雨が降ったときに一時的に生まれる沢の跡だった。辺りは赤い砂と石の荒野。月が小石ばかりが目立つ大地を照らしていた。砂と石と岩のほかには、灌木と草がまばらに見えるばかりで何もない。
 私は続けた。
「人形は、自分の命を得ると、姿を自由に変えることもできるのだよ。だから、ただの人間では立ち向かうことはほとんどできない」
 若い娘には酷かもしれないが、私は恐ろしいことも教えなければいけないと考えた。だから話を続けた。
「人形をあまた操ってきた者の中には、猛禽に頭蓋をえぐられて死んだ者もある。狒狒(ヒヒ)に木の上に吊り上げられて落とされ、身を砕かれた者もある」
 チェシスカに怯んだ様子はなかった。口の端を結んで飛来する影を見つめ、私の言葉に耳を澄ませている。
「私も一度、夜中に寝所で首を絞められて死んだ仲間を見た。胸から上の半身にびっしりと鱗の跡が縄目のようについていた。大蛇に似た何者かにも巻き付かれた挙げ句に息絶えたのだ。悶えたまま固まった表情が、長く苦しんだことを見る者に教えていた」
 私と孫娘は、黒い影が私たちを目指しているのを確信していた。そして、やがてそれが私たちの上空で螺旋を描き始めるのを見つめていた。
 私の胸を娘の腕が押さえて、彼女の後ろに押し下げようとしている。私はそれに抗う。チェシスカの汗の蒸気が鼻腔に入った。
「もし、私が化身することができるなら――」
 孫娘は唐突に言った。
「私は、木になりたい。あの森の古老のような」
 黒い獣の羽ばたく音が聞こえていた。もうじき地上に降りてくるだろう。私はそれでも言葉を急がなかった。
「木になって、どうする。千年も万年も生きるかな」
「それもいいよね。でも――いつか、誰かに人形にしてもらいたいの。私が人形を操って生きることができたお返しに、今度は――」
 なんだろう、この胸のざわめきは。私の孫娘の言葉が私の心を揺さぶるのは、どうしてだろう。
 黒い獣がひときわ大きく翼を動かして地に降りた。
 どうと音がして、足下の土が一瞬揺れ、私たちの体を浮かせた。続いて乾いた大地を蹄が叩く。四つの脚をだく足に動かして、獣は自らの重量の釣り合いを取りつつ姿勢を整えた。体毛は狒狒のように長く体の表面を覆っていたが、その毛の覆いの下で筋肉が躍動しているのが見て取れた。成牛の倍の倍はある大きさの獣だった。ほとんど真っ黒な体色だったが、背骨沿いに赤い毛が逆立って生えており、炎のように目立った。頭部は釣り針のように垂れた首の先についているが、爬虫類のそれであり、また飴のような光沢のある黄色い頭髪があった。
 よく見れば見覚えがある姿であるのに、私は気がついた。チェシスカが私より先に口を開いた。
「お前は、精霊……」
「一族の護りの精霊の姿ではないか」
 伝承の中に姿を伝える、護りの精霊だった。毛むくじゃらの恐ろしい容姿だが、言い伝えでは私たちを邪なものから守ると言われている。だが、護りの精霊というものがほんとうに存在しているなどとは、私は聞いたことがなかった。やはり姿形だけを精霊に似せた何かであろうか。
 正体が何であるにせよ、なぜこのような姿で私たちの目の前に現れたのだろう。私にはわからなかった。
 精霊の姿をしたものがとまどう私たち二人を交互に見比べるようにした。それから、口を開いた。人の声、人の言葉だった。それも若い男の。
「儀式を終えたのは知っている。人形たちが万一にもお前たちに害を為してはいけないと思い、この精霊の姿を借りてきたのだよ。すぐに姿を変える」
 一族のこと、儀式のことを知り尽くしているような言葉だった。
 姿を変えるということは、この精霊の正体もまた、人形だということになるのだろうか。だが、先刻野に放った指人形たちとも思われなかった。
 そのあと、優しい声色で付け加えた言葉が私の胸を射抜いた。
「人の姿になるまで待っていてほしい、チョミクよ」
 呼ばれたのは、私の名だった。
 翼を畳むと、精霊は四肢を突っ張って全身を震わせはじめた。似ているわけではないのに、獣のお産を思い出させるように思われた。命が形を変えようとしていることは、たしかに同じだった。
 精霊はぎゅうっと肩をすぼめるようにして、顎を挙げたまましばらく動かなかった。やがて前脚と首がその長さを減らしてゆき、それから全体の大きさが変化し始めた。
 私の足は知らず知らずのうちに前に出ていた。チェシスカがはっと息を呑む気配がした。
 目の前に立っていたのは、一人の青年だった。その衣装はもう数少なくなってしまい、この国では私と孫娘しか身につけていないはずの私の一族のもの。額に巻いた布に差して、後頭部に高く掲げている猛禽の尾羽の房は、一族の中でも勇敢な若者だけが身につけることを許されたものだった。
 その人は、私の夫。それも若い日の、私たちが出会った時の姿。
 夫の指人形のひとつに違いなかった。私に会いに来たのだった。だが、どうしてだろう。指人形が主の前に姿を現すのは未練のためであり、多くは恨みを抱いてのことである。私のところに夫の化身となって現れるのは、不可解な気がした。ただ、今は亡き夫の気持ちが指人形に乗り移って私に会いに来てくれたのだという気もしていた。無事に儀式を終えるように見守りに来てくれたという言葉は、ほんとうのことだと信じたいと思った。
 慎重と言えなくもない歩みで夫の姿をしたものに近づいていく。
「いつか一緒に海を渡りたいと、お前は言っていたね。だから、指人形に魂を宿して、こうして戻ってきた」
 夫の姿をしたものが言った。疑いの気持ちが、陽に当たった霧のように消えていく。
 覚えてくれていたのだ。
「たしかにあなたなのね……」
 私の声はかすれかけていて、自分の耳にさえはっきりと聞こえなかった。だが夫の姿をしたものはしっかりとうなづいた。
 私たちが出会ってすぐの頃に、私は祖先が海を渡りこの土地に来る前に住んでいたという大陸を見てみたいと言ったことがある。夫は、一族の仕事を何もかも終えたら、二人でゆっくりそこを見に行こうと約束してくれた。きっと行こうと。
 たしかに私の夫の魂を宿していると私は信じた。
 振り向いて孫娘に言う。
「チェシスカ、お祖父さんよ。あなたのお祖父さん。会ったことはなかったわね、あなたが生まれてすぐに亡くなったから……」
 チェシスカはゆっくりうなづいた。彼女の目にもうっすらと光るものが見えた。
 夫は何も言わずに目を細めて孫娘を見つめていた。チェシスカも言葉は発しなかった。ただ、朗らかに短く歌った。ほおう、ほう、と。人形を送る歌の一節だった。小さな声だったが、歌は私たちを包み込んだ。
 ありがとう、とだけ私の夫が言った。
 チェシスカの声は少し震えていた。
「お祖父さん、お祖母さん、主の魂が指人形に宿ることもあるの。ほんとうに可愛がった人形にだけ、起こる奇跡なのよ。純粋な願いが、奇跡を呼ぶの。よかったね……」
 私は声が出なかった。夫に向き直って、その両手を取る。木や布でできた人形とは思えない、温かい手。よく覚えている長い指、日に焼けた指先のうす桃色の爪まで、本当に私の夫そのものだった。握る私の手が、あの若い日のそれでないことを残念に思う。
 夫の腕が私の頭をそっと寄せて、胸に抱いた。私の心も歌で満ちあふれた。
 私の心残りだったチェシスカは、もうすっかり一人前の一族の女になった。儀式のすべてを伝えることができた。だから、私の仕事も終わりだ。
 この時、私は警戒心をほとんどなくしていた。あの嫌な気配はなくなったわけではなかったのに。
 警戒を忘れるべきではなかった。
 悪意の主は、別にいたのだ。
 後ろでチェシスカの高い声が挙がった。歌うときとは違う、鋭く高い警戒音に、恐怖の色をにじませた声。柔らかいものが引き倒される音と、装束が地面の石くれに当たる耳障りなじゃらっという音が聞こえた。
 悲鳴混じりに、危ない、という声が私に届く。
 振り向くと、倒れたチェシスカの右足首に細長い橙色の紐が巻き付いていた。何かの生き物の一部だ。
 その紐は節のある金属の筒をつなぎ合わせたようであり、太さは大人の指を四、五本束ねたほどもあった。異様な太さだ。
 チェシスカは体をひねって腰をついた姿勢で抵抗していたが、相当に強い力で引っ張られているらしく、すぐにまたうつぶせに転がされてしまった。手にしていたカンテラがひしゃげて転がる。
 チェシスカが襲われている。おそらくは自然の獣などではない。
 私の脚が孫娘のほうに向かって体を押し出していた。この子だけは、助けなければいけない。恐れは、なかった。あるのは愛しい者の危機だけだ。
 その時、紐の先にあるものが見えた。荒れ地の砂の中に黒光りする人頭大の目玉。それも虫の複眼だ。赤い脚がその下に何本か見え隠れしている。
 大百足。
 私たちの伝承では、一族の祖先の鳥は、大百足によって棲む土地を追われたという。
 不吉の化身は、砂埃を辺りに撒き散らしながらギチギチと大顎を鳴らす。砂に隠れて見えない体はきっと人間の身の丈の何倍もあると思われた。
 今度こそ、先ほど野に放った人形のどれかが戻ってきてしまったのだと私は知った。嫌な気配の正体はこれだったのだ。
「お前、襲うなら私のほうだよ」
 チェシスカの肩を抱くようにしながら、私は大百足に向かって叫ぶ。言葉は、通じないようだ。
「巻き込まれてしまう。逃げて」
 そう言うチェシスカの息は荒い。
 儀式をしたのは私だ、私が孫娘を巻き込んだのだと私は心の中で悔やんだ。
「逃げられるわけがない。大事なチェシスカ」
「もう、私は一人前よ。あなたは、あなたを迎えに来た人と行っていいのよ。海を渡るんでしょう」
 強い力で私たち二人の体が今度は横方向に引っ張られ、今度は私も姿勢を保てずに転がった。お祖母さん、とチェシスカが呼びかけたが、胸を打ってしまい、答えられなかった。
 大百足が大地から這いだしてきた。複眼は磨き上げた石のように黒く、邪悪なものであるのに、ある種の美しさを持っていた。巨大な体が塔のように天を衝いて聳え立つ。大顎と無数の脚が月明かりの元に晒されて、とても赤かった。それが欲している血の色なのだと思った。
 ようやく立ち上がり、私の枯れ木のような腕がチェシスカの体を抱える。大百足の力は強かった。何度か倒され、私たち二人がかりでも引きずられてしまう。転がっていたたくさんの石が腹や膝を容赦なく傷つける。
 私たちの後ろから黒い影が、大百足に飛び込んでいった。
 夫の指人形だ。
 体が少し形を変え始めている。人間から、再び精霊に。
 私たちに近寄ってきた怪物の頭に組み付いた。しかし彼の体はまだほとんどが人の形と大きさのままだった。大百足に力でかなうようには見えなかった。
 夫の姿をしたものの手には鋭く尖った石が握られていた。大百足の複眼の間を何度も殴りつける。叩いたところに火花が散った。ただの虫の殻ではないのだ。私は指人形のいくつかに鉄の芯を入れていたことを思い出す。この怪物の殻は鉄の強さを持っているのに違いない。真っ白になりかけた頭の中で理不尽に悔やんだ。
 大百足は頭を上に下にと振り、大顎を何度もかみ合わて夫の体を捕らえようとしていた。脚の先が鋭い切っ先に触れそうになるたびに、私は悲鳴を飲み込んだ。
 それでも大百足は孫娘と私をまだ放してくれなかった。
 チェシスカが自分の足首を必死に押さえている。そこは血が溜まって膨れあがっていた。赤を通り越してどす黒くなり、肉が皮膚を破ってはぜてしまいそうなほどで、痛ましさに目を背けたくなる。私はチェシスカの前に回り込み虫の触角に爪を立てたが、無駄だった。儀式をしたばかりに孫娘がこのような目に遭っていると思うと悔しかった。だが、まだ私たちは殺されたわけではない。とにかく娘を縛めている橙色の鎖を、どうにかしなければ。
 私は大きく口を開けて噛みついた。
――今、私に鋭い牙があれば。
 噛みついても、怪物は何の痛痒も感じないらしかった。
 もう一度、と私が口を離した時、今までにない強い力で大百足が大きく動いた。
 金属を引っ掻く時によく似た音が荒れ地の冷たい空気を引き裂いた。鼓膜に突き刺さる甲高い嫌な音。
 夫が左目に武器である石を突き立て、切っ先を怪物の眼球に走らせていた。力のあらん限り、引き裂こうとでもするように。手の中の石がぼろぼろと欠けてゆい、大百足の眼球に白い軌跡をいくつも刻む。
 怪物がこのとき初めて苦しみの声を挙げた。頭を振り、大顎の奥にある口からしきりに消化液を吐き散らした。飛沫が飛び、酸の匂いが私たちの体にも遠慮なく降りかかってきた。怪物の胴のあるあたりの地面が大きくせり上がり、その丘がばしんと音を立てて地面を叩いた。大きな体がのたうっているのだった。
 私とチェシスカは地面に投げ出された。
 距離を置いて初めて、怪物の巨大さが見て取れた。
 頭も胴も、平たい角張った節になっている。ひとつひとつが私の両手を広げたほどもの幅を持っているように思われた。それが幾十も連なって、ものすごい長さになっている。おそらく森の古老のてっぺんから根元までをぐるぐる巻きにできるだろう。
「逃げろ」
 組み付いたまま夫が叫んだ。変化が進み、体中が真っ黒な毛で覆われ始めている。腕と脚に筋肉の瘤が盛り上がる。
 大百足の頭を力ずくで押さえ込もうとしていた。
 頭に硬質の角が生え、天を突き刺す二本の槍のように見えた。
 顔もすでに人のそれではない。ただ、額に巻き付けた布と、そこに挟み込んだ一族の男の証である猛禽の尾羽が、人の姿だった面影をわずかにとどめていた。
「お祖母さん、私、助けを呼ぶ」
 かすれた声でチェシスカが言った。
「駄目だ、お前は逃げなさい」
「あいつはどこまでも追ってくる。姿を変えて、隙を突いて襲ってくるの。逃げられないわ。かわいそうだけど、ここで命を絶たないと」
 私は言葉を継ぐことができなかった。
「大丈夫。私はお祖母さんが思っているより、少しだけ多くの味方がいるの」
 砂まみれになった顔で薄く笑顔を作るチェシスカ。
「だが味方と言ったって、このあたりには集落の一つもないのだよ」
「遠くにいるわ……だから、間に合わないかもしれないけれど」
 チェシスカの顔が月明かりの影になって、表情はうかがえなかった。
 何かが砕ける嫌な音が、私たちの会話を断ち切った。
 木を束ねてぼきぼきと折るような音。見ると、精霊の姿に変わった私の夫が大百足に組み敷かれていた。怪物の大顎についに捕まってしまったのだ。手足を大きく動かして暴れるが、精霊の力でも大百足の無数の脚はびくともしないようだった。
 空気に血の臭いが混じる。指人形も、生き物の姿をしている間に死に至る傷を負えば死ぬのだ。生きているということは、いつかは死ぬことと同じ、だから、長く長く生きる人形だって、死んで物言わぬ土塊に帰る。それは自然の流れのはずだった。けれど、あの精霊の姿をしたものは、私の夫なのだ。
 私はもう満足に立ち上がることができなかった。腕で半ば体の重みを支えるようにして腰から先に姿勢を起こす。
 立ち上がったとき、無意識に両手に砂を掴んでいた。
 怪物に走り寄って、それをぶつけた。夫の姿だったものは、動くのをやめていた。だが手遅れだとは思いたくなかった。
 何度も何度も砂と小石の混じったものをすくい上げ、目玉と大顎に向けて投げつける。そんなことでこの怪物を殺すことなどできはしない。しかし、私にできることはそれだけだった。
 怪物は尻尾――それを尻尾と呼んでいいものかはわからないが、胴の後ろ半分――を精霊に叩きつけ始めた。精霊の体が潰れ、形が崩れていく。
 私は落ちていた長い木ぎれを両手でつかんで虫の頭の後ろ、首のあたりにそれを突き立てた。だがあっさりと私の武器は折れた。
 私はつんのめって怪物の眼前に体を晒してしまう。赤い大顎が、視界いっぱいに広がって見えた。
 大百足の湿った消化液が湯気のように吹き上がった。駄目だ、食われる――
「お前の主はここにいるぞ、人形」
 私があきらめかけたその時、チェシスカの声が聞こえた。少し距離があってよく見えなかったが、小高くなった岩場に両足を開いて立ち、両腕を前に突き出していた。
 そして、彼女の手首からは、何かの液体が滴り落ちていた。
「お前の欲する血は、その者ではないだろう。私の血を奪いに来い」
 チェシスカは自らの体を傷つけたのだ。自らの血で大百足を誘うつもりなのだった。
 怪物の反応は早かった。
 驚くほど素早い動きで私の脇を重量の塊が走り抜けていく。何かの機械のような規則的な動きの脚が黒光りする胴を運んでいった。荒れ地が無数の刃に突き刺され傷つけられて砂塵を吹いた。
 私はさきほどまで夫の姿だったものに駆け寄った。手足が折れ曲げられ、何度も尻尾に叩き伏せられて無惨な形にされていた。力に満ちあふれていた肉体は、壊れた細工物のようだ。違うのは、ひどい血の臭いが鼻腔に突き刺さってくること。この指人形の化身は、もう命が尽き果てようとしている。
 とても動きそうになかったはずの口元が、言葉のようなものを発した。
「行かせない」
 ほんの一瞬だけ筋肉がぶるんと震えてその体を動かし、折れたはずの骨格がそれを支えた。私の目の前で、精霊は立ち上がった。
 精霊が人間の腕に似た形の前脚で、大百足の尻尾を捕まえた。振りかぶり、全身の力を込めて大地に叩きつけた。大きな体の重量をすべて乗せると、硬い怪物の体はびいんと伸びて均衡を失った。しかし勢いは完全にはなくならず、恐ろしい地響きを立てて辺りの砂や土をはじき飛ばす。チェシスカの立つ場所の手前の岩がたくさん出ているところで地に伏した。
 怪物は恐ろしい摩擦音を発した。娘の血の匂いで興奮し、さらにそれを無理矢理に止められたための不満の声だろうか。激しく上下に体を揺する。足下の地面が大きく震え、私の中に恐怖心が甦った。
 怪物は攻撃の矛先を再び変えた。
 精霊に向かって伸びきった体が弧を描いて回り、襲いかかる。
 尻尾を今や後ろ足で踏みつけていた精霊は、大百足の攻撃を受け止めようとしているように見えた。両腕は尻尾を放し、高く掲げられていた。
 ただ、私の目には、力の差は歴然としているように思われた。精霊は大百足の大顎で容易に背骨を砕かれてしまうだろう。その光景を私は見たくなかった。
 ぶつかり合う刹那、少し、精霊が体を捻るのが見えた。
 大百足は胴の真ん中を狙っていたが、そのために狙いはそれた。だが、怪物は獲物を逃さなかった。
 脇腹に赤い大顎の片方が突き刺さるのが見て取れた。深く食い込んだ牙は、精霊の背の側からその切っ先を生やし、それがぐんと伸びて半分ほどが露出した。赤い牙はもっと赤い血の色に染まっていた。
 大百足は自分の尻尾に頭をぶつけるようにして、その勢いで跳ね上がる。精霊の巨体は一度宙に浮いて、それから大地に縫いつけられてしまった。
 その時だった、辺りを炎の明るさが包んだのは。
 精霊の手は落ちていたカンテラを掴んでいた。そして自らの体に火をつけた。
 まるで火種を投げ込まれた油のように、二つの大きな体を火が包み込んでいった。驚くほど大きな炎が立ち上る。怪物の悲鳴が長く聞こえた。
 始め赤と黄色に揺れていた炎は、次第に青白く輝き始める。
 私には生命の力が炎になって吸い出されているように見えた。
 大百足は暴れたが、頭をしっかりと押さえられ、牙を抜いて逃れることができない。
 私は動けなかった。声も発することができなかった。
 二つの命が火の粉となり、ちりぢりになって暗い天に吸い込まれていく。
 何も動くものはなかった。
 まるで呼吸以外のことを忘れたように、私もチェシスカも動けなかった。
 時間が長く過ぎたような気もするし、ほとんど過ぎていないような気もしていたが、炎が小さくなってくる頃、大地に朝日の最初の一筋が差し込んできた。風もほとんど止んでいた。くすぶる煙が細く立ち上るだけ。
 チェシスカが私のそばにやって来た。
「生きている……かしら」
「二つとも死んだ」
 今は生きている孫娘のことを気にかけなくてはいけない。私は孫娘に脚を出させて、始めに触角に巻き付かれたところを見た。ひどく痣になってしまっている。けれども、大事には至っていないだろう。
「まだ、体が震えてる」
 チェシスカが私の方を見ていた。こわばっていた表情が少し和らいだように見える。私は孫娘が怪我をしていたのを思い出し、言った。
「血はどうした。大丈夫かい」
「うん、すぐに止血したからね」
「そうか、よかった」
 私は立ち上がった。チェシスカに大きな怪我はなかった。それが何よりだった。
「お祖母さん、今日はありがとう」
 チェシスカの声に落ち着きが戻ってきていた。私は彼女に聞いてみる。
「私の最後の仕事、終わったかね」
「うん、ちゃんと終わったね」
 彼女は続けた。
「私、誤解していた。お祖母さんは指人形の儀式をやり残していたんだって思っていたの」
「誤解じゃないさ。お前に私の知っていることをすべて伝えたいと思っていたのだから。それが私の仕事だったのだから」
 不思議なことに、私の中で何かが変わろうとしていた。チェシスカの私を見つめる目はとても優しく、私の変化を待ってくれているように思われた。
「おかしいね。私はこれからお前と私のテントに帰って、明日一日はゆっくりと眠って過ごして、それからいつものように放浪の旅の生活を送るはずなのに……それなのに、ちっとも自分がそうするという気持ちがしない」
「そうだね」
「なんだろう、とてもおかしな気分だ。大事な仕事をやり終えたばかりだっていうのに、私はどこかへ駆け出したいような、そんな気持ちでいる。若返ったみたいに、体と心がどこかに今すぐ行ってしまいたいと叫んでいる気がする」
「うん、わかるよ」
 チェシスカの声が涙混じりになってきた。彼女は何もかも知っていたのだろう。
 ごそり。異音が、私たちの空気を乱した。
 灰と砂を火箸で引っ掻くような不気味な音が、耳の後ろ側から大気を揺すり始めていた。
 大きなものが自らの重みを引きずっているような音が、そう、先ほどまで炎を挙げていたもののあたりから聞こえ始めていた。
 朝日の中、灰の中から不気味な怪物が這いだしてきていた。触角は燃え尽きて折れ、大顎の片側はおそらく精霊の体に突き刺さったまま抜け落ちて失われ、複眼の縁、頭の付け根のあたりが内部から体液が噴き出して欠けて黒い穴をいくつも空けていた。
 だが、それでもまだそれは生きていた。
 自分をこの晩、森に放った主であるチェシスカだけを、もう見えない眼で見据えていた。
 ふいに私の意識の中に太陽の光が差し込んだ気がした。
 自分のことが、私にはやっとわかった。しなければならないことをし終えた今、私はもうチェシスカの祖母であり続ける必要はなかった。私は自分が何者であるかを知った。
 私の頭にふたつの角が生え聳えていた。精霊の角。
 私はそれを軽く薙いで怪物の命を終わらせた。炎に焼かれてもろくなった怪物の頭は簡単に砕けて、ばらばらの黒い破片になって大地に散った。再び出てきた風が、それらをどこかに運んでいく。
 もう腰は曲がっていなかった。髪は白くもなく、肌は張りつめていた。
 私は、いつか愛する人と海を渡ろうと決意した私だった。
 ぼろぼろの灰になった私の夫のそばに膝をついた。
 あの怪物が生きていたのだから、もしかしたら、という思いがあったのだ。チェシスカが一緒に灰を掻き分けてくれた。ほどなくして彼女が掌に少し余るくらいの丸いものを見つけた。
 清水を掬う時のようにそっと掌を広げて、その黒くて丸いものを受け取った。何かの種か、卵のように、球を少し縦長にしたような形。乗せた掌が、熱さを伝えてきた。炎の名残の熱だろうか、それとも。
 わかっているのは、私の夫の魂がまだこの中にあるということだった。
 胸に魂を当てる。
 膝を折り、背中を丸めていく。
 私の全身から白い羽毛が噴き出した。草の芽が萌えるように伸びて、私は一羽の鳥になる。呼吸をするたびに胸の中が軽くなってゆく。
 鳥になった私のすぐそばに岩があり、チェシスカは片膝を立ててそこに腰掛けた。
「あのね、はじめはびっくりしたの」
 朝日が私の孫娘の輪郭を次第にはっきりと浮かび上がらせていく。
「私とたった二人だけで暮らしていたお祖母さんが亡くなって、悲しかったその日にね。ひとつの指人形が姿を消したの。それはお祖母さんが結婚してすぐに造ってずっと大事にしていた人形だったのね。私はうろたえてしまって、何日も探したわ。でも、見つからなかった。それでもあきらめきれないでいるうちに」
 まぶたを閉じて、チェシスカは一度大きく呼吸した。
「お祖母さんが帰ってきたの」
 私はまぶたをつぶって頷きの代わりにした。
「お祖母さんには私はもう十年も前の小さな女の子に見えているようだった。そして言うの、お前に儀式を見せておかなくてはいけない、指人形を野に放ちに出かけなくてはいけないって」
「きっとその思いをずっと持っていたのね、お祖母さんは。私は儀式を、まだほかの人が一族であることを捨てて出ていく前に教えてもらったけれど、お祖母さんには不十分だったのでしょう。今日は、たしかにとても上手に歌えたわ。きっと一生でいちばんきれいな歌を」
 私にとっても今まで聞いた中でいちばん素敵な歌声だったよ。
「私が儀式をしたから、もうあなたは自由だね。お祖母さんの心を連れて行ってあげて。遠くの場所へ。私たちの祖先が暮らしたという、海を渡った彼方へ」
 チェシスカは焼けこげたカンテラを拾い、体中の埃を叩いて払った。
「私は大丈夫。まだ仕事も残っているの。きっと私たちの一族はもう二度と儀式を思い出さない。人形に魂を込めることもしない。だから最後に、ずっと一族を守ってくれてきた人形たち、今とは比べものにならないくらい強い生命力を吹き込まれた人形たちを、自由にしてやらなくちゃ。そして、それがもし主に恨みを持ってしまっていたとしたら――」
 そのまま彼女は口を引き結んだまま、遠くを見つめた。視線の先には朝日が照らし出す荒れ地の丘陵が広がっている。
「私はだから、簡単には死なないよ。心配しないで。そしていつか、また会いましょう。ね、お祖母さん」
 別れの時が近づいていた。
 私の胸の下で、小さな鼓動が生まれているのを感じる。抱いた塊が息を吹き返しつつあった。形が少しずつ変わろうとしていた。
 とても弱い力しか残されていないから、それはまだ喋ることもできなかった。そしてほんの小さなものの姿にしかなることはできなかった。だから、私は自ら小さな鳥になり、夫の魂の宿るものを誘った。一族の伝承にある、故郷の大陸に棲むという幻の鳥。
 私は銀白色の羽になり、夫は金色に縁取られた黒い色の羽になる。
 飛び立って後ろを見ると、荒れ地にぽつんとチェシスカが立っていた。まだこちらを見上げていた。
 チェシスカの後ろにも、人影のようなものがいくつか見えた。私にはわかった。あれらは祖先から受け継がれたものたちなのだ。とても古い時代からずっと隠されていて、だから年月を経てもまだ一度も野に放たれたことない人形と像。生きた人間そのものと見まごう男女は伝え聞く大蛾の繭糸を使った操り人形であろうか。金属の光沢を持つのは鎧を身につけたカラクリ人形に違いない。強い呪いを吹き込まれた創世神話の半人半獣、矮人や、妖精もいるようだ。チェシスカを護るようにして並んでいる。
 残してきた彼らの後ろに朝日が煌めいていた。
 怪物の死骸のあったあたりで風に撒かれた無数の灰が、小さな小さな黒い蝶になるのが見える。蝶の群れは、荒れ地に立つ人のことなど気にもせず、めいめい望む方角を目指して飛び、ちりぢりになって見えなくなった。
 それきり、振り返らなかった。
 野に放たれた私たちは、翼に風をつかまえて大気の隙間に身を滑らせる。
 ただ西へ飛ぶ。
 ずっと昔に行こうと決めていた場所へ向かって――。


-了-


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