« 『ニノハナ』(仮) | Main | 市役所でランチを食べてきました »

2004.12.05

『ニノハナ』(四枚)

妻の出産のつきそいで初めて足を踏み入れた産院の待合室で、見慣れない植物があり、『ニノハナ』という名前のプレートが立ててあった。手作り感がある木のプレートで、院長か誰かの手によるのだろうか。素っ気ないカタカナにもどこか味わいが感じられる。
 よく見ると木目に紛れそうな小さい文字でこんなことが書かれていた。
「これはヒルギという植物で、熱帯のマングローブを形成する樹木のひとつです。『ニノハナ』はちょっとしゃれてつけられたこの子の名前です」
 妻が促進剤を使って出産する三時までは、まだ数分の時間がある。つきそいはいらないと言われて少々気落ちしてもいたし、気の紛らわしようもないので散歩でも、と思ったが、狭い院内のこと、三歩で足を止めてソファに戻ったのだった。夫の参加も今時は珍しくないはずだが、妻は恥ずかしいらしい。
 こんなときでも鞄に入っている電子辞書の百科事典で『ニノハナ』を検索してみたが、該当する植物はやはりなかった。さて、どんないきさつで……と思ったとき、根が絡み合いながら盛り上がって瘤状になったところにおもちゃが置かれているのに気がついた。食玩だろうか、クマバチをかたどったかわいらしいもので、なるほど、受粉の手伝いをするハチというのは、産科にはふさわしいかもしれないと思った。と同時に、ふいに『ニノハナ』の謎が解けた気がした。
「クマバチの乗った絡み合った根……根の数は三本……三乗根とハチ……ああ」
 そうなのだった。たしかに、八の三乗根は、二だ。それでこの木にニノハナという名前をつけたのか。十年も前になるだろうか、卒業した高校の数学で苦しめられた累乗根だの三次関数だのの試験を思い出す。高校時代の私には数学は飛び抜けて難しい試練だったが、その先にある解放と、一里塚を越えた新たな自分への自信というのは何ものにも代えがたかった。
 産科を訪れる父親候補たちの何人かが、いてもたってもいられない気持ちを、このちょっとしたパズルでしばし醒ましたのだろうか。あるいは、頭をひねった挙げ句、受付にこっそりと訊きにいったりもしたかもしれない。産後のたあいもない夫婦の会話に、ちょっとしたウィットを加えてくれたり、もしかしたら、生まれてきた子どもが大きくなったときに話すことだってあったりしてもおかしくないのじゃないか。
 試みに手元にある百科事典にこの植物について当たってみると、ヒルギ科の植物は珍しい『胎生種子』を持つと書かれていた。これは種子が親についたままの状態で生育するもので、育った種子が水底に届くとそのまま根付くのだという。いわば子の面倒見のいい植物というわけである。
 産院の待合室にさり気なくこういうものを置く気持ちがうれしくて、私の心の底が熱くなった。
 まさにそのとき、威勢の良い産声が建物全体に響き渡った。私は飛び上がり、あたふたと産室に向かった。
 そんな私をニノハナが見送っていた。

-了-

|

« 『ニノハナ』(仮) | Main | 市役所でランチを食べてきました »

SS(三語即興文)」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/17870/2156018

Listed below are links to weblogs that reference 『ニノハナ』(四枚):

« 『ニノハナ』(仮) | Main | 市役所でランチを食べてきました »