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2004.08.18

『厚焼き卵の夜』(四枚)

「追加オーダーお願いします。えーと、厚焼き卵」「はい、厚焼き卵ですね」飲み屋の店員は慇懃に復唱したが、視線が明らかに不審そうだった。それもそうだ、さっきから俺は十分間隔で一皿ずつオーダーを追加している。俺のテーブルにはすでに料理がほとんど手つかずのまま乗っているのに。枝豆、塩から、たこわさび、大根おろし(じゃこ入り)、ポテトサラダ、キムチ、茄子一本漬け、季節のお新香盛合せ。こいつらが、中身が減らないまま気の抜けかけたビールの中瓶の向こうの新天地にずらりと並んでいる。これだけじゃない。ビールとコップの間の旧世界には、箸をつけた皿がぎゅうぎゅう詰めに自分の領土を主張し合っているのだ。ネギ塩ナンコツ、串かつ つくね団子、砂肝、手羽先、じゃがバター、アスパラ、山芋豆腐サラダ、そして大物の鶏ゴボウ釜飯がまだ半分も食べられないままテーブルの上に居座っている。今日俺がオーダーした料理はそれだけではない、すでに下げられた皿を挙げれば……いや、やめておこう。不毛だ。とまあ、そんなわけで、食べきれない量の料理を前にした俺が追加オーダーをすれば、どんな店員だって猜疑心が浮かぶのは当然だと思う。悪いのはこっちだ。実際に俺はとうに満腹で、きっと厚焼き卵も食べることはできないだろう。こんな居心地の悪い思いなんか好きこのんでしたくない。とっとと店を出て、徒歩とバスで三十分の我が家に帰り着きたい。だが……俺は財布を忘れてしまったのだ。家内に財布を届けてもらおうと、その場しのぎにオーダーを繰り返していたが、二十一時を回っても家内は電話に出ない。せめて、店に入ってすぐに気付いていたら、店員に正直に訳を話してどうにかできたかもしれないが。時すでに遅し。ここで引いたら男のプライドが保てないという気持ちになっていた。俺は今、神の試練に耐えている男だった。あと少し粘ればきっと家内は帰ってくる。そうすれば今の焦りが一気に安堵へとデジタル変換され、たまりにたまったVHSがDVDに生まれ変わるがごとき快感を得られるはずなのだ。運命を課した神との、いわば一対一の勝負。俺は当然勝つ気でいる。弱気はダメだ。「お待たせしました。厚焼き卵のほうになります」ろくに血液が回らなくなっている頭でよくわからないことをぐるぐる考えていると、俺の頭上から声が降ってきた。その声で俺の思考は6メートルほど走り幅跳びをした。今、「厚焼き卵のほうになります」って言わなかったか? 「「ほう」に「なります」? こういう言い方はよくないといつも俺は家内に言っているのだ。物事ははっきりと。だから「厚焼き卵です」と言うべきなんだ。ここで俺の思考はバタフライ泳法。今朝の家内とのやり取りを思い出した。「今日はご飯は外で食べてくださいね」「どうした、用事か?」「いやだ。ずっと前から言ってあるでしょう。今日は高校の同窓会なんですよ」「そうだったか。遅くなりそうか」「そうねえ、きっと二次会のほうがカラオケで、清美に絶対歌おうって言われてるから、遅くなりますね」「『二次会のほう』じゃないだろう、『二次会』だけでいい」このあといつものしょうもない夫婦喧嘩を一通りやったのだ。うっかりしていた。このぶんでは家内がいつ帰るかもわからないじゃないか! 俺は絶望した。とりあえず、今は深呼吸して、このテーブルの上に厚焼き卵の置き場を作ることを考えなければならない。話は、それからだ。

-了-

(闇三語:お題「あつ、はな、つい」)
※お題は「夏は暑い」のアナグラム?

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