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2004.07.25

『ハエトリソウ』(四枚)

 タコ足配線をいくつもまたいで、君は電算実習室の奥にある準備室に向かう。
 戦後と呼ばれていた時代に建てられた校舎は、ちょうど君がこの高校を卒業したあと新校舎に移転する予定になっている。だからエアコンがオンボロでも、タコ足配線が火を噴きそうに熱くなっていても、君たちの代はとにかく我慢して使い続けなければならないということなのだそうだ。
 電算準備室と書かれたドアの向こうが物理部の部室になっている。錆びて固くなったドアノブに今日も少し手こずって、君は部屋に入る。いつものように無為の放課後を過ごすために。部室の中は四畳半ほどのスペースの壁面を天井まで書棚が埋めていて、そこにたまった埃の匂いが鼻をむずむずさせる。残暑の時期であるため匂いはことのほか強く感じられ、慣れるまで時間がかかる。南側にひとつだけある、人の頭がぎりぎり通るくらいの小さな窓は、桟が歪んでいてきちんと閉まらず、施錠しても上側に隙間が残る。どこもかしこも老朽化しているこの部屋には、たった一人の物理部員である君が持ち込んだ私物のノートパソコンがある。これもやはりだいぶガタがきていて、液晶が赤みを帯びたりちらついたりし始めているのだった。部屋も備品も、ノートパソコンも、あと半年の大往生に向けて時の経つのを忍んで耐えているこの学校のありふれた一部分であって、それでいて象徴でもある。
 君の耳に蚊の羽音が聞こえてきた。君以外にこの部屋を訪れる者があるのは珍しいけれども、桟の隙間から時々はこんな風に闖入者がやってくることもある。プウンという細かな空気のふるえが右から後頭部を回って天井のほうへ消える。君はふん、と鼻息をひとつつくと、どっかりと腰を下ろす。元は教職員用だったグレーの椅子は露出したウレタンの黄色い口をぱくぱくしながらギッシュシュというか細い抗議の声を上げた。
 蚊にも椅子にも瞬きひとつより長く意識を払わずに、君はカバンを開けてごそごそと何かを探し始める。右手がつるりとした合成樹脂の感触をさぐりあて、円筒状のそれを掴み出す。ノートパソコンの黒く平べったい直方体の向こう側に無造作に置かれた鉢植えの緑が五~六個見えている。ペットボトルの口を開けるや、水をやっていく。
 水苔の中につつましく植えられた緑色の草は、ハエトリソウという名の食虫植物だ。団扇のような形の、ぎざぎざとしたトゲを生やした葉をつけている。折りたたまれたそれは人間の閉じられた目蓋そっくりで、長いまつげを上品に生やしているようにも見え、開いた葉のほうは人の掌を手首でそろえている仕草にも見える。
 君はペットボトルをしまうと、ハエトリソウたちを目の前に並べ悦に入る。窓の隙間からやってきたさきほどの蚊も、いずれはこの草に囚われ、ゆっくりと有機養分に還るだろう。そして根となり茎となり、あるいは葉となり一部は消化液となって、次の獲物を待つだろう。
 ちくり、と左手の中指に小さな痛みを感じて、君はそこに視線を落とす。膝の上に載せていた左手から、小さな虫がよろよろと飛び立つのを君は見た。そして今はごくささやかなかゆみを、君の皮膚が伝え始めているのだった。
 君は自分の細胞の何百か何千か何万かが、今この瞬間、かの虫の一部になったことを知る。虫になった細胞はやがて、目の前の草に囚われるだろう。それから草の生を生きるだろう。
 日暮れ時、君が去った部室で、植物は水を吸って青々としていた。時はその上にも横にも下の方にも、おぼろげにたゆたっていた。

-了-


(作家でごはん!鍛錬場 投稿作品)

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