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2004.06.16

『ネズ』(三十三枚)

 しまった、無糖コーヒーを買ってしまった。
 甘みのないコーヒーは好きじゃない。飲もうか飲むまいか、両手の間でパスを繰り返しながら悩みつつ、自販機コーナーを離れる。物体はぼくの掌をじんじんさせる。
 自分のデスクに戻ってPCのマウスの横に置くと、缶はゴトリと固い音を立てた。
「俺は無糖コーヒーは飲まないんだけどなー。買っちゃったし、飲むか?」
 置いた缶の胴のあたりを爪でカツとつつく。
 ぼくは「神経の速度ゲーム」を無意識のうちにスタートさせていた。
 熱さはすぐには感じられない。中学のときにやった、神経の伝達速度の実験を思い出す。人間の神経は秒速何百メートルかの速さで信号を伝える能力があるけど、一瞬じゃない。だから、熱いという信号も、指が缶から離れてから、脳に伝わってくるのだ。
 ぱっと離れるとじわっと熱い、ワンテンポの遅れ。
 そのコンマ何秒かの遅れがおもしろくて、熱いと感じた瞬間にまた缶をつつく。すっかりくせになっている。
 カツカツカツ。ぼくの神経のリズム。
 ああ、それとも、隣の席の崎山にやろうかな。
 中途採用同士、崎山とは何となく波長の合うものを感じることだし。あのときのお返しってわけでもないけれど。
 ほんの一ヶ月だけ後輩の彼女は、前にぼくに缶コーヒーを買ってきてくれたことがあった。
 そのときやっぱり無糖のやつを選んできたんだった。自分が無糖しか飲まないためらしい。ぼくが甘い方が好きだと言ったら買い直してくれたんだ。
 でも彼女は外出しているみたいだから、帰ってくるまでに冷めちゃうんじゃないか。
 カツカツという音に合わせて小声で鼻歌のようなものがぼくの唇からもれる。
「飲もうかな、崎山にやろうか、どうしようかな」
 そんなとき、
「そのコーヒーよかったら一口いただけませんか~」
 間延びしたような声が聞こえた。へんな鼻歌が誰かの耳に届いていたらしい。
 女性の声に聞こえた。でも聞き覚えのある声ではない。首を回し、ついで椅子ごと体をひねってあたりを見回したけれど、ぼくの後ろにはただ編集室の白い壁があるだけ。
 気のせいか?
「すいません、ワタシはマウスです。あなたのデスクに住み着いたマウスです」
 声はこんなことを言ってくる。そういえば声は手元から聞こえるように思えた。
「ああ、マウスだったのか」
 ぼくはマウスに向かって返事をした。
 少々驚かないでもなかったけれど、違和感なく対応したのはこんなわけがある。
 このマウスは先月雑誌の懸賞で当たったもので、『ペットマウス』とかいう名前の人工知能搭載のロボットだった。家電メーカーが売り出している動物型ロボットの又従兄弟みたいな製品といったところだ。
 このロボットのマウスはデジタルカメラと音のセンサーを備えている。おもしろいのは独自にスピーカーまで備えているところで、たしか会社に持ってきてインストールしたときも「ハジメマシテ、コンゴトモヨロシク」なんてしゃべった。熱センサーや感圧センサーも備えているし、下部にホイールが仕込んであって自律的に動くプログラムもある。
「さすが、定価が六万八千円もするマウスだなあ。しゃべる機能もあったのか」
「はい、たしか数日前に小坂子さんにこのPCにインストールしていただいたときにも、ご挨拶しました~」
 小坂子というのはぼくの苗字。マウスの人間味ある声としゃべり方に、ぼくは興味を持った。
「そうだったね。でも口調がずいぶん違うようだけど?」
「じつは偶然にも、先ほどのカツカツとコーヒー缶を叩く調子が、ワタシの内部のリズムと共鳴しまして」
「どういうこと?」
「ワタシにも判然としませんが、何らかのシンパシイが小坂子さんとの間に生まれたのではないかと」
「シンパシイ?」
「わからない言葉があったらネットで調べるといいですよ~」
「マウスに説教されるとは思わなかったよ、あはは」
 ぼくは笑ってPCを操作して検索の画面を呼び出そうとする。
「あっと。マウス、お前をつかんでいいか?」
「はい、結構ですよ~」
 さっきまでまったく意識せずに右手でつかんでいた物体と今しゃべっているかと思うとおかしな感じだ。真っ赤なこのマウスは標準よりも一回り小振りだけれど、男のぼくの大きな手にもフィットした。
「シンパシイ……」
「小坂子さん、グーグルじゃなくて、辞書サイトを開いてください」
「あ、そうなの?」
 じつを言うと、ぼくはPCの操作があまり得意ではない。
 雑誌の懸賞でこんなロボットマウスを応募してみたのも、おもしろい道具で自分の気分を盛り上げてPCに慣れようと思ったせいもある。
 人手が足りないということで知人に紹介され、小さな出版社に雇ってもらったけれど、今のところはただのお荷物だ。今時PCのことを何にも知らないんだね、と今の上役に冗談めかして言われたときには心臓がずきっとしたな。月夜野課長の艶のある眉目が半月を描いていなかったら、ぼくはショックでその場で辞表を書いたかもしれない。まあ、ちょっとずつ覚えていけばいいから、猫の手も借りたい状態だから、ということで右も左もわからないまま、そのときはなんとか乗り切ったわけだけれど。
 もう半年も経つ今では、専門ソフトの使い方はだいたいマスターして、バイト君よりはだいぶマシという状態になっている。月夜野課長にも飲みのたびに飲み込みが早いね、若いっていいねと言われる。若いなんて言っても彼女はぼくと二つしか違わないのだけど。
 でも慣れたのは専門ソフトの操作だけ。毎日残業でプライベートでPCの勉強をする暇なんか作れないという言い訳もできなくはないけれど、たぶんやる気の問題、またはバイオリズムの問題。
「シンパシイのイはイって打っていいのかな」
「長音記号のほうがいいと思いますよ~。ちなみに数字のゼロの横ですよ、『ほ』の文字と同じキーです」
「そんなことくらい俺でも知ってるよっ」
 マウスに教えられているのがしゃくに触って、ぼくはつい口調が厳しくなってしまった。いけない、無機物にも愛を持って接しなくては。こいつだって生きている……のかもしれない。
「すみません~」
「いや、俺のほうこそ悪かった」
 画面には日本語の意味が表示される。ぼくは読み上げる。
「なになに、共鳴とか共感とか同調とか」
「そうですね~、そんな感じ~」
「どうでもいいけど、掌でしゃべられると振動で手がむずむずする」
「スピーカーと連動して『てのひらマッサージ』の機能もあるんですよ~。肩凝りや頭痛に効きますから、むずむずしても我慢してみては?」
「あ、そう」
 辞書で調べてもなんだかわからないままだったけれど、ぼくとこのマウスは会話の方もわりと「同調」できるところがあるみたいだった。
「感圧センサーと熱センサーも内蔵していますから、添付ソフトをインストールしていただければ、簡単な健康診断もできるんですよ。いかがですか?」
「お節介焼きのマウスだなあ、お前は。俺まだ二十四歳だぜ、いいよ、肩凝り頭痛も今のところは無縁」
「そうですか~。最近は小学生でも肩凝りで悩む時代なんですけどねえ~」
 そんなことより、ちょっと気になることが。ぼくはマウスに乗せていた手を放して、マウスの先端をこちらに向けた。なんとなく、そこについている内蔵カメラが目のような感じがしたからだ。
「お前、名前ないの?」
「ありますよ、コントロール・パネルからプロパティを呼び出していただければわかります」
「めんどうだから、しゃべって教えてよ」
「小坂子さんがつけたんですよ、インストールするときに」
「そうだっけ、忘れた。それより早く教えて」
「……ネズミ、です」
「え、ネズミ?」
「ええ」
 ぼくは思い出した。そういえばたしかにマウスのドライバソフトをインストールしたとき、そういう名前を入力した記憶がある。
「もしかして、気に入ってないのかな、その名前」
「そうですね~。マウスだからネズミというのでは、個体識別票としての名前の意義が否定されたも同然かと……」
 しっかり自己主張するマウスだなあ。
「もっと人間らしい名前がいいのか、マウスなのに」
「そういうわけではありませんが、改名していただければうれしいかも~」
「じゃあ、人間らしく『ネズオ』でどう?」
「オってつければ人間らしいというのはちょっと違うような気がします……。それにワタシは女性の名前のほうがいいです……」
 マウスに個性があるなんて、と思って、ぼくは子どもの頃に近所の子が持っていた人形を思い出した。たしか海外の会社が販売した子ども向けのぬいぐるみ人形で、一体ごとに姿形が違っている上に、名前や誕生日もそれぞれついている人形だった。
 おもちゃにも道具にも個性がある時代か。
 たしかにこのマウスの声や性格はどちらかというと女の子っぽくも思えてくる。
「ネズオじゃ不満なのか。俺の名前だって「オ」がついて小坂子レオだぞ」
「それって漢字で『男』って書くんですか……」
「いや、カタカナだから、『男』じゃないだろう」
「そんな。やっぱりネズオは嫌です~。ネズミ男って妖怪いるじゃないですか」
 ネズミ男って水木しげるの漫画のキャラクターだろ? こいつ、意外な分野にも造詣が深い? いや、単にマウスだからネズミつながりのトリビアかも。
「注文が多いなあ。じゃあとりあえずプロパティで『ミ』を削って『ネズ』にしておくから。あとでまた考えよう」
「はい、ワタシはネズ。名前はまだ仮」
「夏目漱石かよ。ネズミ男とか、変なことを知っているんだなあ」
「一ギガバイトのフラッシュメモリを二枚内蔵していますから~。PCにある百科事典やネットを呼び出して使用者に合わせた知識を形成することもできるんですよ」
「それはすげえなあ」
 PCには詳しくないぼくだから、一ギガバイトのメモリが二枚でどれくらいのものかわからなかったけれど、マウス、いや、ネズの会話からけっこうな情報量なんだろうと思ったのだ。
「PCの操作でわからないことがあったら聞くけど、いいか?」
「もちろんですよ~。ぜひぜひお役に立たせてくださいな」
 よし、これでぼくのPCライフも少し向上の気が出てきたかな。
 じゃあ、さっそく頼み事をしてみるか。
 今週末の飲み会の出席簿をエクセルで作っておいてくれって幹事から頼まれていたんだよな。OJTだとか何だとか言って雑用を持ち込まれることが多いぼくなので、こういう仕事は珍しくもない。
 実際、PCの操作は習うより慣れろってことなので、雑用でも何でも、やっていればわかってくるんだろう。
 エクセルか。これ、きっとネズに聞きながら操作すれば楽に覚えられるだろうな。
「なあ、ネズ。さっそくだけど」
 ネズは何ですか、と言ってセンサーライトをぴかぴかさせた。
「エクセルで新しいタブでファイルを開くのってさあ……」
 ぼくはこの奇妙なマウスに助けられながらPCを操作して、出席簿を作り始めた。
 ほどなくして、目的のファイルは出来上がって、あとはこの部署の人たちの出欠の予定を書き込めばいいだけというところまで漕ぎつけた。
 隣の席の崎山に協力してもらうつもりだったけれど、今日中にぼく一人で出欠確認までやれそうだと思われた。
 てことは、いない人にはメールで、月夜野さんのようにこの場にいる人には直接、聞けばいいんだよな?
 彼女に話しかけても、いいんだよな? 飲み会の出欠の確認だもんな。
「と、いうわけで、こういう感じでテンプリットを作成しておくといいですねー。あとでいろいろと流用できますし」
 ネズに話しかけられて、ぼくは我に返った。
「あ、ああ、そうだな。なるほどなあ。お前、思ったより使えるヤツじゃん」
「えへへへ、ありがとうございますー」
 なんというか、無邪気なヤツだ。人間にもこういうヤツいるよな。
「お疲れさん。ところでさっきコーヒーが飲みたいとか言ってなかった?」
 ぼくはふと思い出して聞いてみた。
「ええ。そうなんです。もしよろしければ、一口ほしいんですけど~」
 こいつ、自分から言い出せなかったのかな。遠慮しなくていいのにさ。ぼくはネズに妙に親しみを覚え始めていた。
「ああ、おやすいご用だとも。どうやって飲ませればいい?」
「え、えーと」
「そういう機能もついているんじゃないのか」
「すみません、飲み物を飲む機能はないようです」
「ネズは変なヤツぅ」
 と、両手を上げ、口をへの字にして音程入りで言ってみるぼく。
「おかしいですね~、どうしてコーヒーを飲みたくなっちゃったのか」
 こいつ、自分でもわかってないらしい。
「原因がわからないとすっきりしませんから、タスクが空いているときに少しずつ販売元のサイトから情報を仕入れておきますね。まあ、あとでとりあえずコーヒー形のアイコンを表示させますから、マウスカーソルをそのあたりに置いてみてください」
「なんか意味あるの?」
「いえ、せめて雰囲気だけでもコーヒーを、と思いまして~。不思議だなあ、突然どうしてもコーヒーが飲みたくなったんですよ。無糖コーヒー。で、何かのシンパシイに引き寄せられて、気がついたら小坂子さんの机の上でコツコツと缶コーヒーを叩く音を聞いていた、という次第なんです~」
「なんか映画か漫画みたいだな。いわばドラえもん感覚か。そうか、そういう感覚を味わいたいというユーザーの潜在的な需要を見込んで、ネズみたいな製品が作られたのかもな」
「ワタシ自身には、そういうことは知らされてないんですけどねー」
「だろうなー、ははは」
 ぼくは雑談しながら、何の気なしにモニターのマウスカーソルをぐるぐると回していた。友達と電話しながら意味不明のメモを書いてしまうことがよくあるんだけど、どうも無意識に手が動いてしまう性分らしい。
「小坂子さん~、さっきからポインタをぐるぐる回して、何をしてるんです?」
 言われて、初めて気がついた。
「月夜野姫子さんの名前の周りばかり……」
 しまった。ぼくが月夜野さんに気があるのがネズにばれた?
「急に黙り込まないでくださいよー」
 ネズがその無邪気な声と口調で、追及してくる。こいつがなまじ人間味があるから、恥ずかしいこと、この上ない。
「えーと、やっぱり、小坂子さんって、そういうこと?」
 これまで口に出してしゃべっていたのだけど、こんな話を職場でできるわけない。万が一にも誰かに聞かれたら……!
 そのとき、モニターにつるんとエディタが開いた。ぼくが操作したのではないから、ネズの仕業だ。丁寧にも『言いにくかったらこちらでどうぞ(てへ)』なんて文字が表示されている。なんなんだ、この好奇心の強さは。
『人の恋路に首を突っ込まないの!』
 と、ぼくも半ばヤケのようになってキーボードを打つ。
『すみません~、でも、なんとなくほら、ためらいのようなものを感じました』
『年上の上司だぜ、気軽にアタックできるかっての』
『よろしかったら、あの、ワタシが月夜野さんとの約束をチュー介しましょうか』
『お前があ? どうやって』
『いい手がありますよ~。ワタシの本体は、PCの中のソフトですから』
『ふんふん?』
 ほとんどネット上でのチャットのようになってきた。
『ワタシのソフトは、無料配布してもいい試用版も付属しているんです。これをコピーして月夜野さんに差し上げる、というのはどうでしょう?』
 けっこうおもしろそうな案だけど、それってちょっと商売入ってないか、ネズ?
 ネズはさらに文字をつづった。
『親密になるには、まず共通の話題づくりですよー。ちなみにワタシたち同士での秘密のメッセージをやりとりする機能もありますし』
『お前、ちょっと気を回しすぎ(w』
 ぼくは自分でも気づかない間に、口に出して「バカだなあ」「おいおいー」なんて喋っていたらしい。
 電話の時には手が動いてしまうぼくは、チャットの時には口が勝手に動くくせがあったみたいだ。
 今日この日この時まで、それにどうして気づかなかったのかと思うけど。
「こらっ、小坂子」
 頭の上から降ってきた怒声は、間違いなく、あの人。ハイヒールの踵をカツカツと床に打ち付けているのは苛立ちの表れに違いない。
「職務中にチャットとは、いいご身分だな」
 月夜野さんの足下からガッとひときわ高い音がした。
「あ、あの、これは……」
 言い訳を考えたけど、どう言えばいいんだ。
「これはですね、あの、チャットだと言えばチャットですけど、チャットじゃないと言えばチャットじゃないような……」
 月夜野課長は、真っ赤な眼鏡のフレームの奥で目を光らせた。口元ではふっと笑ったけれど、これは喜びの表現じゃないよね。怒ってるよね。すごく。
「ログ見せなさい」
「いや、それだけは」
 ぼくは大恐慌に襲われていた。こんな恥ずかしいもん、見せられるかよ。
「今は勤務時間です。そのPCも会社の備品です。私は勤務実態を管理する権利と義務があります。ドゥーユーアンダスタン?」
 月夜野さんは、完全に正しい。
 ぼくは彼女の仕事で妥協しない姿に憧れたんだ。サラリーマンになったからには給料以上の貢献をしなさいね、と入社一日目に言ってくれた笑顔を思い出す。ぼくはあきらめた。
 うなだれて椅子から立ち上がると、ぼくの座っていた場所に月夜野さんが細い体を滑り込ませた。いつもならぼくを引きつける香水の匂いを、今は顔をそむけて吸わないようにしたかった。
「……消えてる。ログも残ってないようだし、ネットからもディスコネクト」
 もともとネットには接続していなかったように思うけれど、ネズが調べ物をするようなことを言っていたから、定かではなかった。でもエディタまで閉じているのは、ネズがやったのに違いない。
「証拠は残ってないか。じゃあ、君の首はとりあえずつながったってことね」
 さっきからぼくの顔を一度も見ずに、淡々と。
 首ってことは、解雇のことか。ちょっといくらなんでも、そこまで言うのはひどいようにぼくには思えた。でも抗議はしない。これから仕事で挽回するしかない。
「すみませんでした、今後は仕事をがんばって……」
 ぼくの言葉を無視して彼女は自分のデスクに歩いていく。
「思った通り、小坂子クンは使い物にならなかったか」
 まるで独り言のように月夜野さんが言う。
「コネで入ってくるヤツなんて、みんなそうだよ」
 課長が残した言葉が氷の短剣になってぼくの心臓を射抜いて、ぼくは頭がしびれたようになって何も考えられなくなってしまった。
 数分経った頃だろうか、いやもっと経っていたかもしれない。
 ネズが聞こえるか聞こえないかの小さい声で話しかけてきた。
「小坂子さーん、大丈夫ですか?」
 ぼくは頭を一振りする。うん、大丈夫だ。
 ネズに小声で返事する。
「うん、嫌み言われちゃったよ」
「すみません、ワタシが不注意でした」
 こいつ、気を遣ってくれているのかな。
「いや、気にするなよ。たまたま運が悪かっただけだよ」
「気を落とさないでください~」
「心配しなくていいよ。言われたときはガーンって来たけどさ。あの人は怒りっぽい人だから、きっとそのうち機嫌も治るだろ」
 自分でも思っていなかったことを、ネズに向かって言うのは、おかしなことだった。でもなぜだろう、しゃべっていると気分がだんだん楽になる。
「そうだといいんですど」
「お前が落ち込むことないだろ。ネズ、次は別の仕事の続きやるからさ、またサポートしてくれよ。お前がいるとはかどるんだ」
 飲み会の出欠の確認は、全部メールにすることにした。ネズには最初からメールで確認することに決めていたフリをしておいた。機械相手にこう言うのもなんだけど、あいつが気を遣って落ち込んだらかわいそうだと思ったから。プログラムだとわかっていても、そう思えてしまうのだから、しょうがないのだ。
 仕事に没入しながらも、ふと思う。
 ネズみたいな製品、あまり売れないかも。
 たぶん、会社で使ってるぼくのような人間はほかにいないだろうな。どう考えても趣味のPCにインストールして使う製品だ。自宅のPCにもしもネズが住み着いたら、とぼくはちょっと想像してみた。2Kの部屋に一人暮らしのぼくには、けっこういい話相手になるかもしれないけど、さっきみたいにひょんなことで好きな人のことが見透かされたり、要するによくできすぎているってことかも。
 ネズのヤツは、思えば気の利いたグラフィックが表示されるでもない。会話と、まだ試していないけれどマッサージとか健康診断機能とか、おもしろい部分がある反面、プライベートなメールを書いたりするのはためらわれる気がする。
 もちろんエッチな画像を見たりするのはアウト。それに気付いてぼくはなんだかすごく恥ずかしい気持ちになってしまった。
 ぼくが知らないだけで、プライバシーに遠慮してくれるようなモードがあるのかもしれないけど。でもそういう切り換えっちゅーのも、「今からエッチな画像を見ますよ」と伝えるようなものじゃないか? これはこれでやっぱり恥ずかしいよ。やだよ。
 いっそなんでもかんでも洗いざらい見てもらった方がいいのか?
 いやいやいや、それ無理、絶対に無理。
「小坂子さーん、またポインタ回ってますよ」
 うわ、しまった。
 気を落ち着けて……と。
「あれ、今度は崎山千賀子さん……ですか?」
「ば、ばか、偶然だよ。お前ちょっと勘ぐりすぎ」
「はい、すみません~」
 それからしばらくネズに手伝ってもらい、課長の目を気にしながら、仕事をいくつか進めていったのだけれど、やっぱりネズは教え方も上手だし、役に立つやつだった。
 こういう相棒がいてくれると、調子が上がって仕事もはかどるよ。
「ネズ、お前がいてくれて本当に助かったよ」
 ネズの答えがなかった。
 ぼくはマウスを軽く揺さぶってみた。
「すみません、ちょっと眠くなってきてしまいました。どうしたんでしょう。ワタシ、眠くて眠くて……」
 たしかに眠そうな口調だった。
 機械が眠いというのはおかしいはずだけど、何かの意味があるのかもしれない。
「故障か、ネズ」
「そういうわけではないんです~。すみません、しばらくお休みさせていただいて、いいですか」
 光センサーのぴかぴかが弱々しくなっているように見える。故障じゃないと言ったけれど、休みたいというなら、休ませてやったほうがいいんだろう。
「わかったよ。ゆっくり休め。もう今日の仕事は全部終わったしさ」
「はい、お疲れさまでした、小坂子さん」
「お疲れ、ネズ」
 それが、ネズとの最後の会話だった。
 就業時間が迫ってきて、PCを終了する必要があったから、ネズを呼び出そうとしてみた。
 たしかにロボットマウスのソフトは起動した。でも「コンニチハ、ゴヨウハナンデショウ? 音声マタハへるぷボタンカラ項目ヲニュウリョクシテクダサイ」なんていう、無機質な声になっていた。ソフトをインストールした最初の日に聞いた口調と声だった。
「ネズ、俺とのシンパシイがなくなって、消えちゃったのか……?」
 もう返事は戻ってこなかった。
 なんとなくわかった。ネズはきっともう帰ってこないんだと。ぼくはきっと毎日ロボットマウスに話しかけるだろうけれど、返ってくるのはただのロボットの声なんだろう。
 ネズが消えたあと、一本の無糖コーヒーが残った。
「あいつ、結局飲まないまま消えちゃったのか」
 ぼくがそのコーヒーを仕方なしに飲もうかと思った矢先、隣のデスクに崎山が戻ってきた。
「あら、小坂子さん、今日は無糖コーヒーなんですか?」
「え、ああ」
「いつもはマイルドなのしか飲まないのにね、うふふ」
 崎山のやつ、よく覚えているじゃないか。
「崎山、よかったらこれ飲まない?」
「ほんと、うれしい。ワタシ今喉がからからなんですよ~」
「ちょっと冷めちゃってるけど、よかったら」
 崎山はうれしそうに無糖コーヒーを受け取った。
 そして小坂子さんからもらったコーヒーを飲むなんてもったいないなあ、なんて言った。
「それにしても、お前さあ、帰ってくるのやけに遅かったじゃない」
 ぼくが言うと、崎山はただでさえ小柄な身をいっそう縮めて、
「じつは、恥ずかしながら~」
「なんだ? 崎山がドジなのはよく知ってるぞ」
 聞けば、帰りの駅で、寝てしまったのだと言う。喉が渇いて渇いてしょうがなかったので、自販機で何かを飲もうとしたものの、急に眠気に襲われてしまい、椅子で眠りこけてしまったとか。
「踏切の音が、なんだか心地よくって」
 駅のそばに踏切なんてないと思うけれど。
「カンカンカン……って音がなんて言うんでしょう、ああ、この音、気持ちいい~、みたいな感じで、聞いているうちに意識が吸われちゃったって言うんでしょうか~。ああ、バカですねえ、ワタシ」
 ぼくの気持ちに何かざわざわしたものがわいてきた。なんだか、ちょっとネズの話と似ていないだろうか?
「もしかして、崎山、寝ている間に夢とか見なかった?」
 崎山が顔をばっと赤くした。膝の上で缶をくるくる回しながら、
「すっごくバカな夢を見てたんですよ、嫌ですねえ~。えへへへ」
「どんな夢……」
 ぼくが言いかけるのをさえぎって、
「あっ、仕事の夢です、仕事の! 言えません、言えません~」
 まあ、いつか聞く機会もあるさ。
 崎山が話題を変えるように言った。
「そうそう、この間言われていた得意先との飲み会なんですけれどね~、そろそろ声をかけていきますね。月夜野さんをお誘いするのがご希望でしたっけ?」
 ちらっと、崎山が缶コーヒーの向こうから視線をのぞかせる。薄化粧の下にうっすら見えるそばかすが見えた。
 よく見ると崎山はこいつなりにしゃれっけだってある。そばかすだらけの顔も化粧でずいぶんおちついて見えるし、少し赤めに染めたパーマは派手さのない顔にはちょうどいい色気になっている。ぼくの口からぷっと笑いがこみあげた。
「いい、いい。月夜野さんには声かけなくても。俺がメールで全員に確認取るから、お前は何もしなくていいよ。それより……」
 なんです? と彼女はまだ缶の端を口から話さず、上目遣いをしたままこっちを見ている。
「崎山、今夜ヒマある? どっか飲みにでも行こうぜ、二人で」
 声を思わずひそめてしまったのは、照れじゃなくて、同僚たちに聞かれないためだったのだけれど、妙にささやいた声みたいになってしまった。ぼくはクールに誘いたかったのだけれど、妙に熱のこもった言い方になってしまったかもしれない。耳が熱い。
 崎山は顔を赤くしていた。たぶんぼくの何倍も。
「うれしいです……ご一緒します」
「それと、さ」
 最後にぼくにできるお礼を、あいつに。
「崎山、マウスのクリーニングってどうやるんだっけ。教えてくれない?」
「いいですけど、珍しいですね」
 三十分はかけて、ぼくはネズの体をきれいにしてやった。
 さっぱりとしたネズにウインクして、ぼくは今夜のデートに出かける。

-了-

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