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2004.04.04

『涙とイヌと私の心臓』(六枚)

 
 近所にいつも涙を流して泣いているイヌがいる。レトリバーのオスだと思うけれど、なかなか端正で賢そうな顔のくせに、いつも両の目から涙を流しているんだ。
「その檻が狭苦しいのかい?」
なんて、私は通学の途中に聞いてみたりもするけれど、イヌは通りすがりのセーラー服になんか事情を話してくれたりはしない。たださめざめと流すふた筋の涙が心持ちそのてらてらした輝きを増したように見えただけだった。
「私も檻の中にいるようなもんだよ」
 私はイヌにも聞こえないような小さな声で言って、そっと自分の胸をおさえた。
 そんな私をイヌは涙をこぼした瞳で見送ってくれた。
 理科室の掃除当番に割り当てられているので、時間の許す限りホルマリン漬けの心臓を眺めることにしている。今日もずっと標本の心臓と無言で会話していると、声がかけられた。
「気持ち悪くないの? いつも標本を見ているけど」
 こういうふうに気遣って聞いてくれるのは男子に決まっている。女子は聞かずに決めつけるものだ。
 振り返らなくても、もう名前も顔もとても強く記憶に残っているその人を特定できた。でも、私の目がその顔を見たがったので私は振り向いた。
 私はこの声の主がとても好きだった。好きな人にわかってもらえない苦しみは嫌いだ。でも試みる前にあきらめるのは、好き嫌いを通り越して最悪だとも思う。
 彼にあるのが季節外れの転入生に対しての思いやりだけだったとしても、うれしい。そのことを偽れない私の脳と、借り物の心臓。
「私の心臓なの」
 誰にも言わないでいようと誓ったはずの秘密を言ってしまうことの意味を私は理解する。
「えっ」
「ホルマリン漬けの心臓は、私の心臓なの」
 言葉では伝えられないのよ。
 私が言葉に乗せたこのメッセージ。この子は受け取ってくれただろうか。
 複雑な、今にも泣きそうな顔。ああ、この子も私に言葉では伝えられないメッセージをくれた。でも、やめなよ、男の子がそういう顔をすると、女の子は恋より母性に目覚めてしまうよ。
「今の、ほかの女子に言わないほうがいいよ」
 そういって箒を片手に去っていく彼の精一杯の思いやりを、私は愛した。
 言葉では伝えられないということを私は言葉で伝えたのだけれど、言葉が話せないイヌは、どうやって私に伝えたらいいだろう。
 帰り道、イヌにまた話しかけてみることにした。
「きっとお前も言葉では伝えられないことを伝えたいんだね」
 イヌは涙を流して応えた。
 私も心臓に聞いてみよう。
 イヌの前にしゃがみこんで、左手を下に、その上に右手を重ねて少しだけ力を込める。骨の下で脈打つ塊の声を聞くために。
 思い出す、手術の後の景色を。
 欠陥品でしかない私の心臓が硝子の向こうで少しずつ薬に溶けていく夢を見た。血の色を失った私の心臓は白い肉になってぼんやりと浮かんで、重力からも、私を生きさせる苦役からも自由になったように見えた。麻酔のせいで見た夢だと知っているけれど、私にはかけがえのない真実の体験なのだ。
 代わりの心臓は手術前に見せられたあの陶器のような機械。私を生きさせる苦役を受け入れてくれたのは、私自身の肉ではなくて、ピンクと白の無機物。それは何の意志も持たずに、教え込まれた規則で動いているだけ。
 ここにある私の心臓は、教え込まれた規則で動いているだけ。

――それは不幸なことなの?

 誰かの声が聞こえたように思った。
 私は胸を両手で押さえたまま、姿勢を起こし、立ち上がった。
 イヌは突然立ち上がった目の前の人間をびっくりした表情で見ている。
 涙はイヌの壊れた涙腺からただ流れている。
 私は心臓を解放して、両手を広げる。深呼吸してみる。
「しっかり番をするんだぞ、イヌ。涙のことはほうっといてやりなさい」
 勝手を言ってごめんね、と言って涙とイヌとに頭を下げてから、私は再び家路につく。
 今日からは彼の名前を日記に書こう。
 手術のこと、今動いている私の心臓のこと、聞いてもらおう。
 掃除をちゃんとできない理由を、女子のみんなにも聞いてもらおう。
 私が私の心臓に生かされていることを知られて、それで生きよう。

――それは不幸なことなの?

 涙は私の目からもこぼれる。こぼれ続けて、私は私の巣に帰る。


(『作家でごはん!』鍛錬場投稿作品)
 
 
 ずっと前に冒頭だけブログ内に置いておいたものを、書いてみたくなりました。

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Comments

さんさんには古いのまで見ていただいて……恐縮です。
乙女の切なさが書けたかな? どうかな?
カナカナ。

Posted by: おづね・れお | 2005.09.14 at 11:08 PM

うう…学生時代の乙女は切ないんだあ…。

Posted by: さん | 2005.09.14 at 07:46 PM

ぬらりひょん・がぁるさん、こんにちは。

好きだと言っていただき、うれしい限りです。御サイトも拝見させていただきました。

『秘密だよ』の「秘密だよって最後に私が言うのが聞きたいんだ」が味わい深くて、よかったです。この感性を持つ方に読んでいただけたことを幸運に思います。

これからもよろしくお願いします。

Posted by: おづね・れお | 2004.04.05 at 08:17 PM

こんにちは。
好きです、こういう感じ。

リンクさせていただき、
また読みにきます。

頑張ってくださいね。

Posted by: ぬらりひょん・がぁる | 2004.04.05 at 03:18 PM

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