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2004.04.23

『路地裏の歌』(七枚)

--路地裏の歌--

 雨が上がったころを見計らってアパートを出たはずが、いつの間にか雨雲が元気を取り戻して、西の方からゆっくりと、空を攻め始めている。住宅街の真ん中で降られるのはごめんだ。図書館までは、まだ距離がある。私は、足をはやめた。
 ぽつり。
 額になまぬるい一粒があたって飛沫になった。私は軽く舌打ちして顔を手でぬぐった。ノートパソコンが濡れてしまうので、どこか屋根のあるところに入らなくてはならない。図書館でビザンチン帝国の史料を照会しようと思っていたが、仕方ない、どこかの喫茶店ででもこれまでのまとめをすることにしよう。
 二十代最後の年になるまで延々と大学に居続けた私だったが、それもこの三月に卒業という形で終わった。学内でもあだ名は「オッサン」と呼ばれて久しく、就職活動もしないまま大学を追い出された私は、四月になっても黒縁眼鏡にぼさぼさの長髪のままだった。焦りはない。今はネットで知り合った仲間と本格歴史シミュレーションゲームを作成することになっている。私はほかの多くの者たちと違うやり方で社会に挑戦するつもりだ。家族にも教授にもさんざん就職活動をしろと言われていたが、ことごとくを無視した。
 路地裏に面して、その喫茶店はあった。
 三階建ての白壁のビルで、一階が店、その上が住居になっている作りだった。曇天の薄暗さにツタの茂った店の白さがすがすがしい感じがして、私は踵を返して店のドアをくぐった。ただ名前は気に入らなかった。『閑古鳥』というのだ。シャレにしても、いただけないんじゃないか。
 カラコロと鳴って、ドアが私の入店を告げた。カウンターの奥でカップを磨いていた四十がらみの主人がいらっしゃいませと言った。その声にあいまいにうなづいて、私は店内を見回す。天井は思ったより高く、黄色い壁に、大きな帆船の模型がかけてある。六・七人座れるカウンターに、四人がけのテーブルが四つ。テーブルクロスは黄色と赤とがシンプルに組み合わせられたもので、地中海風という感じだ。
 私はノートパソコンを広げられるテーブル席を選んだ。
「テーブルクロスの黄色と赤は、どこかの国旗の色ですか」
 冷えた水をステンレスのトレーに乗せて運んできた主人に尋ねてみた。
「スペインです。黄金と血の色ですよ」
 なるほど、スペインだったか。国旗が由来だという直感が当たったのもうれしかったし、黄金と血が由来だという豆知識も気に入った。そう思うと広くない店内にもにわかに地中海の空気を感じるような気がした。雨模様のこんな日には、カラリとした雰囲気の店も悪くない。
 あまり空腹を感じていなかったが、料理を注文することにした。パエーリャもよさそうだったが、トルティーリャというじゃがいものオムレツが気を引いた。味覚がインスピレーションを触発するかもしれない。今月は半ばを過ぎて残りの小遣いが六万ある、と頭の片隅で計算しつつ、そのトルティーリャとコーヒーを注文する。
 ノートパソコンを広げて十数分、店主の妻とおぼしき女性が湯気の立つトルティーリャを持ってきた。喫茶店に似合わないシックな黒のドレス風の長いスカートで、きれいに高く結い上げた髪を解けばおそらく相当の長さになると思われた。手足は白く美しかったが、それ以上にか細く、男の私がちょっと乱暴に触れれば折れてしまうかのように見えた。
 料理の皿を音ひとつ立てずテーブルに置いた指先に塗られたマニキュアは翡翠のような神秘の緑。爪先は短く揃えられていたが、十分に美しい指だった。
「どうぞ、ごゆっくり」
 思わず、調理場の奥に消えるまで、この神秘的な女性の後ろ姿を私は視線で追ってしまった。
 ノートパソコンは閉じ、料理にナイフを立てる。
 不謹慎だと思いながらも、この店の主人と妻のことを私は考え始めていた。きっとこの夫婦に子どもはいないだろう。あのような細い腕では子育ては無理だ。第一、あのような服装や緑色のきれいな爪で子どもの世話はできない。それとも顔に似合わず中学生くらいの大きい子どもでもいるだろうか。いや、そんなことはきっとないさ。それにしても、喫茶店の手伝いというのはきっと時間をもてあますだろう。彼女は毎日をあの姿でどうやって過ごしているのだろう。
 ふとこの店の名前も気になった。閑古鳥というネーミングはスペイン風のこの店にはあまり似合わない。妻の名前をつけたほうがまだましなのではないだろうか。なんというのか知らないが……でも女性の名前なんてつけたらスナックになってしまうか。自分自身の考えに笑ってしまった。声を主人に聞かれていないといいのだが。店の名前の由来は、少し通って、聞いてみようかと私は思った。できれば、あの奥さんに――。
 そのとき、店の外の路地裏から、ピアノと、それに合わせて歌う声が聞こえてきた。
 店の二階で主人の妻が弾くピアノと、彼女の歌だった。声ですぐわかった。
 ――だが。
「下手、だな……」
 ピアノはともかく、歌の調子が微妙に外れるところがあって、聞いているほうがくすぐったくなる。歌が下手な芸能人の歌を聞くと私はいつもこんな感覚に襲われる。どうも、これは、だめだ……。
 私は手早く料理を口に運んで片づけ、ノートパソコンを鞄にしまった。窓の外を見ると雨もふたたびやんでいるようだ。
「アエラ、歌はやめなさい!」
 私がにわかに席を立つのを見た店主が奥に向かって声をあげた。
「すみません、本人はあれがお客様のためのBGMサービスのつもりなんですよ。この店を始めたとき、歌が下手なんでシャレてこの店の名前をつけてみたんですが、もう十年になるのに、なかなか上達しませんで……」
 支払いを済ませて店を出る際、主人が頭を下げて「またのお越しをお待ちしております」と言った。私はまっすぐ家に帰った。
 翌日は午前中にめったに使わないコンタクトで床屋に行き、スーツを整えた。その晩、両親に就職活動を始めると伝えた。髪に白いものがだいぶ増えた両親は涙を流さんばかりして喜んだものだった。
 その後、『閑古鳥』にはときどき足を運ぶ。自分の十年を思い出すために。あの歌を聞いてくすぐったい居心地の悪さに耐えきれなくなると、いつも私はそそくさと退散する。
 帰り道、体の奥にカッと灯がともるのを感じるのだ。
 後悔の苦みとくすぐったさのブレンドが、スペイン風の店で見つけた私だけの味である――。


-了-


※アエラ……ハーピーの名前Aello(疾風)より

(【コラボ即興文】投稿作品)
 書き出し:
 ◇ ◇ ◇

--路地裏の歌--

 雨が上がったころを見計らってアパートを出たはずが、いつの間にか雨雲が元気を取り戻して、西の方からゆっくりと、空を攻め始めている。住宅街の真ん中で降られるのはごめんだ。図書館までは、まだ距離がある。私は、足をはやめた。

 ◇ ◇ ◇


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