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2004.04.15

『無』(四枚)

 私の世界に無が入り込んでいる。
 それまで当然わかっていたはずのことが、わからなくなってしまう状態になってしまうことが、このところよく起こるようになっていたのだ。
 夜の駅のプラットフォームに立っている私は、突然、ここがどこで自分が何をしているのかわからなくなってしまった。見知らぬ世界にぽんと放り出されたような違和感に襲われる。動悸が激しくなり、脂汗がにじみ出てくるが、私は自分に落ちつけと言い聞かせながらひとつひとつを思い出していく。
 ここはどこだ? 赤羽駅、いつもの通勤のプラットフォーム。大改装を終えて昭和のたたずまいをすっかり脱ぎ捨てた近代的で清潔な空間。
 私は誰だ? 篠ノ井喜一。四十五歳のサラリーマン。今日は暑いのでスーツを夏用に替えてきた。ネクタイも数ヶ月ぶりの紺と水色のツートン。これから会社に行く。
 会社? 京葉商事。業績不振のためライバル会社だったニットーアと今春合併した。私はリストラの荒波をなんとか乗り越えてこうして通勤している。
 こうしてひとつひとつの記憶の粒子をつまんで拾うように思い出し、電車に飲み込まれていく人波の中の一滴の存在となっていく。私はこうしてつつがない一日にかろうじてしがみついている。無と戦いながら。
 次に無が襲ってきたのは日曜日のことだった。
 片側三車線ある大きな通りの歩道、私の隣に若い男が歩いている。彼が誰だかわからない。知り合いだろうか。それとも偶然隣を歩いているだけだろうか。
 こんなときの対処法を私はもう身につけていた。ふとしゃがみこんで靴紐を直すふりをする。隣の男がそれに気づいて立ち止まり、声をかけてきた。やはり私の知り合いだったのだ。
「どうしたの、お父さん」
 この言葉で私は思い出した。私立高校に入ったばかりの次男の啓二だ。なんだばかばかしい、毎日顔を合わせているはずの息子のことなのに、これはたんに度忘れというヤツだ。高校入学を機にせがまれてペットショップに行くところだった。
「なんでもない。ところでミドリフグというのはそんなに欲しいのか」
「欲しいよ。あれだよ、きっとお父さんもアイフルのコマーシャルみたいに生つばごっくんしちゃうよ」
「おいおい、変な言い方するんじゃない」
 会話しながら、私は今までになかった感覚をかぎとっていた。記憶が急速に遠ざかっていくのだ。自分が少しずつ無に飲み込まれていくのを感じていた。
 通りを見覚えのない大きな塊が車輪に乗って走っていく。奇妙な服装の人間たちが大勢、歩道を行き交っている。地面を覆う黒い固体、これは何だったか。
 隣を歩く見知らぬ男が私に話しかけている。
「今日はさ、貯金箱からお金を持ってきたからね」
 お金は大事だ。今の私にはお金のことで頭がいっぱいなんだ。
「ぼくたちもお父さんにお金を使わせないように気をつけるからさ」
 そうだ、お金を節約しないと。私には大事な家族がいるんだ。
「お父さんの仕事、早く見つかるといいね……あれ、どうしたの、お父さん」
 無が私を飲み込んでいく。
 私は無と戦わなくては……ならない……のだ……。
 
 
-了-


(三語即興:【無】【貯金箱】【フグ】 追加ルール【屋外でのお話にしてください】)

書いたのですが、四枚という長さになってしまい、お蔵入りに(涙)。
「五行~十五行」というのが三語即興の制限なので……。
しかもこの長さでもいろいろと不足がある気がします。
きっとこの倍でもちゃんと書くことがむずかしいお話なのだと思います。

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