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2004.04.02

『メープルの小道とサリンジャーの思い出』(四枚)

 
「バーネット教授の短編小説作法コースを受講してるんだって?」
 アーウィンがそんなふうに話しかけてきたのが私たちの知り合うきっかけになった。落葉の季節だったけれど、陽の光はまだ暖かく、マンハッタン島にある私たちの大学の周辺にも小道を並んで揺れる若いカップルの影がよく見かけられた。
 日本人の私にも気さくに話しかけてくれる人は、この国の最高の頭脳が集まったこの大学にもそう多くなかった。数十分間の文学談義ですっかり意気投合した私たちは、図書館のアテナイ神殿を思わせる威容と合衆国建国より古い歴史を抜け出して、今を楽しむ小道の影たちの仲間入りをした。メープルの落ち葉がさくさくと心地よい音を立てて笑っていた。
 アーウィンを私の古アパートに招待してごちそうしたときのことは忘れられない。今と違ってお手軽な炊飯ジャーはおろか日本の食材もほとんど手に入らない時代、学問のことしか知らない無知な娘の手料理に、彼は笑顔で応えてくえた。そのときだっけ、彼が小説になんかほんとうはほとんど興味がないってことがわかったのは。
「サリンジャーの『若者たち』も読んでないなんてことはないでしょう? 去年バーネット教授の主宰誌に載ったばかりよ。私、彼は絶対に大成すると思うの」
「ごめん、ジュリ、去年のはまだ読んでないんだ……」
 あきれた。図書館で話しかけてきたときの小説への並々ならぬ関心は何だったの。
 さり気なく着こなしているセーターやジーンズも、私の持っている服全部の値段より高いに違いなかったけれど、彼の人柄は私に引け目を感じさせることもなく、小説の話にも必死についてこようと頼み込むようにして私に前年の会誌を借りていく様子が私にはとても好ましかった。
「ほんとはぼく、短波通信に今は夢中だったりするんだ。物理をやってるんで、こないだの太陽フレアの増大の影響は興味深かった。国際無線通信も軒並み全滅してさ、デリンジャー現象って言うんだけど」
「サリンジャーじゃなくてね」
 私が冷たい声で皮肉を言うと彼はしまったという顔つきになった。『藪をつついて蛇を出す』っていうことわざを教えてあげようかしらと思って私は笑ったものだった。

「おばあちゃん、どうして笑ってるの?」
 孫娘のエリーに話しかけられて、私は我に返った。
 久しぶりに訪れた母校で、ついあの人との思い出にふけってしまったようだ。私ももうそれほど長くは生きないだろう。今年、二百五十周年を迎える大学は、ちょうど私たちの出会いの季節を迎えるところだった。
「なんでもないのよ。おじいちゃんもきっと、ここに帰ってこられて喜んでるわね……」
 孫娘が大事に抱えている写真と、私たちの影が、メープルの葉の上に長い体を仲良く揺らしていた。


-了ー
 
 
 
(『作家でごはん!』【三語即興文in鍛練場】投稿作品
 ルール:「サリンジャー」「デリンジャー」「炊飯ジャー」 追加ルール:「お笑い抜き」)


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