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2004.03.11

『神無月の蝉(八枚)』

 あいつのあのヘンな顔を見て、オレは恋をしてしまったってことなんだろうか。
 オレの淡い恋の顛末は、秋も深まった十一月のある日のこと。

 季節外れの台風で朝から大荒れになった日の四時限目、オレは期末テストと戦っていた。数学Ⅰの三角比。得意技が一夜漬けというオレにとっては、数学は苦手な科目だ。
 ゴオゴオという風と雨の音に教室の空気すべてが塗りつぶされる。
 騒がしさも限度を超えると静けさとも錯覚する。
 「閑かさや岩にしみいる蝉の声」なんていう有名な一句を思い出したりした。「閑かさ」への解釈が何通りかあるっていう国語の松本先生の話はおもしろかったな……。
 い、いかん、今は数学の時間だ。三角比の正弦定理と余弦定理を組み合わせるんだっけな、コサイン百八十度マイナス百三十五度だからマイナスの……ええと……。この「静けさ」は試験を受けるのに最適だってことはたしかだな、なんて思いながら問題を解く。
 なんて思っていたそのとき、カチカチという気ぜわしい音が耳に入ってきた。
 低音のゴオゴオの中にあって鼓膜を引っかかれるような、妙な違和感。
 ――カチカチ。カチカチ。
 かすかだが、気になり始めると邪魔であることこの上ない。
 そっと音のするほうを横目で見ると、隣の席の吉沢がシャープペンシルを何度もノックしているのだった。こいつはそこそこ美人で秀才だが、生意気なところがあるのが玉に瑕、という評価をオレはしていた。こういうタイプは「遠ざけざるも、近寄らず」と決めていた。何人かの男子はこっそり「委員長」とコードネームをつけて呼んでいるが、かなりイメージぴったりだ。コンタクトも持っているはずなのにいつもかけているメガネがイメージ作りに貢献していたかもしれない。
 手に持っているほかにも、机の上に予備とおぼしきシャープペンシルも転がっている。芯が詰まったか、それともほかのトラブルか。
 こんな優等生でもつまらないことで焦るんだなあと思いつつ、さりげなく吉沢の様子をうかがう。監督の先生が自分の科目の採点に没入しているのを確認しながら……。
 横から見るとまるで百面相だった。眉を大げさにしかめたと思ったら次の瞬間には泣きそうなほどにへの字にしてみたり。口がだんだんとがってきて、顔も紅潮してきたり。かと思うと一瞬ふっとあきらめたように力が抜けたり。
 優等生の吉沢のこんな顔って親でも見たことがないかもしれないナア、なんてふと思った。あれ、なんだろう、この感覚。オレは無意識に自分の胸に手を当てている自分に気づいた。
 いやいや、いやいや、こんなことをしている場合か、オレ。自分の問題に集中することにしようぜ、オレ。
 音の正体がわかっていれば、気になるということもない。オレは問題に集中してコサイン四十五度がルート二分の一、なんてやりはじめた。
 ――カチカチ。カチカチ。
 しばらくしてふと気づくと、まだ音がしていた。時計を見ると十分近く経っている。
 早く手を挙げて先生に鉛筆を借りればいいのに。高校入試の時に「消しゴムが落ちたりしても自分では拾わない」とか、「筆記用具を忘れたら友達に借りずに監督の先生に借りる」って入念に指導されなかったか? 
 でも、じつを言うと彼女の気持ちもちょっぴりわかるのだ。きっとあと少しでなんとかなると確信があるのに違いない。ここまで来てやめられるかという気持ちと、早く問題を解かなくてはという気持ちがせめぎあっているんだろうな。吉沢は数学だってよくできるから、十分やそれくらいのロスはなんとかなるという計算もあるだろう。
 ま、先生に筆記用具を借りるのは恥ずかしくもあるだろう。手を挙げても採点中の先生にはなかなか気づいてもらえないかもしれない。この嵐だ、ちょっとの声で「先生」なんて呼んでも聞こえなかったりするかもしれない。そうなっちゃったら、クラスの視線がたまらないよなあ。かといって大声を出すのも、先生のところまでずかずか歩いていくのも、こりゃあどっちも恥ずかしい。彼女もそんなことを考えて、焦る気持ちと天秤にかけているに違いない……なんてオレは思ったのだ。
 オレの手が自分の鉛筆を落とした。
 鉛筆はてん、てん、と軽く跳ねて転がる。
 なるべくさりげなくやったが、うまくいったと感じた。
 転がる鉛筆は、無音のまま嵐の中の静けさを横切って、吉沢の足に当たった。ちょっとしたモノクロ映画のワンシーンみたいだな。
 彼女は気づいたらしい。拾って、こっちを見る。
 オレは「拾ってくれてありがとう」のしるしに、片手で彼女のほうを拝んでみせた。彼女は返そうとしてくるが、オレは手を目の前でぶんぶん横に振った。よせばいいのに、下手なウィンクをして見せた。
 ようやく彼女もオレの意図するところを気づいたみたいで、ふっと表情が和らいだ……ように見えた。
 オレはしかつめらしい顔で、「どうぞ」という感じに掌を上にして彼女のほうに向ける。
 なんとなく、無音映画の世界、みたいな感じ?
 吉沢は鉛筆をゆっくりと丁寧な仕草で自分の机の上に置いた。それから両手を膝に乗せて、目礼とともに上半身を軽く折る。なんとなく和装の美人に似合う仕草だなあ、なんてオレは思った。
 このときのメガネの奥の吉沢の目、よかったな。
 オレは、なんとなく間が持たなくて、親指を立ててグッドラックのサインを送った。
 彼女も一瞬のまばたきのあとに同じグッドラックのサインを送ってよこした。
 オレと吉沢はこんな一瞬の相互理解のあと、数学Ⅰの問題に立ち向かう戦友になった。うん、こういう感じ、悪くないよな。オレたちは眼前の敵たる三角比の問題に意識を集中した。
 休み時間に吉沢がオレに鉛筆を返しに来た。
「ありがとう。すごく助かったよ」
 彼女の声は女子にしては低音だけれど、芯の強さを感じさせるところがある。
 こいつとこんなふうに会話するのって、四月以来初めてだよなあと思いつつ、
「いいよ、貸しておいてやるよ」
と言ったら、ちょっと意外な言葉が返ってきた。
「ううん。悪いけど、小篠くんに別のシャープペンシルを借りたから……」
と少し目をそらせて彼女は言う。
 ちょっとの間、オレは無言になったんじゃないだろうか。
 小篠、あの野球部の。
 そいつにシャープペンシルを借りたということは……?
 そうか、そういうことね、あはは。
 小篠のスポーツ少年そのものといった顔が思い浮かぶ。さっぱりした短髪、標準体型のオレよりも少し低めの背丈、成績はすごくいいってわけじゃないけど、野球部のきつい練習の毎日にしては悪くない方だ。事実数学のできは小篠のほうがオレよりも上だ。派手さはないけれど、努力家って感じが男のオレから見てもすがすがしい。うん、ああいうタイプに惹かれる気持ちもわからなくもないかな。
 オレも三学期の数学はもう少しがんばってみようかな、なんて思ったけれど、言うは易く行うは難し。あまり変わり映えもしないまま、二年生になりオレは文系コースに、吉沢は理系コースにと、クラスも別れた。それから、夏が過ぎてまた十一月がやってきても、特に親しく会話することはなかったな。

 オレの淡い思いはこんな風にして、淡いまま、どこかへ消えていった。
 別に、なんでもない、ほんのわずかの時間のことなんだけどさ。
 なんとなく、このことをずっと忘れないだろうなって気がする。

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