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2004.02.29

『墓守は横たわる(十七枚)』

 年老いた墓守の男が、横たわり、死を迎えようとしている。
 世界有数の大山脈の、湖を見下ろす絶峰。
 ただ静けさと時間の流れだけがあった。
 孤独の中にあって、彼はこれまでの一生でもっとも安らかな気分だった。
 太平洋を偏西風によって流されてきた雲が手の届きそうなほど近くを通り過ぎていく。
 墓守は自分の一生を思い出していた。
 記憶を彩るのは、誰もいない大山脈の深奥から響く声――。

 ごく若い頃から、男は「人の痛みがわかる者」だった。
 比喩ではない。彼は字義通りに他人の痛みがわかった。
 彼の目の前にいる人が、頭痛に苦しむ人だったとする。彼にはその痛みを感じとることが実際にできた。じっとその人のことを見つめると、彼の頭はずきずきと痛みを感じはじめるのだ。 
 他人に意識を向けると、その人の体の痛みが自分のものとして感じられる。そんな特質であった。
 いつからそんな性質を持っていたのかは彼自身も覚えていない。ずっと前からそうだった。
 子どもの頃は誰にでもそういうことがわかるのだと信じていたことがあったから、ほんの小さいときからだったのに違いない。ひょっとしたら生まれつきなのかもしれない。
 他人の痛みがわかるのは、集中する少しの間だけであった。胃痛の人なら彼の胃もきりきりと痛む。水虫の感覚で足がどうしようもなくむずがゆくなったこともある。耐えられなくなる前に意識をほかに向ければ、痛みもかゆみも消えた。
 早いうちから彼は医者になろうと決めていた。医者になってこの特質を生かすべきだと思ったのだった。
 
 彼は学力に秀でていたので、医者になるための順当なステップを上がっていった。
 学校ではいつでも保健衛生委員をやり、よく務めた。彼は物事に熱中するような性格ではなかったのだが、委員の仕事は誰よりも完璧にこなした。
 高校に進学するころには、自分の特質を生かして社会に貢献するという目的のほかに、もう一つの目的ができた。その目的とは、仲間探しだった。
 彼はひそかに自分と同じ特質を持つ仲間がほしかった。そんな人間がほかにいればきっと自分と同じような道を目指すと考えたので、学校での保健衛生委員の仕事や医者というのはチャンスがあるかもしれないと考えた。しかし、残念ながら仲間はいなかった。少なくとも彼の一生を通じて出会うことはついになかった。
 時には自分だけがどうしてこのような特質を備えているのだろうと考え込むこともあった。いや、いつもどこかにその疑問があって、ずっと離れなかったというほうが正しい。
 のちの人生でそのような疑問を感じる時、高校生のときに死んだ父親との会話をいつも思い出したものだった。答えの断片のようなものがそこに見えるような気がしたのだ。
「地球は生きているとか、この惑星それ自体にも意志がある、なんて言われることがあるだろう?」
 こんな風に父親が言ってきたのは、何の会話のはずみだったか。
「あれは真実だと、私は思うよ。なぜなら、私たちを構成している原子や分子は、地球の一部だからね。つまり私たちが実際に生きているってことは、たしかに地球の一部分が生きているってことだからね」
 男は父親の言葉をうなづいて聞いた。
「私やおまえは地球の全体ではないけれど、その感覚器官ではあるんじゃないかな。地球の目であり耳である、そんな存在かもしれない」
 この言葉をずっと覚えているのは、なぜだろう。

 男はやがて大学に進み、そこでも優秀な成績を修め、医者になった。整形外科を選んだのは骨や関節に興味があったからだ。人体の構造の基幹である骨格には彼を引きつける何かがあった。そのことも最終的には彼の人生の意味に何かつながりがあったのかもしれない。
 彼は地域でもっとも大きな総合病院に勤務することになった。
 しばらくは仲間探しもした。だが、たくさんの医者と患者とに出逢ったものの、自分と同じ特質を持つ人間のうわささえ聞かなかった。時とともに、仲間探しのことを彼は忘れた。誰しもがまったく人と同じようにすべてを感じるわけではないとわかったからかもしれなかった。感覚の鋭敏さに個人差があるということを知ると、自分の特質もさほど気にならなくなっていった。
 それよりも、患者の苦しみを理解しそれを取り除く仕事に就けたことをうれしく思うのだった。痛みがわかるという特殊な性質は実際に大いに役に立ったので、自分の天職はまさにこれだったのだと確信した。

 しかし、何年か経ったある日、男の人生に大きな転機が訪れることになる。
 ちょっとした手術でメスを使ったときだった。
 痛い。
 これまでは手術をしているときでも、感じようとしない限り痛みは伝わってこなかった。このときは何もしていないのに、痛みを感じたのだ。
 男は驚き、はじめは自分の体が実際に痛むのかと疑った。しかし、メスで切った場所だけが痛い。切っただけ痛い。患者には麻酔が効いているというのに、痛いのだ。
 手術が終わったとき、ふと見た鏡の中には脂汗にまみれた土気色の顔があった。
 これまでに一度もないことだった。
 疲労や体調不良のためかとも思ったが、どんなに調子が悪くても似たようなことは過去にはなかった。
 それからは、ますます痛みの伝わりはひどくなった。彼の精神は衰弱した。
 手術の直後の患者からの痛みの伝わりはことのほかひどかった。手術室には近寄らないようにしていたが、偶然出くわすことは避けられなかった。あるとき顔を包帯で覆われた患者に出くわしてしまった。視覚に患者が飛び込んでくるのと同時に、彼の顔にメスの感触が走った。冷たい金属の感触が男の皮膚の下をすべり、べろりと剥がれた皮膚の下にあるみずみずしい筋肉を刃が容赦なく切り裂いた。
 彼は悲鳴を上げて逃げ出した。職員も患者も大いに驚き、彼の奇行をまじまじと見た。
 なんとなく気づいていたことが、この頃には男の心の中ではっきりしてきていた。
 総合病院の中にあって、心が惹かれる場所がひとつあったのだ。そこに行かなければ。
 体の痛みや苦しみを感じずにすむ場所。そして不思議と心が安まる場所。
 薄暗くて冷たい空気に満たされた通路。
 その先にあるのは、霊安室だった。
 はじめは人の目を避けるようにその場所に向かい、その部屋の扉の前でほんの数回の深呼吸をしてみただけだった。
 そのときはひどく落ち着いた。
 このときも彼は霊安室への通路に飛び込んで、くずおれた。顔をかきむしって大声を挙げて泣く姿を、心配して追いかけてきた同僚が目撃した。
 彼の感覚の変化は今や一時的なものではないのが明らかだった。恒久的に変わってしまったのだった。時間を少しさかのぼった痛みの記憶も感じ取れるようになったし、総じて、感覚がより鋭敏になっていたと言える。痛み以外の感触もわかるようになっていた。皮膚と筋肉の間にすべりこむメスの冷たさをその後も時々思い出しては戦慄した。
 男は医者を辞めた。
 彼の特殊な体質の変化のうちもっとも大きな点は、生きていない体からも何かを感じとれるようになったことだ。つまり、永遠の眠りを眠る体の記憶。
 命を失った肢体に意識を向けると、何かの波動が感じられるのだった。
 意外なことに、それは死を迎える苦しみなどではなかった。
 もう生きてはいない体から、安らぎの波だけが伝わってくる。あらゆる痛みと苦しみから解放されて、無機物にゆっくり還っていくだけの、使命を終えた者の安らぎの波だった。
 辞意を伝えると、男の近況を知る周囲の人間からは異口同音に精神科の診察を勧められたが、彼はそうしなかった。
 かつて委員の仕事や勉学に励んだように、今の彼にはやるべきことがあったのだ。それはあの安らぎの波動を少しでも多く感じ取ることだった。自分のやるべきことが医者ではなかったとしたら、べつの答えを見つけなければならないと思っていた。
 国中を回って葬儀という葬儀に立ち会った。
 死を迎えた者の体が発する解放と安らぎの波動を浴びてみた。
 その人の生きていたときに感じたもっとも安らいだ気持ちの記憶が、彼に伝わってきた。それは心地よくまたほかのことでは得難い感触だった。
 だが、まもなくそれも実行がむずかしくなった。
 感覚がますます鋭くなって、日常生活にも支障をきたしはじめていたからだ。生きている体が発する感覚が、男に流れ込んでくるのだ。
 この頃にははっきりと、痛み以外の感覚を受け取るようになっていた。もっと弱くかすかな感覚、たとえば触覚、味覚、嗅覚……などまでも、少し近づいただけで感じられるようになってきた。着ている衣服の感触や、食べ物の味などが無差別に脳に入ってきて混乱した。
 さらに視覚や聴覚までもがうっすらと彼の脳に流れ込んできてしまった。自分の目で見ている景色に他人の視覚がかぶさってくる。自分の聞いている音に他人の聴覚が押し入ってくる。こうなるに及んで、彼は生きている人間に恐怖を感じるようにすらなってしまった。人混みを避けてはいたものの、痛みや苦しみなどの強い感覚が伝わってきて悲鳴を上げて逃げ出したことも再三再四に及んだ。
 そのころには、命を失った肢体からの波動にもますます敏感になっていた。これらは非常に弱々しく決して彼をわずらわせなかったし、いつでも甘くゆったりとした安らぎの波だった。
 命のない体に感覚を集中すると、その体が元素に還るまでの間に見る夢のような記憶を感じ取れるようになっていた。生きていた頃のもっとも愉快で安らかな記憶を思い出しながら、生きてはいない体は朽ちてゆくのだ。その共感はとても甘美だった。
 彼はあまりにも人が多い自分の国を出ることにした。出国は生きている人の感覚に襲われる苦痛だが、その苦痛に耐えられるうちにやらなければならないと思った。
 それから年老いるまでの長い年月を、男は外国の田舎町で過ごした。
 土葬が認められているその場所では、体が無機物に還るまで時間がかかる。
 墓の中で命なき肢体の見る夢もまた、長く続く。
 男は何年も墓守として過ごした。
 死という眠りについたものたちが見る、甘美な夢とともに。

 何十年もの月日が経ち、男が自分の死期を悟る頃のことだった。
 世にも珍しい天変地異が彼の住む町を襲った。
 大嵐が吹き荒れたその日、空から大量の魚が降ったのだ。
 町の歴史にかつてないほどの暴風雨の過ぎ去った翌朝には、屋根にも、道にも、墓地にも、銀色のきらめきが敷き詰められていた。町の人たちはこの奇景に最初はただ驚き、そして次に嘆いた。昼になり太陽にさらされれば町を魚たちの腐臭が埋め尽くすだろう。
 男は家の窓際に立ったまま一時間以上も外の景色に釘付けになり、それからふらふらと町を歩いた。まるで何かの意志を受けたかのような足取りだった。
 彼はいちばん大きな通りにうつぶせに倒れ、微動だにしなかった。何時間も、太陽がすっかり高く昇るまで彼はそうしていた。くるぶしほどの高さにまで魚たちの絨毯は積もり、彼の顔と言わず体と言わず魚鱗が付着した。彼自身が魚になったようだった。
 男はこの異国の町でもやはり心を病んだ者だと思われていたが、それでもこのふるまいには誰もが眉をしかめ、また、畏れた。しかし彼にはもう生きている者たちのことは感覚からまったく除かれていた。
 長い間墓の下にだけ向けてきた自分の意識を、男は敷き詰められた銀色のきらめきにだけ向けていた。
 男は、銀色の生き物たちが命を失う前に見た記憶を浴びていた。
 体を銀色のきらめきにうずめるように横たえると、ますます鋭くなった感覚は、その生きていた頃の記憶をはっきりと彼に伝えた。
 彼は赤道から流れる暖流に乗り、大洋を旅していた。
 波間から差す日の光のカーテンの隙間に体をくねらせた記憶。海底から巨大な黒い体をそびえさせるケルプの森。仲間たち。大陸への到達。
 今はもうどこかに消えた命が見た記憶が、いくつもいくつも彼の意識を通り抜けていく。
 数万匹もの魚の群れの生きてきた記憶を彼は感じることができた。
 いつかの父親の言葉を思い出す。
「私たちは地球の目であり耳なのかもしれない」
 地球の記憶を感じとることが自分にはできる、そのことにやっと気づいた。
 銀色の夢を見ながら、男は自分の死ぬべき場所を決めていた。

 年老いた墓守の男が、横たわり、死を迎えようとしている。
 世界有数の大山脈の、湖を見下ろす絶峰。
 ただ静けさと時間の流れだけがあった。
 孤独の中にあって、彼はこれまでの一生でもっとも安らかな気分だった。

 そこは五億年以上も前の生物の化石がたくさん眠る場所だった。世界中の研究者が訪れ、その記憶の断片を発掘して思いを馳せてきた。
 学者たちは言う。現存するほとんどの生命の原型が作られたのが五億年前、カンブリア期という時代だったのだと。大いに繁栄し滅んだ生物もまたたくさんいたのだと。世界中の海を庭として繁栄したサンヨウチュウ。その当時並ぶもののない獰猛さを誇った肉食生物アノマロカリス。進化の過程で彼らはひそやかにその姿を消し、今やその体を岩の間に刻印するのみだった。ヒトを含むすべての脊椎動物の祖先が現れたのもこの時代のこと。生命の原点とも言えるこれらの化石が大量に、まだその大部分を地中に身を潜めている。
 この大山脈は、化石たちの墓標だった。
 そして今も地底には彼らの命を失った体が物言わず眠っている。それらはこれまでの何億年も朽ちることなく大地に眠ってきたし、またこれからも長い年月を同じように過ごすと思われた。誰にも知られることのない眠りになるはずであった。
 この場所が男が暮らした町からそう遠い場所ではなかったのは幸運だった。
 いや、そもそもの始めから彼はこれらの命を失った者たちの眠りに引きつけられてこの地にやってきたのかもしれなかった。
 誰にも知られないように山を登り、青みがかったグリーンに映える湖を見下ろす場所を選んだ。
 自分一人が収まるだけの穴を掘る。そして身を横たえた。
 墓守は亡き父に話しかけた。自分の一生の意味とは何だったのだろうかと。父の声は返ってこなかった。だが、感じることそのものが自分の役割だったのだと思った。最期まで、ただ感じること。
 目を閉じるとかすかな、ほんとうにかすかな景色が感じられる気がする。太古の海の感覚とそこに息づいていた生き物たちの感覚が伝わってくる。
 無数の声はだんだん遠くなっていく。
 遠くなり、しかしはっきりと無数の命が結びつき、絡み合い、大きなつながりを作っていくような気がする。
 ひとつの大きな命の声が聞こえる気がする――。

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