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2004.02.15

『イヌの孵る卵の小景』(十八枚)

 夜店でイヌの孵る卵を売っていた。

 中学生になっても「暗くなる前に帰りなさい」と言われている私には、少し遅い時間だった。たとえお祭りの日でも、私はきちんとルールを守るところを大人に見せなくてはいけない。だからちょっとそわそわしていたと思う。
 「イヌの孵る卵」という奇妙な言葉を見かけなかったら、夜店になんか目もくれないで家に帰っただろう。
 その店は、ぎらぎらした裸電球がたくさん下がっていた。まるで肥満児がまとめて梁からつり下げられたみたいだった。きっと裸電球のせいで暑苦しかったから連想したんだと思う。
 カラフルに色づけされた卵が、たくさん並んでいた。発泡スチロールの上におがくずが敷いてあって、卵たちの寝床になっていた。大きさはまちまちで、私の眼球から頭骨くらいまでいろいろ。色も赤や青や黄色の原色、象牙みたいな白や磨いた黒檀の色、どれもとてもきれい。
 看板は無造作に切り取られた段ボールだった。
 達筆で『イヌの孵る卵あり桝』と書かれている。
 おかしなことも世の中にはあるもんだ。ホニュウ類は、人間でもイヌでも母親から生まれてくるはずなのに、卵とは。
 そんなことを思いつつ、でも卵からイヌが孵るところを見たいとも思った。
 店の中にばあちゃんが一人いるのに私は気づいた。ほとんど真っ白に近い灰色の髪をつややかに結い上げて、渋茶色の着物を固く着込んでいる。その人はとてもやわらかい感じがした。顔のしわもそういう感じだし、しわと見分けがつかないほどの細められた目もやわらかそうだった。ばあちゃん、暑くないのかなあと私は思った。
「どんなイヌに会いたいの?」
 ばあちゃんが言った。
 あとから思っても、ちょっと変な言い方だった。ふつうはどの卵がほしいの、って聞くと思うのだけど。
 そのとき、私の中にふっと一匹の犬のことが思い出された。
 私は心の中に浮かんだことをそのまま口にした。
「コータが生まれる卵はありますか?」
 イヌが孵る卵があるんだったら、もしかしたらその中にひとつくらい、コータの卵があってもいいと思った。
 ばあちゃんはを糸のような目で私の顔をじっと見てから、カラフルな卵の上を手探りするように指でなぞっていった。それからひとつ卵を選んで差し出してきた。
 コータの卵があったのだと私にはわかった。百円玉を二枚財布から出し、小銭がじゃらじゃら入ったボール紙の箱の中に入れた。店主のばあちゃんから卵を両手ですくうようにして受け取った。
 ばあちゃんが選んだのは、ニワトリの卵よりは二回りくらい小ぶりのうす汚れたような感じの卵だった。白地に大きな茶色のブチがついた卵だった。
 いろんな卵の中にあって目立たない、価値のなさそうな卵。
 コータと同じ茶色のブチの卵だった。
 私は腕の中で卵をぎゅっと抱きしめた。
 またコータに会えると思った。

 コータとは三年前、私が小学四年生のときに別れた。
 引っ越しの時にいなくなってしまったのだ。両親はきっとどこかで元気に生きているよと言った。でも、少し経ってから聞いたら、コータはきっと天国で美夜子のことを見ているよと言った。
 捨てられて野良になった犬は保健所で殺されると私が知ったのは、もう少しあとのこと。
 私は家の裏手に土盛りをして「コータの墓」と書いた木ぎれを立てた。

「美夜子、何を大事そうに抱えているの?」
 予備校から帰っていた高校生の兄が、聞いてきた。
 リビングのテーブルでノートパソコンを広げている。
 高校生にもなると、お祭りにも興味がないようだ。今年から父の名義で株式投資をはじめたそうで、それに夢中になっている。暇さえあればネットで自分のポートフォリオを開いている。
 兄に言わせると、
「お金は卵を産むんだ。育ててやるとどんどん大きくなるんだよ」
だそうだ。
 コータの卵のことを教えたら、なんて言うだろう。
 私は兄の隣の椅子をテーブルから引き出して、そこに腰をかける。
「コータにまた会えるよ」
 そう言うと、兄は私と、私の掌の中に隠されて見えない物体とに視線を往復させた。
「コータは生まれ変わってくるよ」
「手の中のものは、何?」
 私はふふふっと唇から含み笑いを漏らした。
「イヌの孵る卵だよ。さっき夜店で買ったんだよ」
「卵? きっとニワトリとかのじゃないの」
「違うよ、ちゃんとコータの卵だもん。私が何も言わなくても、茶色のブチのあるのをくれたよ」
 兄は少し思案顔になった。
「美夜子、生まれてくるのがもしニワトリでもコータだと思えるのかい」
「うん、生まれてくるのは絶対にコータだもん。何が生まれてきても私はコータって名前にする」
 指を一本一本ほどいて、兄に卵を見せた。
「美夜子……」
 あれ、どうして兄は悲しそうな顔をしているのだろう。
 兄が私におおいかぶさるようにして私の背中に腕を回した。
 白いシャツの胸が目の前にひろがった。
「コータはね、生まれ変わってくるんだよ。私たちに会いにくるんだよ」
「そうだな、美夜子。そうだな……」
 兄はしばらく私を抱きしめていた。
 私がぼーっとした頭でリビングを離れると、帰ってきた両親の声が後ろから聞こえてきた。おかえりの挨拶ができる子でなくてはいけない私は、「おかえりなさい」と言ったけれど、きっと精気のない声だったと思う。
 胸の中の空気にここちよい汗の匂いが残っていた。
 部屋に入ってから、肺の中の空気をゆっくり入れ換えた。
 私のたった一つのルール違反が両親に見つからなかったことに、心底安心した。

「美夜子はコータの卵を買ったんだって?」
 夕食をとりながらそう言う父の顔はちょっと青ざめている気がした。もう何年かの間、父はこういう顔色をしていることが多くなった。いつ頃からだっただろう。何かにおびえているみたいに見えるので、どうにかしてほしい。
 私は返事をする。聞かれたことには答えなさいというのが我が家のルールだからだ。中学受験をはじめた頃から少しずつ増え続けたルール。
 わずかな秘密を隠すため、私はそれらを守らなければならない。
「買いました」
 背筋は伸ばして。声は大きすぎず、でもはっきりと。私は完璧にそうした。
「そ、そうか。私も子どもの頃に夜店でヒヨコを買ってきたことがあったっけなあ」
 父の話は質問ではなかったので、私は口をはさまずに食事を続けた。母が作った栄養のバランスと頭脳の成長促進に最適のメニューだ。私はときどき同級生たちが話題にする自分の家の料理の味自慢に加わったことがない。愚痴のこぼしあいにも、同じ。
 サラダの上に乗っかったゆで卵のスライスが私を見透かすように見つめているように思えて気持ち悪かった。私は視線のど真ん中をざっくり箸で突き刺すとレタスの葉っぱの下に押し込んだ。
「あの怖いばあちゃんがなあ、もともとのつり目をもっとつり上げて怒ったよ」
 父は陽気に感じられなくもない口調でしゃべっている。
「卵を産むから飼ってやってと頼んだけれど、ばあちゃん怖い顔で、夜店で売っているヒヨコは全部オンドリで卵なんか産まないんだ、とね」
 仏壇の中のばあちゃんか……あれ、ばあちゃんはどんな顔だったろう。怖いつり目の人だったのは覚えているけれど。いつも着物を着ていたことくらいしか思い出せなくなっていた。
「そのヒヨコも、コータみたいに死んだの?」
 ひと言だけ言ったけれど、誰も答えなかったので、私はごちそうさまと言って部屋に戻った。私に押しつけられたルールに父や母は従わなくていいらしい。兄と私だけに押しつけられたルール。兄と私だけが守っている、兄と私とを一緒に縛り付けている意味のないルール……。このごろの私にはその束縛も少し心地よく思えてきていたのだけれど。
 私が去ったあとのリビングでは、父と母が二人がかりで兄を問いつめていた。
「あなたは美夜子の卵というのを見たんでしょ」
「……」
「なんだって。それは卵じゃなくて犬か何かの……じゃないのかい」
「まあ、気持ち悪い!」
「困ったな……」
 私の耳にはもう聞こえていなかった。

 私はその晩から卵を抱き始めた。
 イヌの体温は人間より高いんじゃなかったっけ。それに、何日くらいで卵が孵るんだろう。店主のばあちゃんに聞いておけばよかった。明日までがお祭りだから、また行ってみようと思った。
 翌日その場所に行ったら、お好み焼き屋になっていた。あたりの人に昨日の店のことを聞いてみたけれど、誰も知らなかった。
 卵が孵るまで自分で温めよう。そう思った。いつもハンカチにくるんで肌身離さずにいることにした。いつ孵るだろう。私はコータに会えるときが楽しみだった。

「美夜子、言いにくいんだけど……」
 兄が珍しく遠慮がちな声で話しかけてきた。普段はまったく似ているところはないのに、なぜか少し父に似ている気がした。やめてほしい。
「お前の部屋、少し臭わないか?」
 私はこんな兄を見たくなかったので、返事もせずに通り過ぎた。幸い父も母もそばにいなかったので私が質問に答えなかったところは見られていないはずだった。
 父も母もこの卵のことを気にしているみたいだった。
 私は自分なりに少し調べて、卵について書かれているウェブサイトや本で知識を仕入れていた。卵というのは雑菌から守られているはずだから腐ることはない。だから臭いなんかするわけがない。
 卵のことをあれこれ言うのはやめてほしかった。
 私はそれから学校に卵を持っていくときには、消臭剤に使われている活性炭を敷いたハンカチで三重にくるむようにした。夜店でのおがくずがヒントになった。

 ある日、お風呂から上がって部屋に戻ると、卵がなくなっていた。
 代わりにベッドの上には真っ白な綿毛のかたまりがいた。マルチーズの子どもだった。
 誰かの演出だということはすぐにわかった。私は心臓が一回だけ破裂しそうなほど胸の中を跳ねたのを感じた。
 綿毛のマルチーズは足をもつれさせながらも尻尾を振って近寄ってくる。私は無言で抱き上げた。小さな生き物だから、そっと扱った。
「オスね」
 性別を確認して、この子の名前を考えることにした。
 一時間後にマルチーズと一緒にリビングに行った。父と母と兄がいた。でも、三人とも私が入っていってもテレビから目を話さず、お互いに言葉も発しなかった。どことなく白々しくて、ぴりぴりとしていた。その雰囲気が心地よかったので、私はそのまま椅子に座り、マルチーズをなでていた。
 兄の顔が赤く腫れていた。卵がなくなったのは父と母のせいに違いなかった。兄はきっと反対して殴られたに違いないと思った。
 その夜、兄が部屋に来て私に謝った。コータのことごめん、と。三年前のことを言っているのじゃないとわかった。兄はコータの卵が死んでしまったのを謝っているのだと。
 私は気の毒な兄の頭を膝にのせ、いいんだよ、と言った。
 そっとぬぐってやった兄の涙はしょっぱかった。
 私の爪の間にわずかに残った土に誰も気づかなかった。マルチーズを見つけてからすぐ窓から外に出た私は、墓の盛り土の表面が新しくなっているのを見た。十分以上かけて素手で掘り返したのだ。だから私はコータの卵がもう死んでしまったのを知っていた。
 でも、父と母とにはそのことは知られたくなかった。
 コータについて私が知っていることの何もかもを、知られたくなかった。
 そして私はこれからも父と母の前ではルールを守り続けるだろう。偽りを隠すために。

 偽りは隠されたまま、日が経った。
 一度仏壇の前で父と二人きりになったことがあった。
 父に話しかけられてしまったので部屋に戻ることができずにしばらく話につきあった。三年前には兄が高校受験の年で私も中学受験の塾に通い始めたばかりだったことや、引っ越し先のこの家では庭がほとんどなかったことを言われた。あのときはいろいろとたいへんだったと言われた。
 私はただ仏壇を眺めていることしかできなかった。
 なんのために仏壇の前にいるんだっけと考えていた。そうだ、ばあちゃんの顔を思い出すためだった。仏壇の中のばあちゃんは怒っているような目をしていたけれど、死ぬときよりかなり若い顔で、私の覚えている顔とは違う。
 ばあちゃんは死んだときにはもっとしわくちゃの顔で、そしてもっとやさしい顔だったなあと思った。
 夜店で会ったのは、ばあちゃんだったんだ。
「美夜子、犬の名前はコータにするんだろう」
 ふいに父に問いかけられた。私は質問されたら答えなくてはいけない。
 あとでコータの墓に行こう。
「いいえ。お父さんが決めてください。でもコータ以外の名前がいいと思います」
 そう言ってトイレに向かった。気持ち悪くなってきたからだ。
 ひとしきり吐くと、元気が戻った。
 玄関から出る。スコップを持って裏手に回った。
 意外にも先客がいた。
 兄だった。
 お線香をあげている。
「おい美夜子」
 後ろから父の声がする。追ってきたのか。
「兄ちゃん、もうここにはコータはいないの」
 スコップを突き立て、盛り土を崩していく。
 線香も墓標も、塗り込めるようにして土で覆っていく。真っ平らになるまでならしたから、あのときに埋められた卵もしっかり大地に塗り込められただろう。
 父が何かを言っている。ちゃんと卵は孵ったんだから、墓はいらないんだね、なんて言っているみたいだった。
 父は間違っている。
 いや、偽っている。
 あの卵は死んでしまった。
 コータはまた、死んでしまったのだ。

「兄ちゃん、美夜子のこと、好き?」
 私は兄に聞いてみた。
「ああ、好きだよ。ずっと」
「コータのことも……?」
「……」
「また生まれ変わってきたら、今度はコータを守ってくれる?」
「うん、守るよ」
 信じるよ、兄ちゃん。
 振り返ると父の隣に母もいた。私は部屋で休みます、と告げて家に入る。
 おなかにそっと手をあてる。

 コータの鼓動が聞こえたような気がした。
 たとえ何に生まれ変わってきても、私はコータのこと、わかるよ。


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Comments

しろさん、コメントありがとうございます。
未熟な作品なのに、とても真剣に読んでいただけて、幸せな作品になりました。
作者としてもいちばんうれしい一瞬です。
緊迫した感じ、たぶん家族の間の空気のようなものだと思います。感じ取っていただけてよかったなあと思います。
情景描写についても、また、出来事をわかりやすくする点なども、これからも勉強を続けたいと思います。


Posted by: おづね・れお | 2004.04.26 at 11:14 PM

 初めてネット小説を読みました。この小説を読んでみようと思ったのはただ犬の話だったからなんです。こんな子が感想を書いちゃうなんて失礼だと思うんですけど、率直な感想を言います。
 ストーリーはとても面白かったです。読み始めからは想像できない展開だったし無理のない展開なので物語にはいっていきやすかったです。主人公が冷静な目線だったので余計緊迫した感じがしました。すこし気になったのは情景描写です。特に最初の屋台の場面はあまりよくなかったようなきがします。何が悪いかとかはわかんないんですけど…。
 本当に失礼なこともいってしまいましたけど、面白いのにもったいないとおもったからです。また楽しみにしてます。

Posted by: しろ | 2004.04.26 at 10:26 PM

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